27. 「あなたは、どうしたいの」
同じ朝が、音もなく、幾つも積み上がっていく。
朝が積み上がるたび、この方の刻限は短くなった。半刻はやがて四半刻になり、掠れていた声は、耳を寄せなければ届かない囁きへ変わる。丘の上で交わす言葉も、指で足りるほどになっていった。それでも黒犬は毎朝、決まった刻に木戸の内側へ座っている。木戸の板は日ごとに冷え、触れた指先を刺す。わたしの吐く息も、日ごとに白く濃くなる。季節のほうは、こちらの都合など一度も訊かず、律儀に先へ進んでいく。
不思議なもので、朝が短くなるほど、わたしの側の言葉は増えていった。伝えたいことばかりが溜まっていくのに、それを渡す窓のほうは細っていく。持ちきれずこぼれたぶんは、夜、寝台の中で天井の闇へ並べることになる。数えるのは得意なのに、これだけは、いくら数えても減らない。
四十日目の未明も、そうであった。
「おはようございます」
「……ああ」
返る声は、それきりである。冷えた指で組紐を環へ通し、坂を上り、丘の頂で鐘を聞く。四半刻はあまりに短く、腰を下ろしたと思う間もなく尽きてしまう。輪郭が糸のようにほどけて黒い犬が戻り、わたしたちは足音だけを連れて坂を下りる。話すことが無いのではない。話せば、この方に残された言葉を使わせてしまう。それが惜しくて、こちらの言葉まで喉へ押し戻す。
東の空の低いところに、半分よりわずかに細い月が白く浮かんでいる。下弦を二日ほど過ぎた月である。あの満月から、こんなに削れるものらしい。削れていくものを、わたしは毎朝ひとつずつ、黙って見送っている。月と、声と、刻限と。
木戸の前で、黒犬がわたしの手のひらを鼻先でそっと押す。濡れた鼻先は日ごとに冷たさを増し、押されたところだけが小さく痛む。
「……それでは、行ってまいります」
◇
その日の昼。王妃陛下の私室である。
炉の火は細く赤く、香の甘い匂いが暖かな空気に漂う。分厚い絨毯が足音をぜんぶ吸い込むので、この部屋では自分の心臓だけが、隠し事を急かすように大きく聞こえる。
「北がね、荒れているのよ」
陛下は扇を開かないまま、声を落として仰った。鹿柵が破られ、街道まで獣が出ているという。代官が森へ使いを立てても、狼は応じない。応じられない、と書いてきたそうである。
「代官どのは、なんと申しておられるのでしょうか?」
「森の入口で三日も待ったのに、足跡ひとつ見なかったそうよ。使いの者は、木立がこちらを見ていない、と申したとか」
陛下は閉じた扇の先で、膝を一度だけ叩かれた。乾いた音が、静かな部屋に硬く残る。
「つまり、盟が家門を離れた、ということね。……あなたには退屈な話でしょうけれど」
「いいえ。北のお話なら、伺っております」
「まあ。あの子、そんな話までしていたの?」
「丘は、話をするには良い場所ですので」
陛下は扇の骨を一本ずつ確かめるように指でなぞり、それから、まっすぐにこちらをご覧になった。眼差しはやわらかいのに、逃げ道はない。
「あなたは、どうしたいの」
問いが落ちた途端、部屋の中の音がひとつ残らず遠ざかる。窓の外で庭師の鋏が鳴っていたはずなのに、刃の音すら水の底へ沈んだように聞こえない。
問われた意味が分からなかったわけではない。分かったからこそ、答えが出てこない。四年のあいだ、わたしは誰からも望みを訊かれなかった。破棄の話をされたときも、犬に嫁ぐと決まったときも、皆が訊いたのは「どうするのか」であって、「どうしたいのか」ではない。言葉の違いはわずかなのに、刺さり方はまるで違う。訊かれないうちに、望むという手つきそのものを、わたしはどこかへ置き忘れていたらしい。
膝の上で、重ねた指が勝手に何かを数えようとしている。数えるのは得意である。数えているあいだは、望みのほうを見ずに済むからだ。
喉の奥がひりつくほど乾いていた。望みを口に出すのは、たぶん、こわい。言葉にした瞬間から、それは叶わなかったときに数え上げる一件目になる。辻で数えつづけていたあの数も、もとを辿れば同じ臆病から出ている。望まずに数えているかぎり、裏切られたことにはならない。臆病は、自分を守る理屈だけは上手にこしらえる。
