1. 「犬とでも結婚しろ」とのことですので
「セシリア・アシュフォード! お前との婚約は、今夜限りで破棄させてもらう!」
満月の夜会である。
王妃陛下主催、王宮の大広間。楽団の弓が旋律の途中で止まり、磨き上げられた床に三百人分の衣擦れが沈む。香水と蝋燭の匂いの濃い空気の中、視線だけがこちらへ集まってくるのが、肌で分かる。
わたしの元婚約者――ギルモア侯爵家のランドルフ様は、顔を赤くして声を張り上げた。隣には男爵令嬢のフィオナ様。庇うように彼の腕へ手を添えて、困り顔の微笑みまで完璧である。あの微笑みは、たいしたものだと思う。誰に向けても、寸分同じ角度で咲くのだ。
「四年だ! 四年待っても、お前は俺に笑いかけひとつしなかった!」
正確には、笑いかけは二十六回である。数えていたので間違いない。彼が覚えていないのは、その二十六回がすべて、彼の遅刻のお詫びを受け取る場面だったからだと思う。
愛想のない女――――。
社交界がわたしに貼った札で、たぶん、半分は正しい。わたしは作り笑いが下手だ。おかしくないときに笑うと、嘘をついた気分になる。嘘は、つかないと決めている。――いつからかは、今夜は思い出さない。
「お前のような愛想のない女は――」
ランドルフ様は、玉座の方角をちらりと見て、勝ち誇った。
「――犬とでも結婚しろ!」
広間の空気が、ひやりと一段下がる。何人かの息を呑む音。扇の陰のささやきが、さざ波のように壁際まで走っていく。今夜のこの広間で「犬」が誰を指すのかを、知らない者はいないからである。
――犬。
犬なら、さっき会った。
――――半刻前。
わたしには、約束の時刻より二十分早く着く癖がある。愛想の代わりに正確さで生きてきた人間の、数少ない特技である。
早く着いた分は、庭を歩く。今夜の王宮の庭は月がよく、噴水の飛沫が月光を細かく砕いて、頬にほんの少し、冷たい霧を届けてくる。刈り込まれた黄楊の匂い。靴の下で、砂利が小さく鳴る。
その噴水の縁に、大きな黒い犬がいた。
仔馬ほどもある。黒い毛並みが月光を呑んで、静かに艶めき、首輪はない。犬は行儀よく座って、ただ月を見上げている。
「……こんばんは。触れても?」
犬に対しても、わたしは許可を取る。相手が誰であれ、約束と許可は大事である。
「よい」
犬が言った。低い、よく響く男の人の声で。
わたしは手を止めなかった。耳の後ろの毛は温かく、冬の毛布のように深い。手のひらの奥が、勝手に懐かしがる。この温度を、わたしの手は昔、知っていた――白い毛並みの、記憶の底で。
胸の奥がわずかに軋んで、わたしはその軋みに蓋をする。いつもの手順である。
「……驚かないのか」
「気配で、ただの犬ではないと思っておりました。それに、こんなに姿勢のいい犬を、わたしはもう一頭しか知りません」
昔、うちにいた白い犬も、月を見るときだけ、こんな座り方をした――。
――――。
大広間は静まり返っていた。婚約破棄の口上のせいではない。
人垣が、割れたからである。
王妃陛下の足元から、あの黒い犬が、ゆっくりと歩いてくる。爪が大理石を叩く音だけが、こつ、こつ、と響く。燭台の光が黒い毛並みの上を滑り、波のように流れていく。
犬はわたしの前で止まり、ランドルフ様を一瞥し、それから言った。
「では、私ではどうだ」
悲鳴が上がった。令嬢が三人ほど扇を落とし、どこかで給仕が盆を取り落とす。
「犬が喋りました」
わたしは事実を述べた。驚いたのではない。庭の「よい」の、裏が取れたという確認である。
「私は公爵のノルトヴァルトだ」
「まあ。それはご丁寧に」
ざわめきが波のように広がっていく。北方公爵。ノルトヴァルト家の呪い。代替わり。ひと月で伴侶を得なければ、位を失うらしい――切れ切れに聞こえる噂話が、目の前の犬の輪郭を描いていく。
なるほど。道理で、姿勢がいいわけである。
「セ、セシリア……お前、まさか」
ランドルフ様の顔から、赤みが引いていく。ご自分で仰ったのに。犬とでも結婚しろ、と。
正直に申し上げると、即答したい気持ちが三割ほどあった。はい、と言えばこの広間の全員の顔が見ものだろう。けれどそれは意趣返しのための返事であって、この犬の求婚への返事ではない。わたしは、守れるかどうか分からない言葉を口にしない。誰かを言い負かすためには、なおさらである。
わたしは黒犬に向き直り、膝を折って礼をした。
「光栄なお申し出です。ですが」
「ですが?」
「――明朝の散歩を終えてから、お返事に伺います」
広間が、二度目の静寂に落ちた。犬は尾をゆっくりとひと振りして、頷く。
「よかろう。では明朝、あなたの散歩の道で待つ」
「道を、ご存じですの?」
「調べる」
遠くの玉座の傍で、王妃陛下が扇の陰にお笑いになるのが見えた。あの子、約束は違えないわよ――そんなお声が、聞こえた気がする。
こうしてわたしは、婚約を破棄された夜に、犬に求婚された。
人生とは、正確に生きていても、こういうことが起こる――。




