30. 北の初雪、昼の散歩
北方領へは、すぐにも向かうものと思っていたのに、まっすぐ向かわなかった。
王都を出ると、馬車は車輪を鳴らしながら三日ぶん南へ下る。北へ行くのに南へ回るのだから、これは道中というより、どう見ても回り道である。それでもこの方は、日程を組み直す家宰どのへ、静かにこう仰るだけである。
「約束は、雪より重い」
「殿。これでは、北の雪が間に合いませぬ」
「間に合わせるな。俺の約束のほうが先だ」
家宰どのは何か言いかけ、深い息をひとつ吐いてから、眉間にしわを寄せて日程を畳み直す。北の雪より重いものがこの世にあると認めるのは、あの方には、なかなか難しいことらしい。
馬車の中で、この方は車輪の揺れにも起きず、ほとんど眠っておいでだった。験のあいだ、この人がまとまった時間を眠るところを、わたしは一度も見ていない。強張りの消えた寝顔を眺めていると、こちらの力まで抜けていく。窓の外では、麦の刈り跡が金色から茶色へ移り、車輪が乾いた土を低く鳴らす。南へ下るほど空気もゆるんで、外套の重みが肩に余ってくる。
リンデン郡の遠縁の農場へ着くと、熟れた林檎の甘酸っぱい匂いがした。
柵の色も、井戸の位置も、あの朝の記憶から少しもずれていない。変わったのは、つつき歩く鶏の数と、庭の木の高さくらいである。
わたしを覚えていた農夫のご一家は、けれど、白い犬をお預かりした日で時が止まっている。懐かしそうな目の中で、わたしもあの日の娘へ戻される。
「まあ、まあ、お嬢様。ギルモアの若奥様におなりだと伺っておりましたが」
「いいえ」
古い扉を閉じるように、わたしは、はっきりと申し上げる。
「あの話は、もう終わっております」
そうして、迷わず隣を示す。農夫のご一家は、公爵閣下と、その背丈と、雪焼けの肌を順に見上げ、目を丸くしてから慌てて頭を下げる。
「こ、これは……とんだご無礼を」
「よい、気にするな。この子の世話をしてくださった家だと聞いている」
おかみさんが慌てて前掛けで手を拭き、ぱたぱたと奥へ走っていく。開いた戸口から、林檎を煮る甘い匂いと暖かな湯気が流れてきて、わたしは、ここが〈預けた先〉ではなく、この子にとっての〈暮らした家〉であったことを、いまさら知る。
白い犬の墓は、庭のはずれの林檎の木の下にある。石がひとつ置いてあるだけの、小さなもので、枝の隙間から淡い日がこぼれていた。
わたしはその前へしゃがむ。土は乾き、林檎の落ち葉が石の縁でかさりと鳴った。十四の年、この子を馬車へ乗せた朝を、わたしはまだ順番どおりに思い出せる。藁と牛乳の匂いまで、そのまま立ち上がってくる。
この子は、荷車の上で最後まで尻尾を振っていた。散歩だと信じていたのである。その無邪気さに背を向けた自分を見たくなくて、わたしはずいぶん長いあいだ、あの朝を思い出さないようにして暮らしてきた。
「この子を手放すことが、あの縁談の条件でございました」
この方が何も仰らず、隣に膝をつく。大きな気配が、わたしと同じ高さまで降りてくる。
「その縁談のあいだ、あの方が約束の刻限に来られなかった数を、ひとつずつ数えておりました。三百十二でございます」
「……その数は、俺も初めて聞くな」
「申し上げたことはございません。あの辻では、ただ、断りましたとだけ」
「多いな」
「ええ、多うございました。けれど、いまはもう、少しも痛くありません」
言ってみて、自分の声が揺れなかったことに驚く。ほんとうに、もう痛くないのである。数はまだ覚えているのに、それは、ずっと昔に歩いた道の石畳の継ぎ目の数と同じだ。ただそこにあっただけで、もうこちらへ何も求めてこない。
隣で、この方が何か言おうとして、やめた気配がする。慰めの言葉を探して、見つけられずにいるらしい。見つからなくてよかった。慰められてしまったら、痛くないという話のほうが嘘になる。何も言わずに隣にいてくださることが、いまはちょうどよい。
