28. 隣にいてください
四十一日目の未明は、風が無い。
木戸を叩くより早く、内側で爪が板を掻く音がした。黒犬がするりと出てきて、迷いなく座り、首を差し出す。わたしは袂から組紐を出し、かじかむ指で環へ通した。二重に回して、ほどけないよう固く結ぶ。
「おはようございます」
返る声は無い。今朝は、一語も出ないらしい。黒い鼻先から、白い息だけが細くこぼれた。
「今朝は、お返事はなさらなくて結構です」
黒犬の耳が、わずかにこちらへ傾く。それだけで、肩のこわばりが少しゆるむ。
「わたしから、申し上げに参りましたので」
昨夜は、ほとんど眠っていない。目を閉じても、言う順番ばかりを暗闇に並べ直していた。順番さえ決めておけば、途中で息が続かなくなっても、いちばん大事な一行だけは残る。数えるのが得意な人間の、これは数少ない使い道である。
坂を上る。石は霜で薄く白く、踏むたび、靴の底で細く乾いた音が鳴る。灰色卿は、今朝は坂の下からわたしの隣にいる。いつもは途中で追いついてくるのに、今朝ははじめからである。老犬の足取りは静かで、この坂を何百年も上ってきた者のそれであった。
「灰色卿。……今朝は、坂の下からご一緒でございますね」
老犬は答えない。ただ、尾の先だけが一度、霜を掃くように揺れる。この方は坂を上るあいだ、一度もこちらを見上げなかった。見上げれば、わたしが引き返せなくなると思っておいでなのかもしれない。それでも歩幅はいつもと同じで、わたしを急かしも、置いていきもしない。
丘の頂に着いても、鐘はまだ鳴らない。東の空の低いところに、昨日よりもう一段細くなった月が残っている。王都は、まだ屋根の色を持たない。煙突も塔も薄闇に溶け、灰と紺のあいだの、名前の無い色に沈んでいる。
黒犬が座る。わたしは、その前に立った。四十一日ぶんの朝が、この一点へ集まってくる。夜会の広間も、丘のベンチも、樫の陰も、王宮の壇も、ぜんぶこの薄闇へ流れ込み、足元で重なっていた。
言うつもりで来た言葉が、喉のところで一度つかえ、息だけが白く逃げていく。四年のあいだ、愛想がないと言われ続けてきた。愛想のなさとは、要するに、守れない言葉を口にしない癖のことである。守れないかもしれない言葉を、それでもわたしは今から、自分で選んで言おうとしている。
十四の年、わたしは白い犬に「また来るね」と言った。守れない約束だと知らずに置いてきた、たった一言である。あの日から、口に出す言葉を少しずつ減らしていったのだと思う。減らせば、置き去りにする約束も減る。そうして守っていたのは、約束ではなく、もう傷つきたくない自分だった。
膝の裏が、細かく震えている。冷気が裾から忍び込むせいだと思いたいけれど、たぶん違う。逃げずに言うのが、ただ怖いのである。
――いいえ。
位も、屋敷も、期限も、もう無い。急かす人が、この丘にはひとりも居ない。誰の都合でもない場所に、自分の足で立っている。自分の口で言う言葉を、わたしはまだ一度も持ったことがなかった。
だから、これは、逃げずに口にする、わたしの言葉である。
「隣にいてください」
黒犬が、勢いよく顔を上げる。その目に、細い月の光が揺れた。
「公爵でなくても、犬のままでも構いません」
黒犬の喉が、かすかにひとつ鳴る。返事ではない。けれど、言葉の奥まで聞いている、という音である。
「散歩は、わたしが毎日連れて出ますので」
声は震えなかった。指の先だけが、少し冷たい。鼓動だけが、遅れて大きく響いている。
「これは期限にも家にも誰にも言わされていない、わたしの言葉です」
風が無い。それなのに、草がいっせいに片側へ倒れ、葉先の霜が淡い光を散らす。
灰色卿が、音もなく立ち上がった。
老犬は一歩、また一歩と歩み出て、その背が空へ伸びていく。灰色の毛は朝霜より白く輝き、肩の高さがわたしの胸を越え、頭を越えた。見上げても、てっぺんが遠い。そこに居るのは犬ではない。北の大森の主である。
