7. 犬に傘を差す令嬢
空が二日がかりで支度した雨は、夜明けのずっと前から、屋根を太い指で叩いていた。
贈られた雨外套に袖を通し、狼の留め具を噛み合わせる。散歩靴の紐を締めると、足の下から、行けます、と返事が返ってくる気がする。道具に返事をさせる感覚は、たぶん、贈り主の趣味が移ったのである。
玄関で、父の大傘を借りた。緑色で、骨が太く、少し埃の匂いがする。父が最後に雨の中を歩いたのがいつなのかは、聞かないでおいた。
辻の黒犬は、当然のように濡れていた。
その半歩後ろで、グスタフどのが傘を差している。――木箱に、である。ご自身は油引きの外套一枚。傘は、木箱にだけ。
「書類には傘があって、殿にはないのですね?」
「書類は、濡れると死にますゆえ」
「俺は乾く」
犬も当然のように言う。北の理屈は、いつも身も蓋もない。
わたしは黙って、父の大傘を黒い頭の上へ差しかけた。仔馬ほどの犬に、傘は明らかに寸法不足である。頭と肩まで。それでも、ないよりはましである。
「犬は濡れてよい」
「わたしが、嫌なのです」
「あなたの肩が濡れている」
濡れている側の肩を、わたしは黙って彼の側へ寄せた。傘というものは、二人ぶん濡れれば痛み分けである。
「風邪で朝の一刻が寝込みになれば、損をするのはわたしですので」
「……どういう損だ?」
「計算中です」
計算などしていない。していないことは、たぶんお互いに知っている。雨音が沈黙の言い訳を引き受けてくれるのが、雨の日の数少ない美点である。
夜明け前の市場は、雨でも動いている。天幕の下でおかみさんたちが笑い、荷馬車の車輪が湿った音を立てる。
「出たよ、傘の嬢ちゃん」
「でっかいの、今日も男前だねえ」
いつの間にか、名物になっているらしい。犬に傘を差す令嬢。……絵姿にされる前に、雨の季節が終わることを祈る。
八百屋のおかみさんが、天幕の陰から黒パンをひとつ、押しつけてきた。
「ほら、雨の日の駄賃だ」
「頂きます。……お代は?」
「犬に傘差す嬢ちゃんから、銭は取れないねえ」
王都の朝は、時々こういう理屈で回る。正確ではない。正確ではないが、嫌いになれない。
市壁の手前で、雨脚がふいに太くなった。石畳が白く煙る。乾物屋の軒下へ駆け込んで――先客がいた。
灰色の老犬である。
いつかの路地の。軒下のいちばん乾いた場所に、彫像のように座っている。
黒犬の足が、敷居の手前で、ぴたりと止まった。耳だけが、まっすぐに老犬へ立つ。老犬はこちらを一瞥し、それから――静かに半歩、奥へ詰めた。場所を、譲られたのである。
「相席のお許しが出ました。失礼いたします」
先客には一礼する。誰であれ、先客は先客である。
雨宿りの軒の下、目の前に犬が二頭。わたしは黒パンを取り出した。
「三等分にします。並んでください。順番です」
先客の老犬が、先。次に黒犬。最後がわたし。
老犬は驚くほど丁寧にパンを受け取り、目を閉じて、ゆっくり噛んだ。育ちの良さを感じる食べ方である。野良の育ちの良さとは何か、という問いは、いったん棚に上げる。
黒犬は、自分の番を行儀よく待った。公爵様が、雨の軒下で、野良犬の次の順番を静かに待っている。この光景を正確に描いたら、宮廷画家は不敬で職を失うと思う。ふふっ。
◇
丘に着く頃、雨は細い糸に戻っていた。夜明けの鐘が鳴り、光がほどけ、人の姿の彼が濡れた前髪のまま隣に立つ。傘を傾けると、彼は柄に手を添えて、わたしの側へ深く傾け直した。
ひとつの傘の下は、思ったより狭い。肩と肩の間、こぶしひとつ分。雨の音だけが、傘の内側に丸く響く。
「北の関門では、雨はまだ優しい方だ」
と、彼は静かに話し始めた。雨だと、北の話が増える。
「雪は、音を消す。足音も、声も。……約束の刻限も、消す」
「関門のお勤めは、長かったのですか?」
「九年いた。十八から、この春までだ。……次男だからな。関門が、俺の持ち場だった」
それから、ある冬の話をしてくれた。吹雪の夜、合流の約束を半日違えた隊がいたこと。朝まで待ち、吹雪をついて探しに出て、見つけたのは春だったこと。
「……掘り出すのが、俺の最初の仕事だった」
「その隊の方々のお名前を、まだ覚えておいでですか?」
「全員」
「……よい持ち場の主です」
慰めの言葉を、わたしは持っていない。持っていない言葉は、言わない。代わりに、正確に聞く。それだけが、わたしにできる弔意である。
彼は少し黙って、それから、傘の下でわずかに笑った気配がした。
「あなたは、聞き方が北の人間だ」
「褒め言葉と受け取ります」
「褒めている。『約束は雪より重い』の講釈が、あなたには要らん」
決裁は、グスタフどのの傘の下で行われた。書類は、今日も殿より丁重に扱われている。
やがて、鐘から一刻。雨の鈍い光の中で人の輪郭がほどけ、組み直されて、隣は黒い犬へ戻る。今度は誰に遠慮もなく濡れてよい体である。わたしは黙って、傘を差しかけ直した。
復路の下り坂で、彼の問いは、雨音と同じ静けさで来た。
「あなたは、なぜ毎朝歩くのだ?」
「えっ?」
答えは、持っている。
持っているのに、喉の途中で、古い蓋が音を立てた。濡れた犬の毛の匂いは、乾いた毛のそれより、ずっと昔の匂いに近い。傘の柄を握る手のひらの奥で、雨に湿った白い毛並みの記憶が、勝手に温まり始めている。
わたしは、答えなかった。
質問に答えないのは、四年ぶりのことである。
彼は、二度は聞かなかった。しばらく歩いてから、前を向いたまま、低くひとことだけ。
「……急がない」
その一言が、雨より深く染みた。
急がないでいてくれる人に、急いで何かを返したくなる――この気持ちには、まだ名前を付けない。付けたら最後、散歩では済まなくなる気がするのである――。




