2. 夜明けの鐘から、一刻だけ
わたしの朝は、夜明け前に始まる。
顔を洗い、髪をきっちり編み、歩きやすい靴を履いて、まだ暗い街を歩く。市壁の外れの丘まで行って、戻ってくる。雨の日も、風の日も――婚約を破棄された翌朝も、である。
この習慣の理由を、家の者はもう誰も訊かない。誰との約束でもない。強いて言えば、わたしがわたしと交わした、いちばん古い約束である。
街外れの辻に、黒い犬が座っていた。
「おはようございます、公爵様」
「調べた」
「そのようですね」
犬は立ち上がり、わたしの隣に並んだ。仔馬ほどの犬と令嬢が並んで歩く絵は人目に立つだろうが、幸いこの時刻の道に人は少ない。空はまだ藍色で、東の端だけが薄く錆び始めている。点し残りの街灯がひとつ、じじ、と鳴って消えた。パン屋の窯に火が入ったばかりで、通りには粉と薪の匂い。初秋の冷たい空気が、喉の奥で心地よい。
「同行してよいか」
「お好きに。ただし、わたしは速いです」
「望むところだ」
本当に速かったのは、あちらである。四本の足は卑怯だと思う。
道中、彼はほとんど喋らなかった。わたしも、喋らない。
沈黙が、少しも痛くない。
四年間の婚約の間、沈黙はいつも減点だった。何か気の利いたことを言え、と急かす目。言えずにいると、つまらない女、と裁く目。だから、沈黙の隣で息がしやすいというだけで、この犬はもう、わたしの知るたいていの殿方より上等である。
丘の上に着く頃、東の空が薄くほどけてくる。王都が一望できる、わたしの折り返し地点である。屋根の連なりが灰色から薔薇色へ、順番に目を覚ましていく。煙突の煙が細く立ち、遠くで最初の荷馬車が石畳を鳴らす。古いベンチがひとつ。昔、白い犬とここまで歩いた――その話は、まだしない。
夜明けの鐘が鳴った。
石が鳴る音、ではない。空気の底が震える音である。
――――光が、ほどけた。
黒い毛並みが朝日に溶けるように薄れ、輪郭が糸のようにほつれて、組み直される。眩しさに一度だけ瞬きをすると、そこに、人が立っている。
黒髪。灰青の目。雪焼けの肌に、姿勢のいい長身。年の頃は二十七、八。立ち方が軍人のそれである。
彼は上着の襟を正すと、騎士の礼をした。
「ヴィルヘルム・ノルトヴァルト。北方公爵である。……昨夜は、あの形で失礼した」
「セシリア・アシュフォードです。犬のお姿も、ご立派でした」
「そうか」
彼の斜め後ろで何かが揺れた気がしたが、人の姿に尻尾はない。気のせいだろう。
彼は生真面目な口調のまま、まっすぐにこちらを見た。
「改めて――口上の儀を申し上げる。セシリア・アシュフォード嬢。私は、あなたに求婚する」
朝日が丘を染めていく。続く説明は、簡潔で正確だった。
北方公爵家は、代替わりごとに盟の験を受けること。相続の満月からひと月、昼も夜も獣の姿で過ごし、人に戻れるのは夜明けの鐘から一刻だけであること。次の満月までに、自由な意思で「隣に立つ」と誓う伴侶が現れなければ、公爵位を失うこと。
「ひと月……あと二十九日、ですか」
「そうなる」
「それは、その……お急ぎですね?」
「急がない」
即答であった。
「験の誓いは、自由な意思でなければ意味がない。だから、これだけは先に言っておく。――断ってくれてよい。あなたの言葉は、あなたのものだ」
風が丘の草を撫でていく。
あなたの言葉は、あなたのもの。
その一言が、胸のずいぶん深いところまで、まっすぐに落ちてきた。四年のあいだ、わたしの言葉はいつも検分される側にある。可愛げの量を計られ、愛想の不足を数えられ、正確さだけを咎められてきた。言葉をまるごと「あなたのものだ」と返してよこした人は、この方が初めてである。
「……ひとつ、伺っても?」
「なんなりと」
「花嫁候補なら、他にいくらでもおられるでしょう。なぜ、わたしなのですか」
彼は少しも迷わなかった。
「昨夜、あなたは犬に許可を取った。人にするのと同じ礼で。……獣の私と人の私に、同じ目の高さで口を利いた者を、私は初めて見た」
この方は、わたしの欠点と呼ばれてきたものを、そのまま理由に挙げたのだ。愛想のなさを。誰にでも同じ礼しかできない、この不器用を。
……困った。断る理由を、探すつもりだったのに。
「……考えます」
「ああ」
「考えている間の散歩には、お付き合いします」
約束は、守れる分しか言わない。これがわたしの精一杯である。彼は、それで十分だというように頷いた。
「十分だ」
鐘から一刻。彼は懐中時計を確かめ、律儀に礼をして、丘を降りる前にまた黒い犬へ戻った。大きな体が朝の光の中でほどけ、組み直される。痛むのかどうかは、聞きそびれた。
「では、また明朝」
「はい。……あの、公爵様」
「なんだ」
「今、尻尾が揺れました」
「――風だ」
風は、吹いていなかった。




