26. ただの犬と、ただの令嬢
三十一日目の未明、街外れの辻には、いつもの黒い影が夜の名残のように佇んでいる。
石畳はまだ夜の冷たさを抱き、外套の裾から細い指のように這い上がってくる。それでも、黒い影を見つけた瞬間だけ、凍えた指先へ血が戻るのが分かる。昨夜、王宮の車寄せで家令どのが伝えてくださった言伝のとおりである。――散歩は、明日も。あの一言を、わたしは掌の中で一晩じゅう転がしていた。転がしすぎて、角が丸くなったほどである。
「おはようございます」
黒犬は半歩前で立ち止まり、白い息の向こうからこちらへ首を巡らせる。返る声は無い。未明は、この方の声がいちばん遠いところにある時刻である。夜明けの鐘は、まだ眠っている。
「本日も、条例のぶんを」
家令どのの、寒さにも揺れない、いつもの一言である。
「……はい」
グスタフどのが革の紐を環から外し、そこへわたしが組紐を通す。鹿革の匂いと朝露の冷たさが、指先へかすかに移る。二重に回して、固く結ぶ。指は、もう迷わない。毎朝おなじ手つきを繰り返し、この方に触れずに触れることを覚えた指である。
結び終え、息をついたところで、家令どのの背が今朝はやけに軽いことに気づく。
「あの……箱は、いかがなさいました?」
「本日より、殿のご署名を要する紙は、ございません」
声はいつもと同じ調子である。あまりに変わらないぶんだけ、こちらの喉がきゅっと塞がる。
位が無いのだから、決めることも無い。理屈は分かる。分かるのに、あの木箱が坂を上がってこないというだけで、朝の形が半分、すぽりと抜けたように思えてならない。昨日の朝、家令どのは空の箱を丘の頂まで担ぎ上げて、「箱は、休みませんので」と仰った。休まなかったのは箱のほうで、無くなったのも、箱のほうである。
その朝の半刻を、わたしたちは足音と、組紐が環をこする音だけを連れて、ほとんど黙って過ごした。今日のことをこの方は何も仰らず、わたしも訊かない。訊けば、残りの声までわたしが使わせてしまう。空には、昨日で満ちきったばかりの月が、薄青い夜明けの底に、縁をわずかに削がれて残っている。丸いものが欠けはじめる最初の朝は、遠目にはまだ丸い。それでも、確かに欠けているのである。
辻へ戻り、わたしが組紐を外すと、グスタフどのが革の紐を環へ着ける。鹿革はすっかり指の腹に馴染み、朝の冷気といっしょに、わたしの手の熱をすこしだけさらっていく。
この持ち替えが最後になるとは、このときのわたしは知らない。
◇
王都の噂は、焼きたてのパンの匂いより速い。それ見たことか、犬に嫁ぐなどと言うからだ――扇の陰からこぼれたその声は、あちらの茶会からこちらの茶会へ回っているという。ただ、同じ口がギルモア家の若君を呼ぶときには、いまだに旧い渾名が使われるらしい。犬とでもの男。位を失ったのは公爵閣下のほうなのに、剥がれてくれないのは、あちらの渾名である。
◇
三十二日目の未明、夜霧の残る辻に立っていたのは、家令どのひとりであった。
その手に、見たことのない縄が一本ある。太く毛羽立った、荷を縛るための荒縄で、乾いた草の匂いがする。月は昨日より、もう一段だけ縁を削られ、白く滲んでいる。
「殿は、本日より……辻へは参れませぬ」
「ですが、紐なら、そちらにございますでしょう?」
「ございます。昨日のうちに……これだけは」
「でしたら、なぜ?」
「……殿が、お止めになりました」
家令どのは縄を握り直す。太い繊維が掌できしみ、指の節は、痛いほど白い。
「位を失うた犬が荒縄で引かれ、市中を歩けば、見世物になりまする。……そして、その隣にお立ちになるのは、お嬢様でございます」
「では……お屋敷は、どうなりました?」
「昨日の昼に、王家の御役人が入られました。目録を作られるあいだは、館の物は一本も持ち出せませぬ。革の紐も……書き取られております」
「では、下町までは……どうやって?」
「立会いが済むまではと、御役人が一本お貸しくださいました。着いた先で、わたくしが屋敷へ返しに戻り……封をいたしました」
