25. 満月の取り下げ
三十日目の未明は、夜の名残まで凍らせるように、いつもより冷え込んでいる。
吐く息が白くほどける。石畳には薄い霜が降り、靴底が触れるたび、乾いた硬い音がまだ眠る街へ響いた。空には丸い月が、夜を手放しきれぬように残っている。今夜、あれが完全に満ちる。
辻でグスタフどのが革の紐を外し、差し出された環へ、わたしが組紐を通す。二重に回し、指先に力を込めて固く結ぶ。こうしてこの方と朝を歩けるのが、あと何度なのか。それだけは考えないことにしている。
「本日も、条例のぶんを」
「……はい」
黒犬は今朝も、いつもの半歩前を歩いていく。
昨日も、その前の日も、この方はこうして半歩前を歩いている。歩幅も速さも、いつもと同じである。角を曲がる場所も、坂へ入る前のかすかな呼吸も、二十日あまり前と何ひとつ変わらない。明日も同じ朝が来るように続く、その変わらなさが、今朝はいちばん怖い。
丘の頂で鐘が鳴る。冷えた朝の空気のなかに光がほどけ、黒犬の輪郭を包み、人の姿へと静かに組み直していく。
やがてグスタフどのが、肩に決裁箱を担いで坂を上がってくる。
――蓋が開く。けれど、中には何も入っていない。
「空でございます」
「そうか」
「箱は、休みませんので」
家令どのは、空であることなど初めから承知していたようにそう言い、決裁箱の蓋を音もなく閉じる。
人の姿に戻った彼はベンチに腰を下ろし、朝靄の向こうに沈む王都を、長いこと見つめている。今夜のことは、何ひとつ口になさらない。わたしも訊けない。訊けば、この方はきっと答えてしまう。その答えを聞いてしまえば、平気な顔で隣にいられなくなる。
朝の光が丘のへりからこぼれ、草の葉を舐めるように広がってくる。その光に照らされ、この方の頬の雪焼けが、少しだけ赤みを増して見えた。人の姿のこの方を、わたしはあと何度見られるのだろう。そう浮かんだ問いが、冷えた息よりも苦く喉につかえる。
……数えない。今日だけは、数えないと決めている。そうしなければ、まだ来てもいない別れに、今ここにある朝まで奪われてしまう。
「北の荷は、峠を越えましたか?」
「明日には越える。……三日と言ったろう」
「はい。数えておりました」
やがて、王都から目を離さないまま、彼が静かに言う。
「今夜も、あなたの言葉は、あなたのものだ」
「……はい」
「それだけだ」
鐘から一刻。差し込む光のなかで人の輪郭がゆっくりほどけ、見慣れた黒い犬の姿が戻ってくる。
辻で組紐を外すと、グスタフどのが革の紐を環へ着ける。それでも黒犬は立ち去らず、わたしの手のひらを、ひとつだけ鼻先でそっと押した。
濡れた鼻先が、痛いほど冷たい。その小さな触れ方だけで、堪えていたものが内側からせり上がり、わたしは危うく、言ってはいけないことを口にしそうになる。
「……行ってらっしゃいませ」
喉の奥でほかの言葉をのみ込み、どうにか言えたのは、それだけである。
◇
その日の夕、母はわたしの髪をいつもより丁寧に結い上げ、編み終いを組紐で留めてくださった。簪も、この前の夜と同じに一本余分である。髪に触れる母の指は迷いなく、それでいて引く力だけが妙に優しい。母は今日も、何もお訊きにならない。その沈黙に守られていると気づくほど、目の奥が熱くなる。
「行ってらっしゃい」
「……はい。行ってまいります」
◇
その夜、王宮の大広間には、見上げるほどの壇が設えられている。
白い布を隙なく掛けた三段の壇である。灯りを受けて浮かび上がるその白さは、祝いのためというより、逃げ場のない覚悟を照らすように見えた。あんなものは、去年の戴冠のときにしか見たことがない。
壇の下には、王都じゅうの目が集まり、まだ誰も立っていない壇を刺すように見つめている。蝋の火が壁一面に並び、溶けた蝋と香油の匂いをまとった熱が、天井の高みへ淀んでいた。人の声は低い。けれどひとときも絶えず、湖の氷が重みに耐えかねて軋む音に似て、足元から不安を這い上がらせてくる。父と母は、客席の前から二列目にいる。母の背筋は、張りつめた糸のようにまっすぐである。
「セシリア」
「はい、お母様」
「顎を引きなさい。……それだけです」
「お父様は?」
「胃薬を五包、飲んでおいででしたよ。……あの人なりに、あなたの隣にいるつもりなのでしょう」
遠くの柱の下には、ランドルフ様とフィオナ様が並んでお立ちになっている。二人のあいだには、握り合う手も、交わされる言葉も無い。近くにいるはずなのに、別々の岸へ立つ影のように見える。
やがて、重い扉がゆっくりと開く。
扉の向こうから入ってきた黒犬の引き手は、グスタフどのである。館の革の紐が、引く手と首輪の環のあいだで、ぴんと張りつめている。
――わたしは、息を呑む。喉が塞がり、指の先までいっぺんに冷える。
尻尾が、動かない。
あの、隠しごとのできない尻尾が力なく垂れたまま、一度も揺れないのである。耳も伏せられてはいない。怯えても、怒ってもいない。ただ、大きな黒い獣が、四本の脚で静かに歩いてくる。あまりに獣らしく、だからこそ、わたしの知るこの方がどこにも見つからない。
風だ、と言い張る尻尾も、無風です、と返せる相手も、今夜はここにいない。
「おい、尻尾が動かんぞ」
「あれが……あれが、公爵か」