「……言葉にするのは、初めてです」
「急がなくていいのよ。ゆっくりでいいわ」
「いいえ」
口から出た自分の声は、思ったより硬い。薄い氷を踏むような心細い響きに、自分で驚く。
「申し上げてよろしければ、いちばん先に申し上げるべき方が、別におります」
陛下は、しばらくこちらをご覧になっていた。それから扇を開いて口元を隠し、目だけを細めて笑われる。
「……ほんとうに、愛想がないこと」
「申し訳ございません」
「褒めております。愛想は雇えるけれど、正直は雇えないのよ。前にも申したでしょう」
◇
ハルダー男爵家から、ギルモア侯爵家へ、ようやく返書が出たという。縁談を見直したい、という文面であったらしい。秋のうちに書き上がったきり引き出しで眠っていた紙が、公爵家の椅子が無くなったのを見届けてから、ようやく動いたわけである。紙にも、ずいぶん慎重な足があるらしい。
男爵は書斎で、ほっと息を吐きながら、こう漏らしたそうだ。危ないところであった、あのまま話を進めていたら、うちが嗤われた家になっていた――と。
◇
王宮の車寄せに、父が立っている。傾いた光の中で、その姿だけがひどく頼りなく見える。
「セシリア。……その、話しておきたいことがある」
「はい」
「あのとき、わたしは……お前の犬を、手放させた」
父の声は、驚くほど小さい。胃の薬をずっと手放せずにいる人の肩は、わたしの記憶より痩せて見える。北から届いたあの薬の壺は、いまも書斎の棚にあるという。贈った人の位が無くなっても、薬の効き目までは無くならない。人の心も薬ほど素直なら、話は早いのだけれど。
「世間体のためなのだと思っておった。いや……家のためなのだと、自分に言い聞かせておっただけだ。済まぬ」
わたしは、しばらく答える言葉を持てなかった。許しますと言えば嘘になる。許しませんと言えば、それも今の気持ちとは違う。わたしの内側に沈んでいるのは怒りの熱ではなく、長く冷えた、平たい石のようなものである。拾う気にも、父へ投げ返す気にもなれない。
「お父様。わたしは、まだ数えております」
「……そうか」
「ですが、今日はその話をしに来たのではありません」
馬のひづめが石畳を鳴らし、馬車が来る。冷えた風に、馬と革の匂いが混じる。わたしは扉に手をかけ、御者へ告げる。
「下町へ回ってください」
父は、止めなかった。呼び止める声も、追う足音もない。止めない、という形の詫びである。詫びの言葉より、そちらのほうがずっと長く背中に残る。
◇
借家の塀は低く、爪先立てば内側が見える高さであった。灰色卿が塀の下に寝そべり、こちらをちらりと見る。日暮れの風は冷えた土の匂いを運び、灰色の毛を波のように押していく。
爪先は、立てないでおく。見てしまえば、明日の夜明けまで待つ辛抱など、きっと役に立たなくなる。それでも、そこに何が座っているのかは、塀ごしのひそかな気配で分かる。目で見るよりも、はっきりと。
「明日の夜明けに、伺います」
塀の向こうで、爪が石を掻く乾いた音がした。その小さな音だけで、固く握っていた指が、わずかにほどける。
「……毎朝、来る」
風にさらわれそうな囁きである。言葉を継ぐ力は、もう残っていないらしい。それでも、毎朝を手放さない頑固さだけは、まだ消えていない。
「はい。よく存じております」
息を、ひとつ吸う。冷たい空気が、喉の奥を細く刺しながら下りていく。その痛みのおかげで、言葉は逃げずに留まる。
「ですから、明日は――散歩に伺うのではありません」
長い沈黙が落ちる。風が灰色卿の毛を揺らし、どこかで戸の軋む音だけが聞こえる。そのあとで返ってきたのは、たった一語であった。
「……ああ」
わたしは塀に手を当てる。ざらついた冷たさが、掌の熱をゆっくり奪っていく。それでも手を離さず、その冷たさを、会えないぶんまでしばらく掌へ写しておく。
明日の夜明けに、わたしは伺う。数えるためではなく。




