表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/6

4. 引き紐は、条例ですので

 翌朝の辻には、黒い犬と、燕尾服の老紳士が立っていた。老紳士は背中に、革帯のついた立派な木箱を背負っている。


「家令のグスタフでございます。以後、朝のお供を仰せつかりました」


「セシリアです。……その箱は?」


「殿の執務でございます」


 聞けば、印章も署名も人の手が要るため、公爵様の政務は夜明けの一刻に集中するのだという。つまり今後、あの丘の上が執務室になる。


「それから、こちらを」


 グスタフどのが恭しく差し出したのは、上等な革の引き紐であった。飾り気はないのに、手に馴染む艶がある。


「……これは?」


「北の鹿革でございます。殿が、御自ら選ばれました」


「公爵様が。犬具屋で。ご自分の引き紐を」


「三軒、回られました」


 どこから突っ込むべきか分からないので、事実だけ受け取っておく。


「して、これを、わたしがどうすれば?」


「王都条例、二百十一条」


 犬が言った。


「市中において、大型の犬は引き手を要する」


「公爵様は、犬では」


「今は犬だ」


 大真面目である。


「法と約束は、雪より重い。北の家訓だ」


「……公爵様をお散歩させる罪は、ありますか?」


「ない。調べた」


 調べたのか。


 というわけで、わたしは王都でただ一人、公爵に引き紐をつけて歩く令嬢になった。手袋の中の革は硬く、拍子抜けするほど軽い。


 夜明け前の大通りは、荷馬車と、パン屋の小僧と、市場へ急ぐおかみさんたちのものである。仔馬ほどの黒犬を紐で引く令嬢は、当然、目立つ。


「あらまあ、大きいこと」


「嬢ちゃん、そりゃ馬かい?」


「犬です。よく(しつけ)の行き届いた」


「躾……」


 犬が低く復唱したが、聞かなかったことにする。

 八百屋のおかみさんが、荷台の陰から黒パンの端を差し出してきた。


「ほれ、でっかいの。食うかい?」


 犬の目が、ちらりとわたしを見る。許可を求める目である。公爵様が、市場のおかみさんの施しを、わたしの許しを待って受けようとしている。


「頂きましょう。朝のお勤めの前ですから」


 犬は驚くほど上品にパンの端をくわえ、軽く頭を下げた。おかみさんは大笑いして、貴族の犬かねえ、と手を叩く。


「ええ。まあ、そのようなものです」


 事実、紐はずっと、たるんだままである。彼はわたしの歩幅に、最初から合わせて歩く。

 ――四年のあいだ、わたしはいつも半歩遅れる側であった。ランドルフ様の歩幅は大きく、気まぐれに速くなり、わたしは人前で小走りになる。直してほしいと言えば、可愛げがないと言われるのが分かっていたから、言わなかった。ただ、小走りの回数を数えるのをやめた日のことは、覚えている。

 たるんだ紐が、朝の光の中で緩く揺れる。それだけのことが、あの四年を、そっと笑い飛ばしてくれる。

 歩幅の合う相手と歩くのが、こんなに楽だとは、知らなかった。


 丘の上で、夜明けの鐘が鳴る。光がほどけ、人の姿の公爵様がベンチの隣に座った。今朝の話題は、北の冬支度である。


「雪囲いの木材の割り当てでな。南の商人は、北の冬を知らん。……俺の領では、雪が屋根を潰す」


「今、『俺』と仰いました」


「…………私、だ」


「お直しにならなくて結構です。散歩に敬語は、重うございます」


「……そうか。では、楽にさせてもらう」


 それから彼は、少しだけ楽に喋った。楽に喋る彼は、雪の話ばかりする。雪の重さ、雪の音、雪の下で春を待つ麦の話。北がお好きなのが、声で分かる。わたしは相槌の代わりに、時折ひとつだけ質問を置いた。質問は、嘘をつかずに済む相槌である。

 王都の朝は、パンと薪の匂いで始まる。北の朝は、何の匂いで始まるのだろう。――今度、聞いてみよう。聞きたいことが翌朝に持ち越される暮らしを、わたしは始めているらしい。


 語らいの締めは、執務である。グスタフどのが木箱を開き、膝板ごと書類を差し出す。丘の上、朝日の中で、公爵様の羽根ペンが走る。インクが光を受けて、一瞬だけ金色に見える。風が書類の端を跳ね上げ、わたしが手で押さえる。礼のつもりか、ペンの尻が小さく揺れた。


「世界で一番、眺めのいい執務室でございます」


 グスタフどのは誇らしげである。


 帰り道――辻の向こうの路地に、灰色の大きな犬がいた。ずいぶん老いて見えるのに、立ち姿に妙な風格がある。古い目だ、と思う。理由は言えないけれど、そう思わせる目であった。犬は、こちらをじっと見ている。


「お知り合いですか?」


「いや。……野良だろう」


 公爵様はそう言ったが、灰色の犬が視界から消えるまで、耳をそちらへ向けたままであった。


 辻での別れ際、わたしは空を見上げた。西から、重たい色の雲が寄せてきている。


「明日は、雨だそうです」


「ほう」


「傘は、お嫌いですか?」


「犬に傘は要らん」


 犬は前を向いたまま言う。強情な横顔である。北の男は皆こうなのか、この方だけなのか、いずれ確かめたい気もする。


「わたしは、雨でも歩きます」


「知っている。……では、明日も」


 ――要る要らないの話では、ないのですけれど。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