そこで、家令どのは一度だけ言葉を切る。浅い息が、白くほどけた。
「……あの紐を殿が三軒回ってお選びになったことは、紙には残りませんでした」
冷えた石畳の底から、言葉にならないものがゆっくりと這い上がってくる。北の鹿革である。毎朝わたしの手のかたちを覚えていったあの一本は、いま、館の物という三文字になって、封の内側にある。物は書き取れる。三軒を歩いた足の重みも、選ぶあいだ迷った時間も、どこにも書けない。
「……案内してください」
「お嬢様……」
「これは、わたしの散歩です。案内してくださらないなら、自分で探します」
家令どのは、しばらく黙っていた。それから細く息を吐き、荒縄を肩へ掛け直す。
「……お足元に、お気をつけくださいませ」
下町の借家は、門と呼ぶのもためらわれる木戸である。すすと魚の匂いが染みついた路地の奥、低い卓では北の家宰どのが目を赤くし、涙を拭きながら書き物をしていた。あと十六日ですぞ、と丘で叫んだ人が、いま失爵の書類を書いている。羽根が紙をひっかく音だけが、狭い部屋にやけに大きく響く。
「お嬢様……こんな、こんなところまで」
「順路が、変わっただけです」
木戸の内側、朝の光もまだ届かない土間に、黒い影が座っている。
「……もう、あなたが来る理由が、ない」
砂を噛むような、乾いてかすれた声である。耳の奥まで、ざらりとする。
「わたしの散歩です。理由は、わたしのものです」
「……見世物になる」
「なりましょう。それが、何か」
この方が、言葉を探して黙り込む。耳だけが、行き場をなくして頼りなく動く。探しても出てこないのを、わたしは黙って待った。四年のあいだ、待つことだけは覚えている。ただ、待たされるのと、自分で待つのとは、まるで違うものであるらしい。後者には、底が無い。
「……歩幅を落とすつもりは、ないぞ」
「結構です。わたしは、速いので」
家令どのが毛羽立つ荒縄を差し出す。わたしは指先が触れる前に、首を横に振る。
「条例が求めているのは、引き手が居ることです。紐は何でも構いません。ですから、こちらにします」
袂から組紐を出す。一昨夜、車寄せで握ったまま持ち帰った一本である。昨日の朝は辻で使い、今朝は袂に入れてきた。黒犬がためらわず首を差し出し、わたしは環へ通す。二重に回して、固く結ぶ。いつもの結び方である。その結び目だけは、何も失っていない。
坂の中ほどで、夜明けの鐘が鳴った。澄んだ音が屋根を渡り、東の空から光がほどける。隣の黒い輪郭もほどけ、人の背丈になる。丘は、まだ頭の上である。
「……間に合わなかったな」
「丘は、明日にいたしましょう」
石垣に腰を下ろす。夜露の冷たさが、服越しに染みる。眼下の王都は、朝靄の中で屋根の色を薄い灰から薔薇へ変えていくところである。世界で一番眺めのいい執務室は、今朝、世界で一番眺めの悪い石垣に格下げされた。それでも、隣に座っている人の体温は、丘の上と一寸も変わらない。
半刻のあいだに、この方の斜め後ろで、見えない何かが一度だけ、ためらいがちに力なく揺れる。
人の姿に尻尾はない。出会った日のわたしなら、そう考えて片づけていたはずである。
今朝は、片づけない。そっとしまい込むように、わたしは、その一度をきちんと数えた。
半刻が尽きる。朝の光の中で輪郭が淡くほどけ、見慣れた黒い犬が戻る。
三十三日目、わたしは家を出る刻限を四半刻ぶん早めた。三十四日目には、丘の頂で鐘を聞けるようになる。灰色卿はいつのまにか坂の途中から当然の顔で並んで歩き、家令どのが担いでくるのは木箱ではなく、湯気と香ばしい匂いの立つ腸詰めパンの包みになった。三等分である。順番も、いつもどおり守られる。
「並んでください。順番です」
老犬が、ずっと前からそうしていたような顔で、きちんと最後尾につく。
その三十四日目の昼、王妃陛下からの召しが届いた。みぞおちのあたりが、鐘より鈍く鳴る。日取りは、幾日か先だという。
わたしは、まだ何も望んでいない。望み方を、そもそも知らないのである。