満月の夜は、言葉を失う。いつだったか、丘でそう聞かされ、頭では分かっていたつもりである。けれど、失われるのは言葉だけではない。この方をこの方たらしめていたものが、今夜は全部、黒い毛皮の奥へ沈んでいる。目の前にいるのに、会えない。そのことが、息をするよりも苦しい。
賭けの札を持った男たちまで、気圧されたように声を落とす。誰も、はやし立てない。見世物を待っていた熱だけが、気まずい冷たさに変わっていく。
逃げたい心を置き去りにして、わたしは歩き出す。
自分の靴音が、誰かのもののように遠くで鳴っている。膝から下の感覚はとうに消えている。それでも、震えを悟らせまいとする身体だけが、足を前へ運んでいく。
言うべき言葉は、まだ決まっていない。心のどこを探しても、この方へ返すに足る言葉など見つからない。決まらないまま、それでも足は前へ出る。壇のいちばん下の段に、靴の先が触れる。
その、半歩先だった。
グスタフどのが、わたしを遮るように静かに進み出る。
白い口上書を広げる。家令どのは背を伸ばし、この方に仕えた四十年ぶんの声を腹へ集めるようにして、広間の隅々まで読み上げた。
「北方公爵ヴィルヘルム・ノルトヴァルトは、本日の求婚を取り下げる」
――広間そのものが、内側から揺さぶられたように鳴る。
「取り下げ……?」
「聞いたか、いま? 取り下げると言ったぞ」
「今宵、何人にも返答を求めない」
わたしの足は、段の上で縫いつけられたように止まっている。取り下げる、という言葉だけが、どこにも落ちてこず、繰り返し同じ場所を空回りする。
「衆目の中で請えば、返る言葉は、請うた者のものになる。……以上にございます」
読み終えた口上書が、グスタフどのの手で静かに畳まれる。白い面が消えるにつれ、逃げ道まで閉じていくように見える。
玉座の陛下は、広間を満たすざわめきを押さえることなく、しばらく黙っておられる。その沈黙が隅々まで行き渡ってから、法の通りに仰せになった。
「北方公爵の位は、王家が預かる。廃絶ではない」
どよめきが一気に膨らみ、広間の高い天井へぶつかって、重く返ってくる。押し寄せる音に、蝋の火まで揺れて見える。
陛下は、その音が潮のように引くのを待ち、もう一度だけ口を開かれた。
「位は、人の法で預かる。……森のことは、法の外だ」
「殿……殿ォ……!」
柱の陰で、北の家宰どのが膝から崩れ落ちる。衣の擦れる音が、嗚咽より先にわたしの耳へ届く。それでも誰も、その方を見ない。見れば、自分たちまで何かを失ったと認めることになるからだ。
黒犬は壇の前まで進むと、ためらいなく前脚を折る。
犬の礼である。首を下げ、額を床すれすれまで下ろす、あの礼である。位を返上する所作としては、たぶん、どの作法書にも載っていない。
それから身を翻し、振り返ることなく、退場の口へ歩き出す。
グスタフどのは、声もなく革の紐を手に控える。
――考えるよりも先に、わたしの手は髪へ伸びている。
簪を抜き、髪から組紐を引き抜く。編み目がほどけ、母が心を込めて整えてくださった結い上げが、肩から背へ波のように落ちていく。三百の目が、いっせいにこちらを向く気配が肌へ突き刺さる。人前で髪を解くのは、はしたないことだと、幼いころから繰り返し躾けられて育っている。それでも今は、この方を孤独に歩かせることのほうが、ずっと耐えがたい。
「引き手は、わたしが務めます」
震えると思っていた声は、自分でも驚くほど広間の奥まで通った。
「……市中へ出れば、条例ですので」
グスタフどのは、わたしの顔をまっすぐ見てから、深く一礼し、革の紐を環から外す。わたしは、空いた環へ組紐を通した。二重に回し、ほどけぬよう指へ力を込めて、固く結ぶ。辻で朝ごと繰り返してきた、いつもの結び方である。
短い紐だから、並ぶしかない。
位を失った男と、その引き手が、王宮の大広間をいつもの歩幅で進んでいく。誰も、何も言わない。突き刺さる視線も、背後で渦巻くどよめきも、今は遠い。肘のあたりには毛並みの熱が絶えず触れ、その確かな温もりだけが、わたしをまっすぐ歩かせてくれる。
◇
そのころ、広間のざわめきをよそに、庭を灰色の影がひとつ横切っていく。
振り返ったのは、壇の上の王妃陛下だけである。扇を閉じたまま、あの方は灰色の影が庭木の向こうへ溶けて見えなくなるまで、じっと目で追っておられた。その横顔は、安堵とも悲しみともつかない。
◇
車寄せまで来て、わたしはようやく組紐を環から外す。指がこわばり、結び目が名残を惜しむように解けてくれない。
グスタフどのが、慣れた手つきで革の紐を着ける。ここから公爵邸までは、市中である。館の紐と、家の者の手に返る道である。
解いた組紐を握りしめたわたしの手を、家令どのが黙ってご覧になる。指に滲んだ痛みまで見透かされた気がして、手を開くことができない。それから家令どのは、わたしへ深く、深く頭を下げられた。
「殿からの言伝にございます」
黒犬は、傍らで何も言わない。今夜、この方に言葉は無い。分かっているのに、声を待つ心だけが、どうしても諦めてくれない。
「――散歩は、明日も」
夜風が吹き抜け、下ろしたままの髪を頬へ乱暴に吹きつけていく。冷たいはずなのに、頬を伝う熱のほうが、はっきりと分かる。
わたしは、掌へ食い込むほど組紐を握り直す。明日の朝も、同じように結べるように。
「……承りました」




