3. 黒犬公爵、応接間に鎮座する
「本日の昼、公爵様がご挨拶に参られます」
「……ほう。それはそれは」
「犬のお姿で」
「い、犬か……。そりゃそうだよなぁ」
父は、目をつぶって腕を組み……動かなくなった。
アシュフォード伯爵家の朝食の席である。父は昨夜の夜会から帰ってからずっとこの調子で、胃のあたりを押さえては、世間、公爵家、ギルモア家、と三つの単語を順繰りに唱えている。家門の心配事を一手に引き受ける係なのだ。気弱だけれど、悪い方ではない。
安心させて差し上げたいが、あいにく、わたしは持っていない言葉を言わない主義である。代わりに、事実を差し上げることにしている。
「求婚の作法は、六つの申し合わせでございましょう。今朝の丘で口上の儀を頂きましたので、次は家訪いの儀です」
「は、早すぎやしないか!?」
「公爵様はお急ぎではありません。ただ、正確なのです」
午前のうち、屋敷は静かに大騒ぎだった。応接間の長椅子を下げるべきか否かで執事と侍女頭の意見が割れ、茶菓子は犬歯で噛めるものかと料理長が青くなり、犬用の敷物という発想に全員が行き着いては、公爵家に対して犬用とは何事かと打ち消し合っている。わたしは口を挟まなかった。答えは向こうが持ってくる気がしたからである。
正確な殿方は、正確な時刻にいらした。
応接間の扉を、侯爵家家令のグスタフどのが恭しく開ける。黒い巨躯が敷居をまたぎ、窓の光を半分遮って、絨毯の上に音もなく鎮座した。長椅子には乗らない。床にお座りになっても、目の高さが父とほぼ同じである。茶の湯気の向こうで、父の喉が上下する。
グスタフどのは携えた革鞄から銀の水盆を取り出し、卓の端へ静かに据えた。
「殿は茶を嗜まれません。――今は」
準備の悩みの答え合わせが、一言で済んでしまった。
「ノルトヴァルト家当主、ヴィルヘルムである。息女セシリア嬢との婚約を前提に、正式なお付き合いを願いたく、参上した」
「は、はい。恐悦、至極……」
父の声が裏返る。無理もない。喋る犬が応接間で完璧な口上を述べているのである。
そこへ、母が入ってきた。
「まあ」
母は黒犬を一目見て、頬に手を当てた。
「まあ、まあ、まあ。なんてご立派な」
「妻のコーデリアです。あの、これは公爵様で」
「存じておりますとも。――公爵様、不躾をお許しくださいませ。触れても?」
娘と同じことを聞く母である。嫁入り前、猟犬七頭と育った人なのだ。
「……よい」
五分後、公爵様は母の手により、耳の後ろから首筋、背中の順で、玄人の手つきで撫でられていた。目が細い。北の威厳が、うっすら蕩けている。
母の手際を眺めるうち、わたしの手のひらの奥が、また勝手に懐かしがり始める。毛並みを撫でると心はもふもふの世界に包まれるのだ。撫でたい――――。
「毛艶のよろしいこと。お食事は? 湯浴みは? 冬毛のお手入れはどなたが?」
「奥方様。恐れながら、殿はただいま、それどころでは」
グスタフどのが慇懃に割って入り、母は渋々手を引く。そのとき――解放の喜びか、公爵様の尻尾が、ぶん、とひと振りされ――――花瓶が、飛んだ。
陶器の砕ける音が、応接間に響き渡る。
「…………弁償する」
「お気になさらず」
母が先に言った。
「あれは頂き物で、二十年、捨てる口実を探しておりましたの」
「むしろ、お手柄です」
わたしも保証した。昼の光の中、絨毯の上の破片がきらきらして、当の壺の柄より、よほど綺麗である。父だけが、割れた壺と公爵を交互に見て、胃を押さえている。
「し、しかし、よろしいのか、お前……その、犬様とのご婚儀など、せ、世間が」
「あなた」
母が扇を、ぱちりと閉じた。
「世間は、あなたの上司ではありませんよ」
父は、それきり黙った。この家の力関係である。
お帰りの刻。気がつけばわたしは、侍女より先に立って、門までの十歩をお送りしていた。見送りたい、と思ったのである。理由を探しかけて、やめた。理由のない行動というものを、わたしはずいぶん久しぶりにしている。
昼下がりの光が、黒い毛並みの縁を銅色に染めていた。門の石柱の陰は涼しく、秋の蔦が一枚だけ色づき始めている。
「明朝も、いらっしゃいますか?」
「約束した」
公爵様は、当然のように言う。
「北では、約束は雪より重い」
「重うございますね、雪」
「ああ。……人が死ぬ重さだ」
声の温度が、一度だけ下がった。その意味を聞く資格は、まだわたしにはない気がした――。
立ち去りかけた黒い巨躯が、ふと足を止める。
「それと。御父上に」
「父に?」
「胃の薬を、北から送らせる。雪山の薬草のものだ。よく効く」
「……本日いちばんの、贈り物かと存じます」
尻尾が、ひと振りだけ揺れた。今日は、風ということにして差し上げる。
夜。父が青い顔で書斎から出てきた。ギルモア家が社交界に触れを回している、という。曰く――破棄の非は、アシュフォード側にあり。
わたしは驚かない。ただ、日付と文言を、正確に覚えておくことにした。数えるのは、得意なのである。




