29. 引き紐は、もう要りません
北の異変が止んだ――そう告げる早馬が、朝露を蹴散らして着いたのは、それから数日後のことである。
鹿柵は夜を越えても破られず、街道を塞いでいた獣は、朝霧の向こうの森へ帰った。代官の書面には、森の入口の飛び石に狼の足跡が三つ並んでいた、とだけ記されていたという。人の側は何ひとつ成し遂げてはいない。ただ、ほどけかけていた盟が、帰るべき家門へ返っただけである。
その朝、わたしは借家の卓の端で、冷めていく茶碗を両手に包んでいた。北の家宰どのは書面を三度読み返してから、かすかに震える指で地図の森をなぞっている。隣のこの方は、何も仰らない。ただ、小さな窓から、北の方角をしばらく見ておられた。その肩から、見えない重しが少しずつ下りていく。
王宮の広間に、ふたたび壇が設えられる。今度、壇の背を覆うのは白い布ではない。磨かれた床を衣擦れの音が渡る。あの満月の夜に張り詰めていた空気が、同じ場所で、まるきり逆の向きに張り詰めている。
白い布は、位を取り上げる日のためのものであったらしい。今日の壇に掛かっているのは、北の色の、濃い緑である。陽の届かない森の奥が、そのまま広間へ現れたように見える。
王が手を上げられると、ざわめきが消える。静けさの中、短くお告げになる。
「北方公爵位を、ヴィルヘルム・ノルトヴァルトに返す」
験を閉じた者の要件を満たし、北の実効を得たこと。位を返す理由は、それだけであった。飾る言葉も、言い訳もない。そのあとに続いたお言葉も、ひとつきりである。
「……王家は狼と争わん」
王妃陛下は扇の陰で、目元をたいそう満足そうに細めておられる。この方は静かに息を整えてから、そちらへ向き直る。
「陛下。此度のお取り成し、なんと御礼を申し上げれば――」
「わたくしは何もしておりませんよ。北の獣が、わたくしよりずっと上手に陳情した。ただ、それだけのこと」
北の家宰どのは、唇を固く結んでおられる。それでも、今度もとうとう泣いた。二度目である。
「わたくしは、この歳になって、よもや二度も泣かされようとは」
「一度目は、いったい何のときでしたか?」
「失爵の書類にございます。……いや、あれは悔し涙で、此度の涙とは違いまする」
袖で顔を拭うたび、書類の墨が頬へ移り、涙の跡へ黒い筋を引く。誰も教えて差し上げない。教えれば、家宰どのはきっと拭くのをおやめになる。いまばかりは、少しくらい格好がつかなくてもよい。
◇
その日の午後、宮廷画家ダールベルク先生が、冷たい外気と絵の具の匂いをまとい、包みを三つ抱えて参られる。仕上がったのである。
人の姿の一枚。獣の姿の一枚。そして、わたしの一枚。包みが卓に並ぶと、間に合わなかったはずの未来まで形になったように見える。ひと月かかると先生が仰ったのは、まだ期限のあった頃である。あの日わたしは、その月数を数え直さなかった。数え直せば、間に合わないと分かってしまうからである。
布をほどくと、油と亜麻の匂いが、つんと鼻をくすぐる。人の姿の一枚は、丘のやわらかな光で描かれていた。灰青の目は、こちらを見ているようで、ほんのわずかに逸れている。この方は、まっすぐ見つめられるのが苦手なのである。先生は、その小さなためらいまで写しておいでらしい。
「さて、獣のお姿は、いかがいたしましょう?」
先生の指先が、包みの結び目に触れたまま止まっている。北の本邸へ送ると決まっていたはずのその一枚は、いまや、どこにも実物のない姿を留めた、ただひとつの記録である。布越しに、懐かしい毛のぬくもりを思い出す。
答えたのは、北の家宰どのと王妃陛下であった。声はぴたりと重なり、しかも、別のことを仰る。
「北へ」
「王宮でお預かりになるべきかと存じます」
二人はそのまま睨み合う。家宰どのの眉が上がり、王妃陛下の扇は笑うようにゆっくり揺れる。
「あちらは犬の絵でございますぞ。北の本邸に掛けねば、いったい誰が北の主を思い出しましょう?」
「だからこそ、掛けるならこちらです。王都の者こそ、忘れるのが早いのですから」
「あの、よろしいでしょうか?」
わたしは、包みの紐へ手を伸ばした。指先に麻がざらりと触れ、絵の具の匂いが、まだ乾ききらずに残っている。
「二枚は、二枚で一組ですので。離さないでいただきたいのです」
彼が隣で静かに息を吸う音がする。何かを受け取るときの、かすかな音である。
「……では、二枚とも北へ送ろう」
『どちらも、あなたですから』あの日、丘の上でわたしが申し上げたことを、この方はまだ覚えておいでらしい。忘れずにいてくださったことが、指の先まで温かい。
◇
婚約の公示は、大広間で行われた。高窓から差す昼の光が、磨かれた床を明るく渡っている。あの満月の夜に壇を見上げていたのと同じ三百の目が、今日も同じ場所に並んでいる。人というのは、こうも軽々と向きを変えられるものらしい。わたしの側には、まだ小さな棘が残っている。それでもわたしは、この人たちに何ひとつ言い返さない。言い返す言葉に使う息があるなら、隣の方へ向けたい。
六つの申し合わせのうち、五つは、あの舞踏会の夜に済んでいる。残っていた肖像の交換が今日で済み、これで六つが満ちた。あとは、両人の誓いだけである。たったそれだけのはずなのに、息が少し浅くなる。
母は客席の前から二列目で、顎を少し上げ、背筋をまっすぐにしている。父は今朝、胃薬をいくつ飲んだのだろう。顔色を見るかぎり気にはなるが、今日は、数えないでおく。
人の姿の公爵閣下が、壇の上で、少しぎこちない手つきで袂から何かを取り出す。わたしの組紐であった。今朝、返しそびれた一本である。見慣れた色がその指に載ると、どうしてか、こちらが照れくさくなる。
この方は、広間中の視線を受けながら、それを自分の手首へ二重に巻いた。細い組紐が袖口からのぞき、ひどく大切な印のように見える。
「私を散歩に連れて行ってくださる方を、妻に迎えたい」
広間が、どっと沸く。笑い声が高い天井へ跳ね返り、頬に温かな風となって届く。三百の目が笑っていて、そのどれもが、こちらを蔑んではいない。そう分かるまで、ほんの少しだけ息を忘れる。
「殿。手首では、条例のぶんになりませぬが」
「構わん。もう条例は気にせずとも良い」
広間の後ろのほうで、誰かが手を叩きはじめる。それが波のように前へ寄せてきて、壁と床を震わせながら、やがて壇の下いっぱいに満ちる。
グスタフどのが、胸へ手を当て、深く一礼する。本日の通訳は、辞退なさらなかったらしい。尻尾はもう無いのに、この家令どのには、まだ何かが見えているのである。細められた目が、そう語っている。
四年のあいだ、わたしは呼ばれてから動く人間であった。誰かの望みを先に読み、自分の望みのほうは、いつも後回しにする。それが傷つかずに済む生き方だと思っていたのである。けれど、自分の側から一歩を出すことは、驚くほど軽い。足元に、わたし自身の道が生まれるようだ。
わたしは一歩前へ出る。靴底が床を打つ音を、自分の耳で確かに聞いてから、頭を下げた。
「はい」
それから、ゆっくり顔を上げる。三百の目を、今日は一つずつ見返せる。あの満月の夜、この広間でわたしは髪を解いた。ほどけた髪で、どうにか自分を守ろうとしたのである。今日は、結ったままで立っていられる。うなじを撫でる空気も、もう冷たくはない。
「……引き紐は、もう要りません。手で、結構です」
◇
その日、桟敷の隅にギルモア家の若君がおられたという。祝福の拍手の中でも誰とも言葉を交わさず、途中で静かに席を立たれたそうである。去っていく背中だけが、ひどく遠く見えたとか。去り際に、こう漏らされたとも聞く。
――犬の方が、俺より約束を守った。
◇
北へ発つ支度は、思いのほか早く整う。運ぶ荷は少ない。屋敷の物はいちど全部、館の物として書き取られてしまったからである。身軽なのはありがたいが、名残を惜しむ暇くらいは欲しい。
返ってきた館へ、返ってきた物を戻すのに、御役人がまた目録を開くのだそうである。あの北の鹿革も、封を解かれ、懐かしい革の匂いとともに出てくる。三軒回って選ばれたことは、やはり、どこにも書かれないままである。けれど、それでよい。わたしが覚えている。




