4. 引き紐は、条例ですので
翌朝の辻には、黒い犬と、燕尾服の老紳士が立っていた。老紳士は背中に、革帯のついた立派な木箱を背負っている。
「家令のグスタフでございます。以後、朝のお供を仰せつかりました」
「セシリアです。……その箱は?」
「殿の執務でございます」
聞けば、印章も署名も人の手が要るため、公爵様の政務は夜明けの一刻に集中するのだという。つまり今後、あの丘の上が執務室になる。
「それから、こちらを」
グスタフどのが恭しく差し出したのは、上等な革の引き紐であった。飾り気はないのに、手に馴染む艶がある。
「……これは?」
「北の鹿革でございます。殿が、御自ら選ばれました」
「公爵様が。犬具屋で。ご自分の引き紐を」
「三軒、回られました」
どこから突っ込むべきか分からないので、事実だけ受け取っておく。
「して、これを、わたしがどうすれば?」
「王都条例、二百十一条」
犬が言った。
「市中において、大型の犬は引き手を要する」
「公爵様は、犬では」
「今は犬だ」
大真面目である。
「法と約束は、雪より重い。北の家訓だ」
「……公爵様をお散歩させる罪は、ありますか?」
「ない。調べた」
調べたのか。
というわけで、わたしは王都でただ一人、公爵に引き紐をつけて歩く令嬢になった。手袋の中の革は硬く、拍子抜けするほど軽い。
夜明け前の大通りは、荷馬車と、パン屋の小僧と、市場へ急ぐおかみさんたちのものである。仔馬ほどの黒犬を紐で引く令嬢は、当然、目立つ。
「あらまあ、大きいこと」
「嬢ちゃん、そりゃ馬かい?」
「犬です。よく躾の行き届いた」
「躾……」
犬が低く復唱したが、聞かなかったことにする。
八百屋のおかみさんが、荷台の陰から黒パンの端を差し出してきた。
「ほれ、でっかいの。食うかい?」
犬の目が、ちらりとわたしを見る。許可を求める目である。公爵様が、市場のおかみさんの施しを、わたしの許しを待って受けようとしている。
「頂きましょう。朝のお勤めの前ですから」
犬は驚くほど上品にパンの端をくわえ、軽く頭を下げた。おかみさんは大笑いして、貴族の犬かねえ、と手を叩く。
「ええ。まあ、そのようなものです」
事実、紐はずっと、たるんだままである。彼はわたしの歩幅に、最初から合わせて歩く。
――四年のあいだ、わたしはいつも半歩遅れる側であった。ランドルフ様の歩幅は大きく、気まぐれに速くなり、わたしは人前で小走りになる。直してほしいと言えば、可愛げがないと言われるのが分かっていたから、言わなかった。ただ、小走りの回数を数えるのをやめた日のことは、覚えている。
たるんだ紐が、朝の光の中で緩く揺れる。それだけのことが、あの四年を、そっと笑い飛ばしてくれる。
歩幅の合う相手と歩くのが、こんなに楽だとは、知らなかった。
丘の上で、夜明けの鐘が鳴る。光がほどけ、人の姿の公爵様がベンチの隣に座った。今朝の話題は、北の冬支度である。
「雪囲いの木材の割り当てでな。南の商人は、北の冬を知らん。……俺の領では、雪が屋根を潰す」
「今、『俺』と仰いました」
「…………私、だ」
「お直しにならなくて結構です。散歩に敬語は、重うございます」
「……そうか。では、楽にさせてもらう」
それから彼は、少しだけ楽に喋った。楽に喋る彼は、雪の話ばかりする。雪の重さ、雪の音、雪の下で春を待つ麦の話。北がお好きなのが、声で分かる。わたしは相槌の代わりに、時折ひとつだけ質問を置いた。質問は、嘘をつかずに済む相槌である。
王都の朝は、パンと薪の匂いで始まる。北の朝は、何の匂いで始まるのだろう。――今度、聞いてみよう。聞きたいことが翌朝に持ち越される暮らしを、わたしは始めているらしい。
語らいの締めは、執務である。グスタフどのが木箱を開き、膝板ごと書類を差し出す。丘の上、朝日の中で、公爵様の羽根ペンが走る。インクが光を受けて、一瞬だけ金色に見える。風が書類の端を跳ね上げ、わたしが手で押さえる。礼のつもりか、ペンの尻が小さく揺れた。
「世界で一番、眺めのいい執務室でございます」
グスタフどのは誇らしげである。
帰り道――辻の向こうの路地に、灰色の大きな犬がいた。ずいぶん老いて見えるのに、立ち姿に妙な風格がある。古い目だ、と思う。理由は言えないけれど、そう思わせる目であった。犬は、こちらをじっと見ている。
「お知り合いですか?」
「いや。……野良だろう」
公爵様はそう言ったが、灰色の犬が視界から消えるまで、耳をそちらへ向けたままであった。
辻での別れ際、わたしは空を見上げた。西から、重たい色の雲が寄せてきている。
「明日は、雨だそうです」
「ほう」
「傘は、お嫌いですか?」
「犬に傘は要らん」
犬は前を向いたまま言う。強情な横顔である。北の男は皆こうなのか、この方だけなのか、いずれ確かめたい気もする。
「わたしは、雨でも歩きます」
「知っている。……では、明日も」
――要る要らないの話では、ないのですけれど。




