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6. 王妃陛下と、犬の親族

「伺っております。――『あの子は早く来るから、お茶は早めに淹れておきなさい』と」


 王妃陛下付きの女官長は、約束の二十分前に現れたわたしを見ても、眉ひとつ動かさなかった。

 陛下。話が、お早うございます。


 通されたのは謁見の間ではなく、王妃陛下の私室であった。思ったより小さく、思ったより本が多い。窓辺の小卓に、犬を彫った北の木彫りがひとつ。……犬ではなく、狼かもしれない。お聞きできる空気になったら、お聞きしよう。


「あら。本当に早いのね」


 入っていらした陛下は、扇を開いて笑われた。


「お座りなさいな。二十分ぶん、余計に話せるということでしょう」


「恐れ入ります。……お茶が、熱うございます」


「あなた、猫舌?」


「いいえ。正確な舌です」


 お茶は、癖のある山の香りがした。北の茶葉だという。甥御(おいご)が季節ごとに送って寄越すのだ、と陛下は事もなげに仰る。無骨なお人が、叔母君への便りは欠かさないらしい。……知らない横顔の数が、また増える。


「単刀直入に聞くわね。あの犬を、どう思って?」


「姿勢のいい犬だと思います」


「公爵を、犬とお呼びね」


「今は、犬でおられますので」


 陛下の目が、扇の上で細くなる。値踏みの目、である。四年の社交界で、値踏みの目だけは見慣れた。ただ、この方のそれは、値切る側ではなく、目利きの側の目をしている。


「では――公爵夫人の座には、興味があって?」


「分かりません。座ったことがありませんので」


「まあ」


「それに、座と結婚するわけでは、ありませんし」


 嘘のない範囲で、全部答える。愛想の足りない分は、正確さで答える。四年間「可愛げがない」と呼ばれてきた、わたしのやり方である。

 陛下は、ぱちり、と扇を閉じられた。


「気に入ったわ。愛想は雇えるけれど、正直は雇えないのよ」


 それから陛下は、茶器を置いて、名乗り直された。


「アデライド。……先代北方公爵の妹です。あれの、叔母」


 なるほど、血は水よりも濃い。満月の夜会に「呪いの犬公爵」を臨席させた設え。あの夜の、面白がるような扇の陰。――この方が、風上でいらしたか。


「あの夜会を設えたのは、わたくしよ。娘のある家々が『(たた)り筋』と腰を引いて、縁談のひとつも持ち込まないものだから。……隠して(しな)びさせるくらいなら、いっそ広間の真ん中で見せてしまおうと思ったの」


「ひと月で伴侶を得られなければ、位を失う――世間が存じておりますのは、どこまでですの?」


「そこまでよ。それより先は、あの家のこと。……聞きたければ、あの子の口からお聞きなさい」


 正しいお答えである。わたしは頷いて、熱いお茶を、正確にひと口いただいた。


「最後に、意地の悪い質問をひとつだけ。あなた、あの子に恋をしていて?」


 恋……?


 その単語を、自分の件で、他人の口から聞くのは初めてである。四年の婚約に、あの単語は一度も出てこなかった。条件、家格、釣り合い。出てくるのは、そういう乾いた単語ばかりだった。……音だけで、こんなに落ち着かない単語だとは、知らなかった。


「……検分中です」


「けんぶん」


「はい。朝ごとに、項目が増えますので」


 陛下は今度こそ声を立てて笑われ――笑いの尾が消える頃、目の色だけ、ふ、と真剣になさった。


「急がなくてよくってよ。急かされた言葉なんて、犬も狼も、聞きやしないのだから」


 その言い回しの正確な意味を受け取る耳を、あの日のわたしは、まだ持っていなかった――。


     ◇


 同じ日の夕。ギルモア侯爵家の観劇の桟敷(さじき)に、フィオナ様の姿はなかったという。


 先約を忘れておりましたの、ごめんなさいね――翌日の微笑みは完璧で、ランドルフ様は笑って許した。


 愛想のある女は、いい。……そう思った胸の端に、小さな棘がひとつ残ったことまでは、まだ、ご本人も気づいていない。


     ◇


 辞去は昼下がりであった。王宮の大門を出て――足が止まる。

 門柱の脇に、黒い山があった。

 衛兵が二人、敬礼と困惑の中間の姿勢で固まっている。お気の毒なことである。


「……公爵様。首尾のご報告は、明朝の散歩の折り返しで、というお約束でしたが」


「散歩だ。偶然、道がこちらだった」


「お屋敷は、逆の方角と伺っておりますが」


「……遠回りの日も、ある」


 門柱の陰からグスタフどのが音もなく進み出て、恭しく引き紐を差し出した。


「携行しております」


「ご用意のよろしいことです」


 というわけで、帰りは徒歩になった。仔馬ほどの黒犬と、令嬢と、家令どの。往来の目は、もう数えないことにしている。


「首尾は?」


「及第だそうです」


「あなたが及第でないはずがない」


 ――前を向いたまま、当然の口調で言うのは、おやめいただきたい。

 耳が、勝手に熱くなる。表情の動かない顔に生まれたことを、今日ほど有り難く思った日はない。

 四年間、わたしのいただく褒め言葉には、必ず「のに」が付いていた。笑えば可愛いのに。黙っていれば、なのに。……この方の言葉には、のに、が付かない。事実の顔をして、まっすぐに来る。事実でないところだけが、問題なのである。


「買いかぶりです」


「俺は買い物が下手だ。……だが、目利きは家業でな」


 そうまっすぐに来られては、返す言葉の置き場所が分からない。わたしは黙って歩幅を合わせた。紐は、今日もたるんでいる。


 別れの辻で、西の空を見上げた。重たい色の雲が、ゆっくり育ち始めている。


「……また、雨が来ます」


「ほう」


「今度は、大きい傘を持って参ります」


「犬は濡れてよい」


 強情な横顔である。存じております。存じておりますとも。

 ――大きい傘は、持って参りますけれども。

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