9. また来るね、を果たせなかった話
話す、と決めて眠った夜は、眠りが浅い。
夜明けのずっと前に目が覚めて、天井を見ていた。話すと決めただけで、誰かに約束したわけではない。約束していないのだから、やめてもよい。……やめない。あの方は、わたしの沈黙を四日でも四年でも待つおつもりでいる。待たれ続けるより、話したい。そう思う相手が現れたこと自体が、たぶん、あの求婚への答えの半分なのである。
辻で合流し、歩き出してすぐに、わたしから切り出した。
「歩きながらで、よろしいですか? ……犬のお姿のほうが、話しやすい話なのです」
「聞こう」
黒犬は前を向いたまま、歩幅だけ少し緩めた。
――白い犬がいた。名前は、フロッケ。
七つの年の初雪の日に、遠縁の家から貰われてきた仔犬である。雪の日に来たから、フロッケ。単純な名付けだが、七つのわたしの、精一杯の正確さであった。
「よい名だ」
「ありがとうございます。大きくなる犬でした。あなたさまほどではありませんが、十の年には、並んで歩くと肩が触れました」
朝はいつも、二人で歩いた。市壁の外れの丘まで行って、戻ってくる。……そう、この道である。フロッケはいつも半歩だけ前を歩き、角を曲がるたびに、振り返って待った。月のいい夜には、庭で姿勢よく座って、長いこと空を見上げていた。
「初めて庭でお会いした夜、申し上げました。こんなに姿勢のいい犬を、もう一頭しか知りません、と」
「覚えている」
「その、もう一頭です」
黒犬の耳が、こちらへ傾く。雨の日の蓋には、もう指をかけてある。あとは、開けるだけである。
十四の年、ギルモア家との縁談が調った。
先方の当主夫人が、大の犬嫌いでいらした。犬のいる家の娘は迎えられない――それが、あちらの条件のひとつだったという。父は、呑んだ。相手は侯爵家である。母は、争った。争って、負けた。家格の差は、母の声より重いのである。せめて、と母が探してきたのが、南のリンデン郡の遠縁の農場である。広い庭と、犬好きの農夫の一家と、馬車で三日の距離。
「荷車に乗せられる日、フロッケは、いつもの散歩だと思っておりました。尻尾を、振っていました。わたしは――」
息を、ひとつ。蓋の蝶番が、きしむ。
「――『また来るね』と、言いました。荷車が角を曲がるまで、尻尾は、ずっと振られていました」
春になったら会いに行こう、と大人たちは言った。春が来ると、夏の方が道がよい、と言い直す。夏には、婚約者様とのお約束が先に立つ。そのお約束に、ランドルフ様は二度、いらっしゃらなかった。三度目の日取りが決まる前に、冬が来た。
「翌年の冬、農場から手紙が参りました。短い手紙です。安らかでした、と書いてありました。理由は書いてありません。……書いてあっても、あの年のわたしには、読めなかったと思います」
黒犬は、何も言わない。ただ、歩幅がわたしのそれと、寸分違わず揃っている。爪の音が、いつもより静かである。
「『また来るね』は、嘘になりました。わたしが嘘にしたのでは、ありません。わたしの言葉なのに、わたしのものではなかったのです。会いに行けるかどうかを決める力が、十四のわたしの『また来るね』には、入っていなかった」
あの日から、決めている。
守れるかどうかを、わたしの手だけで決められない約束は、しない。おかしくもないのに、笑わない。嘘は、つかない。いつから、と聞かれたら――あの、荷車の曲がった角からである。
「毎朝、なぜ歩くのかと、お尋ねになりましたね」
「ああ」
「この道は、フロッケと歩いた道です。『また来るね』は果たせませんでしたが、『また歩くね』なら、わたしの足だけで守れますので」
誰との約束でもない、と家の者には言ってきた。正確ではない。――誰にも取り上げられない約束に、作り替えただけである。
丘の上で、鐘が鳴った。
光がほどけ、人の姿の彼が、ベンチの前に立つ。座らない。まっすぐにこちらを向いて――騎士の礼である。口上の儀と、同じ姿勢である。
「聞かせてもらった礼に、ひとつだけ言う」
「はい」
「あなたは俺に、何も約束しなくていい。……守る側は、俺がやる」
風が、丘の草を撫でていく。目の奥が、熱い。
「守れる言葉しか置かない、あなたのその決め方ごと、俺は選んだ。だから、俺のために曲げるな。あなたの言葉は――」
「――あなたのものだ、ですね。伺いました。二度目です」
「二度でも三度でも言う。北の書物と違って、紙代が要らん」
泣くところだったのに、笑ってしまった。この方は時々、こういう不意打ちをなさる。笑ったら、目尻から余計なものがこぼれかけて、わたしは丘の風の方を向いた。
「……ひとつ、聞いてよいか?」
「なんなりと」
「その農場は、リンデン郡のどのあたりだ?」
「街道沿いの、林檎の多い村ですが。なぜですか?」
「覚えておくだけだ」
彼はそれきり、その話を畳んでしまった。畳み方が、綺麗すぎる。北の人は、約束を先に胸へ書きつけて、口には出さないでおくらしい――そんな気がしたが、口には出さないでおいた。
やがて一刻が尽き、朝日の中で輪郭がほどけて、大きな黒い犬が戻ってくる。人の言葉で聞いてもらった話の続きを、犬の隣で歩けることが、今朝は少し、ありがたい。
復路。わたしは初めて、自分から、黒い犬の耳の後ろに触れた。
温かい。冬の毛布のように、深い。手のひらの奥の古い記憶と、今の温度が、初めて喧嘩をしなかった。
「目が、赤い」
「……風です」
「ああ。……風だ」
この方の風は、便利である。今日のところは、わたしがお借りしておく。
辻の別れ際、グスタフどのが恭しく書状を掲げた。
「茶会の儀のお日取りが調いましてございます。十三日目の昼、王宮の庭園にて。――王妃陛下が、後見の労をお取りくださる由にございます」
「王妃陛下が?」
「はい。『面白いから』と仰せと伺っております」
理由をそのまま伝える使いも、どうかと思う。
その夜、父は書状を三度読み返し、北の胃薬の朝の分を、さらに倍にした。よく効くそうである。何よりである。