風向きも無いのに、匂いだけが変わる。犬のそれではない。雪と、濡れた樹皮と、遠い焚火の匂いが、冷えた肺の奥まで満ちてくる。恐ろしいはずなのに、逃げようとは、なぜか少しも思わなかった。
「験は、暦ではない」
声は、地面の底から響いてくる。腹の底から足裏まで、重い石が転がっていく。
「暦は人の道具だ。狼は、それを読まぬ」
大狼の目が、黒犬へ静かに移る。それから、わたしへ戻ってくる。底まで見通されるようで、息が止まる。
「……よく待った。よく、待たせた」
薄闇の中で、黒犬の輪郭から光がほどけていく。淡い光が毛先を離れ、朝の空気へ溶けた。
鐘は、まだ鳴っていない。夜明けの前に、光の中で人の輪郭がゆっくり組み直されていく。そこに立っているのは、黒髪に灰青の目をした、二十七の男である。見慣れた眼差しだけが、変わらずわたしを見ている。
草の上に、組紐が輪のかたちのまま、霜をのせて落ちていた。結び目は、わたしが今朝つけたとおりの固さで残っている。わたしはそれを拾い、指に返るざらりとした感触を確かめて、袂へ入れる。
やがて、王都で夜明けの鐘が鳴りはじめた。澄んだ音が、青い空気をゆっくり押し広げていく。
いつもなら、この音の始まりと一緒に隣の背丈が伸びる。今朝は、伸びるものが何も無い。すでに、そこに立っているからである。黒犬と同じ灰青の目が、まばたきもせず朝の光を受けている。
四半刻が過ぎる。この方は、戻らない。
半刻が過ぎ、一刻が過ぎても、戻らない。
日はもう昇りきって、屋根の列がひとつずつ、赤や茶の色を取り戻している。丘の上には、人がふたり立っているだけである。犬は、どこにも居ない。短い紐で並んで歩くあいだ、わたしの肘のあたりへいつも触れていたあの熱だけが、隣の高いところへ移っている。遠くなったはずなのに、前よりも近い。
「……続きを、歩こう」
それが、声を取り戻したこの方の最初の言葉であった。
「はい」
「……本当に、声が出る」
「はい。きちんと、出ておいでです」
「あなたに、言いたいことが……山ほどある」
「では、歩きながら、ゆっくり伺います」
この方が、自分の喉へそっと手を当てる。出た声の響きを指先で確かめ、それでもまだ信じきれないという顔である。喜ぶより先に戸惑うところが、この方らしい。
「本当に、長くなるぞ」
「散歩の予定なら、いくらでもあります」
「……十日目にも、同じことを言ったな」
「はい。あのときは、あなたのほうから仰いました」
この方が、笑い方を思い出したような顔をなさる。こわばっていた目尻が、朝日に温められるように、ゆっくりとほどけていく。見慣れない笑顔なのに、ずっと知っていた気がする。
「……あなたは、あの丘で何度も、言いかけてはやめておいででした」
「……気づいていたのか?」
「はい。数えておりましたので。数だけは、得意でございます」
「……まったく、こわい人だ」
わたしは、朝日を背負い、傍らに立つ大きな灰色を見上げた。
「灰色卿。……いいえ。これからは、なんとお呼びすればよろしいのでしょうか?」
「好きに呼べ。パンを三つに割る娘がつける名なら、悪くない」
そう言って、大狼は耳を澄ませるように北の空へ向き直る。
吠えた。
長く、低く、山ひとつ越えるような声である。それが北の峰へ抜けていったあと、坂の下から、犬が一頭応えた。二頭、三頭。声は坂を伝って街の底へ落ち、川の向こうまで波のように渡る。王都じゅうの犬が、あちらでもこちらでも、次々に声を上げていく。
犬とでも結婚しろ、と言われた街が、犬の声でいっぱいになっている。
あの夜、広間の三百の目が笑った言葉である。あの口のいくつが、いま、この声を聞いているだろうか。聞いていようがいまいが、街のほうは、もう答えを返してしまっている。その可笑しさに、胸の奥の古い痛みが、少しだけ軽くなる。
目の縁が熱い。朝日のせいにして、今朝は、拭かずにおく。
その重なり合う声のなかを、朝日に長い影を引きながら、わたしたちは坂を下りはじめた。