石の上へ、林檎をひとつ、そっと置く。この農場の木で採れたものである。持ってきたものではなく、この子が毎年見上げていたはずの木から採らせていただいた。手のひらに甘い香りが残る。
「また来ます。次は、正式に夫と」
守れる約束だけを石の上へ置いて、わたしは立ち上がる。膝の土を払うと、肩から先が、風の通ったように軽い。
農場を出た馬車は、林檎の木々を背に、そこで向きを変える。あとは、ひたすら北である。日が経つほど林檎の甘い匂いは薄れ、代わりに風の匂いが尖り、窓硝子まで冷たくなっていく。
◇
北の入口には、白く泡立つ沢を渡す平たい石が並んでいる。飛び石である。その傍らの祠は、石と屋根だけの、ずいぶん質素なもので、湿った苔の匂いがした。神職も社殿も無い。初代の当主が大狼と約定を結び、以来、伴侶を迎える当主だけがここに立つ。沢の水は澄み、指を入れると冷たさが骨まで届く。飛び石を渡り終えたところから先が、北である。
髪は、母が結ってくださった。針を持つときと同じで、母の手つきには音がない。編み終いを留めているのは、あの組紐だ。ずいぶん長く手のひらの中にあったこの一本は、こうして、もとの場所へ戻る。
「北方公爵ヴィルヘルム・ノルトヴァルトが、伴侶を迎える」
石の上で、この方が息をひとつ継ぐ。いつも迷いのない横顔が、ほんの少しだけ固い。
「私は、この方の隣を歩く」
この方の口上は、それだけであった。祝いの文句も、証人の名も無い。短い言葉なのに、沢の冷たい空気の中で、深いところまで沈んでいく。初代からこの飛び石で、そう言ってきたのだそうである。
沢の音のほかに、聞いている者は居ない。居ないはずである。けれど石の向こうの木立で、灰色の大きな影がひとつ、こちらを見ていた。やがて、祝うようにゆっくりと尾を振る。
北の初雪は、その翌日、約束に遅れず降る。
昼である。空は一面に白く、遠くの峰は綿にくるまれたように霞んでいた。吐く息も白く、頬を刺す冷たささえ新しい。わたしたちは、初めて、日の高いうちに散歩へ出る。
夜明けの鐘は要らない。一刻を数える必要も無い。沢の飛び石まで行って戻る道を、人ふたりで、いつもの歩幅のまま歩いていく。急ぐ理由がどこにも無いというのは、肩から力が抜け、息の音まで穏やかになる静けさのことであったらしい。
雪は、降りながら辺りの音をやわらかく吸う。残るのは、雪を踏む自分の足音と、隣の足音だけである。二つの間隔は、いつのまにか、ぴったり同じになっていた。気づけば、頬までゆるんでいる。
引き紐は、無い。代わりに、この方の手がわたしの手を握っている。手袋越しでも、その熱は丘の上と一寸も変わらない。ただ、今日は離すまいとするように、指へ少し力がこもっている。
「歩幅が、乱れておいでです」
「……雪だ」
雪はたしかに降っている。降ってはいるが、この方の歩幅とは、どう考えても何の関わりも無い。
「けれど、雪はまだ積もっておりません」
「いっ、いちいち揚げ足を取るな」
道の脇の木立から、枝の雪を肩に載せた灰色卿が現れる。わたしはパンを三つに割り、雪の上へ順番に置いた。
老犬は、白い息を吐きながらゆっくりと一つを咥える。
わたしが手を伸ばすと、彼の伸ばした手と丁度ぶつかった。
「あ……」
「並んでください。順番です。ふふっ」
「ははっ……これには、どうやら一生かなわん」
この方の耳が、雪よりもわかりやすく赤い。
「あら、赤くなられてますわよ?」
「……北風が寒いのだ」
「無風ですわ」
彼は口を少し尖らせて……こちらを向くと優しくほほ笑んだ。
わたしも自然と笑みが浮かび――――しずかにうなずいた。
雪が、まつげに一片落ちて、すぐに溶ける。冷たいものが目の縁を伝っていったけれど、これはたぶん、雪のほうである。
わたしは、握られたままの手を、そっと握り返す。
「さあ――散歩の続きです」




