第七話 あんぱん——十五年しまっておいた中身——
午前二時、また世界が消えた。
窓の外が真っ白に光って、腹の底まで響く雷の音。モニターも、デスクライトも、冷蔵庫の唸りも、いっせいに止まった。
あの夜と、まったく同じだった。
違うのは、二つ。
一つ。スマホの電池が、百パーセントあること。あの夜から、充電ケーブルだけは、毎晩心配になるほど確かめるようになった。
二つ。俺が、外に出る理由を、もう知っていること。
雨宮さんからの返事は、まだ来ていなかった。既読もついていない。寝ているのかもしれない。二時だ。四時に起きる人にとっては、いちばん深く眠っている時間だ。
分かっている。分かっていて、俺は玄関でスニーカーを履いた。
靴箱の横に、傘はなかった。五百円のあの傘は、まだ雨宮さんのところにある。
傘なしでいいと思った。どうせ濡れる。
*
坂を下りる。
雨は、あの夜と同じくらい激しかった。三歩でスニーカーに水が染みて、五歩で、今度は後悔しなかった。
角を曲がる。シャッターの下りたパン屋の前を通り過ぎる。
その先の、小さな交差点。
小さな光が、ぽつんと、暗闇の中に浮かんでいた。
今度は、地面の近くじゃなかった。胸の高さで、動かずに、ずっとそこにあった。
空が光った。
稲妻の青白い光の中で、透明なビニール傘が浮かび上がった。
その下で、雨宮さんが、スマホを持って立っていた。
探しているのではなかった。ただ、坂の上を、まっすぐ見ていた。
俺が来るほうを。
光が消えて、また暗闇になった。スマホの小さな光が、少しだけ揺れた。
「……雨宮さん」
「蒼太さん」
同時だった。
雨宮さんの傘の下に入ると、雨の音が、傘を叩く音に変わった。
「……なんで、ここに」
「眠れなくて。そしたら雷が鳴って、停電して、真っ暗で。……ここに来たら、また会える気がして」
雨宮さんは、傘の柄を両手で握りしめていた。
「返事、できなくてごめんなさい。……ずっと、ごめんなさい」
「いいんです」
「よくないんです。私、勝手に期待して、勝手に怖くなって、勝手に逃げて、……蒼太さんは何も悪くないのに」
雨宮さんの声が、震えていた。
「雨宮さん。話したいことがあるんです」
雨宮さんが、顔を上げた。
「昼間、ばあちゃんに会ってきました。じいちゃんが入院してた夏のこと、聞きに」
そのとき、また空が光った。
近かった。光と音が、ほとんど同時に来た。
真っ白な光の中で、雨宮さんの顔が浮かび上がった。濡れた前髪。少し赤くなった目。傘の隙間から落ちた雨粒が、頬を伝っていく。
泣いているのか、雨なのか、分からない顔。
——あ。
その瞬間、引き出しの奥のいちばん奥が、音を立てて開いた。
*
雨の匂い。濡れた芝生。病院の白い壁。
十一歳の俺は、中庭の芝生にしゃがみ込んでいた。傘は病室に置いてきた。毎日毎日探して、今日こそは、と思っていた。じいちゃんに、幸せを持っていくんだ。
軒下のベンチで、女の子が泣いていた。
俺より小さい子だった。黄色いワンピース。両手で顔を覆って、声を殺して、肩だけを震わせていた。
気になったけれど、どうしていいか分からなくて、俺は芝生に目を戻した。
そしたら、あった。
探していた場所じゃなかった。探し終わって顔を上げた、足元。雨に打たれて頭を垂れたクローバーの中に、一つだけ、葉が四枚のやつが。
——幸せってのは、落ちてるもんだ。
じいちゃんの声がした。
泥だらけの指で、そっと摘んだ。手のひらに載せて、じっと見た。これを持って帰ったら、じいちゃんは喜ぶ。きっと喜ぶ。
でも。
俺は、軒下のベンチのほうを見た。
じいちゃんは、病室で笑っていた。この子は、一人で泣いている。
歩いていって、女の子の前に立った。女の子が、指の隙間から、俺を見上げた。
「幸せ、落ちてたよ」
女の子は、きょとんとしていた。
「……泣いてると、下、見えないでしょ。だから、俺が拾っといた」
*
光が消えて、暗闇に戻った。
俺は、雨宮さんを見ていた。暗くて、もう顔は見えなかった。でも、すぐそこにいるのが分かった。
「……泣いてると、下、見えないでしょ。だから、俺が拾っといた」
口から、そのまま出ていた。
雨宮さんが、息を止めたのが分かった。
「……それ、私、話してない……」
雨宮さんの声が、崩れそうになっていた。
「誰にも話してない。母にも。……宝物みたいに、私だけが覚えてる言葉だったのに」
「黄色いワンピース、着てましたよね」
雨宮さんが、傘を持ったまま、もう片方の手で口元を押さえた。
「ばあちゃんに聞いた話じゃなくて、今、ちゃんと思い出しました。……遅くなって、ごめんなさい」
十五年だ。
じいちゃんがいなくなってから、雨が嫌いになって、あの夏を引き出しの奥に押し込んで、鍵をかけていた。その中に、この人も一緒にしまい込んでいた。
なのに、この人は、十五年ずっと、あの四つ葉を持っていてくれた。
雨宮さんの手が、ふいに震えた。
「……待ってください。蒼太さんが毎日、中庭で四つ葉を探してたのって。……おじいさんの、ための」
答えられなかった。それが、答えになった。
「私の母は、元気になったのに。……おじいさんの分の幸せを、私が、もらっちゃったんですか」
雨宮さんの声が、雨に溶けそうになった。
「違います」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「じいちゃん、あの日、ようやったって言ったんです。四つ葉は、いちばん要るところに落ちるもんだって。……あの四つ葉は、ちゃんと届いたんです。雨宮さんのお母さんのところに」
十五年、怖くて開けられなかった引き出しの中身は、後悔じゃなかった。
じいちゃんが頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれた、あの日の続きだった。
「あの夜、なんであんなに綺麗に見えたのか、やっと分かりました」
「……綺麗、ですか」
「土砂降りの中で、びしょ濡れで。なのに、全然雨に負けてなかった。大事なものだけを、まっすぐ探してて」
雨の音が、傘を叩いていた。
「十一歳の俺が、泣いている子を放っておけなかったように。……今の俺は、たぶん、あの夜からずっと、あなたから目が離せなかったんです」
心臓が、雨よりうるさかった。
「雨宮さん。俺は、あなたが好きです。十五年前の男の子としてじゃなくて、今の俺として」
暗闇の中で、雨宮さんが、小さく鼻をすする音がした。
それから、傘の柄を握っていた手が、そっと、俺の手に重なった。
冷たくて、でも、温かかった。
「……蒼太さん」
「はい」
「十五年分のありがとうと、今の好き。……どっちから言えばいいか、分からないんですけど」
その瞬間、周り中の街灯が、いっせいにぱっと灯った。
急に明るくなった世界で、雨宮さんは、泣きながら笑っていた。
あの夜、稲妻の中で見たよりも、ずっと綺麗だった。




