最終話 四つ葉のメロンパン——拾ってくれた幸せ——
◇ 灯
最初に気づいたのは、一年前の、雨の午前だった。
店のガラス戸の向こうを、ビニール傘の男の人が歩いていた。猫背で、眼の下にはわかりやすい隈があって、ずっと足元ばかり見て歩く人。
足元ばかり見て歩く人なんて、たくさんいる。分かっている。
でも、その人の見方は、少し違った。落ち込んでいるのでも、スマホを見ているのでもなくて、まるで、何か落ちていないか探しているみたいな。
雨の中庭で、芝生にしゃがみ込んでいた、あの男の子みたいな。
まさか、と思った。思って、笑った。十四年も前の、名前も顔も覚えていない男の子と、通りすがりの男の人を重ねるなんて。少女漫画の読みすぎだ。
その人は、その日、初めて店に入ってきた。カレーパンと、クリームパンを一つずつ買っていった。
それから月に二度、同じ顔で、同じものを買いに来た。
毎回同じだから覚えた、と、あの朝、蒼太さんには言った。
半分は本当で、半分は嘘だった。明るくなってからお客さんだと気づいた、と言ったのも、本当は嘘だ。
*
あの土砂降りの夜。
家に着いて、鍵を出そうとしたら、キーホルダーがなかった。鎖だけが、切れて残っていた。
気づいたら、傘も持たずに飛び出していた。
雨なんて、どうでもよかった。あの四つ葉がなくなったら、あの雨の日のことが、全部夢だったことになってしまう気がした。
だから、泣かなかった。
泣いてると、下が見えない。あの子が教えてくれた。だから私は、雨の中で、泣くのをこらえて、ただ地面だけを見ていた。
蒼太さんが、あのときの私を「濡れているのに綺麗だった」と言ってくれたけれど。
もしそう見えたのなら、それはたぶん、十五年前にあの子がくれた言葉のせいだ。
暗闇の向こうから、あの人が声をかけてきたとき、顔は見えなかった。でも、声で分かった。カレーパンとクリームパンの人だ。
心臓が、変な音を立てた。
そして、あの人が排水溝から四つ葉を拾い上げてくれたとき、私は、思わず口に出していた。
幸せ、落ちてた。
その言葉に、あの人の肩が、ほんの少しだけ揺れたのが見えた。止まっていた時計が、いっせいに動き出したみたいだった。
*
にわか雨の日に、蒼太さんの傘をまた借りたのは、わざとだ。本当は、店のロッカーに置き傘があった。
五百円の傘が手元にあれば、また会う理由ができる。二十四にもなって、中学生みたいなことを考えた。
四時の電話は、毎朝、楽しかった。
青ともうちょっと青で悩む人の声を聞きながら、まだ暗い坂を下りる。それだけで、生地をこねる手が、いつもより少し軽かった。
だから、怖くなった。
公園で、蒼太さんが「覚えてない」と言ったとき。がっかりしたのと同じくらい、自分が怖くなった。
私が好きなのは、今の蒼太さんなのか。それとも、十五年前の男の子を、この人に重ねているだけなのか。
この人に、私の思い出を押しつけているだけなんじゃないか。
分からなくなって、電話ができなくなった。
五日間。
四時に起きて、一人で坂を下りた。角の自販機の前を通るたびに、「今、自販機の前です」と言いそうになった。店に着くたびに、「いってきます」の行き場がなかった。
その代わりみたいに、仕込みの合間に、店長さんに頼んで、オーブンの隅を借りた。
メロンパンの生地を、四つ葉の形にする練習だった。何のために、と聞かれたら、たぶんうまく答えられなかった。ただ、手を動かしていないと、落ち着かなかった。
丸い生地を四つくっつけて焼くと、膨らんで、ただの大きな丸になった。切れ込みを入れると、今度は、ちぎれてばらばらになった。
店長さんは、演歌を歌うのをやめて、焦げた一つをつまみ上げて、「こりゃ三つ葉だな」と笑った。
焦げた三つ葉は、全部自分で食べた。少し苦くて、でも、ちゃんと甘かった。
何度焼いても、うまくいかなかった。葉っぱが四枚そろうのは、やっぱり、そう簡単なことじゃないらしい。
五日目の朝、ようやく、四枚の葉が離れずに焼き上がった。オーブンの窓の向こうで、少しいびつな四つ葉が、ふっくらと膨らんでいくのを見ながら、私は思った。
これを、あの人に食べてほしい。
十五年前の男の子じゃなくて、カレーパンとクリームパンの人に。
焼き上がったそれを見て、店長さんが「名前は」と聞いた。四つ葉のメロンパンです、と答えると、そのまんまだな、と店長さんはまた笑った。それから、明日から店に並べていいぞ、と言ってくれた。
十五年前の男の子は、あの朝、いってらっしゃいとは言ってくれない。
言ってくれるのは、今の蒼太さんだけだ。
五日目の夜、四つ葉のメロンパンのことを思いながら、ようやく、それがはっきり分かった。
届いたメッセージは、「今夜、大雨だそうですね」。何度も読んで、既読をつけるのが怖くて、通知の画面でばかり読んでいた。
そして、雷が落ちて、世界が消えた。
私は、五百円の傘を持って、あの交差点に行った。
来なくてもいい、と思っていた。来なかったら、朝になってから、自分から電話しようと決めていた。
でも、稲妻の光の中で、坂の上から、傘も差さずにびしょ濡れで歩いてくる人が見えたとき。
私は、十五年前と同じものを見た気がした。
雨の中を、まっすぐこちらに歩いてくる、濡れた男の子。
——ああ、そうか。
濡れているのに綺麗に見えるのは、お互い様だったんだ。
*
次の朝。
午前四時四分。
私は、いつものように坂を下りながら、蒼太さんに電話をかけた。
一回。二回。三回。四回。
六回目で、ようやくつながった。
「……ふぁい」
電話の向こうで、蒼太さんの声が、完全に寝ぼけていた。
「……蒼太さん、もしかして、寝てました?」
「……寝てました。……えっ、寝てました。俺、寝てましたよ」
後半は、ほとんど叫び声だった。
私は、夜明け前の坂道で、声を上げて笑った。新聞配達のバイクのおじさんが、びっくりした顔でこちらを見て通り過ぎた。
「赤飯、炊かなきゃですね」
「……炊きます。炊き方知らないけど」
「じゃあ、今度一緒に炊きましょう」
言ってから、私は少しだけ赤くなった。電話の向こうで、蒼太さんが黙ったのが分かった。たぶん、同じくらい赤くなっている。
「……そういえば、バナー、青に決めました」
黙ってしまった照れくささをごまかすみたいに、蒼太さんが言った。
「青ですか。もうちょっと青じゃなくて?」
「はい。雨上がりの空の色にしました。……ゆうべ、帰ってから、ちゃんと納品しました」
少しだけ、誇らしそうな声だった。
青と、もうちょっと青。どっちでもいいやつですね、と、あの朝、私は言った。
でもたぶん、この人にとっては、どっちでもよくなかったのだ。
角の自販機の前を通り過ぎる。店の明かりが見えてくる。
「……蒼太さん」
「はい」
「今日、お店に来てくれますか。新しいパンを焼くんです。四つ葉の形のメロンパン」
「……辛いものと、甘いものと、もう一個ですね」
「三個目は、お代いりません」
店の前に着いた。ガラス戸に、まだ暗い空と、電話を耳に当てた私が映っている。
スマホのケースで、四つ葉のキーホルダーが、小さく揺れた。
「……いってきます」
「いってらっしゃい。……灯さん」
初めて、名前で呼ばれた。
私は、扉に手をかけたまま、しばらく動けなかった。
東の空の端が、少しずつ明るくなっていく。昨夜の雨の名残りの水たまりが、その光を拾って、小さく光っていた。
四つ葉はな、いちばん要るところに落ちるもんだ。
蒼太さんのおじいさんの言葉を、私は胸の中で繰り返した。
十五年前、あの四つ葉は、母のところに落ちた。
だったら今度は、私が拾う番だ。雨の日のたびに、この人の足元に落ちている幸せを、一つ残らず。
暗闇の中で、貴方に出会ってみたら。
幸せが、落ちていた。
拾ってくれたのは、十五年前も、今度も、同じ人だった。
(了)




