第六話 塩パン——会えない朝の、しょっぱさ——
次の朝、四時に電話は鳴らなかった。
代わりに、四時五分に、短いメッセージが来た。
《おはようございます。今日は急いでて、電話できなくてごめんなさい》
次の日も、同じだった。
《しばらく、お店が忙しくなりそうです》
その次の日は、スタンプが一つだけ。小麦粉まみれの、にわとり。
四日目には、何も来なかった。
*
分かりやすい。分かりやすすぎる。
公園で、雨宮さんの質問に「覚えてない」と答えた。それからだ。
十五年探している男の子と、同じ病院で、同じ夏を過ごしていたかもしれない男。期待させておいて、覚えてないです、で終わった男。
そりゃあ、がっかりもする。
俺は、パソコンの前でバナーの色を「青」から「もうちょっと青」に変えて、また「青」に戻した。それを三十回くらい繰り返した。
それでも、分かったことが一つあった。
俺は、雨宮さんが好きだ。
あの夜、稲妻の中で見たときから、たぶんずっと。恋に落ちる、なんて言葉を、自分に使う日が来るとは思わなかった。でも、落ちるというのは、たぶんこういうことだ。気づいたときには、もう足元がない。
だからこそ、気になって仕方がなかった。
雨宮さんの胸の中には、十五年前からずっと、泥だらけの手で四つ葉をくれた男の子がいる。名前も顔も覚えていないのに、十五年、毎日持ち歩いて、土砂降りの夜中に探しに出るくらい大事な男の子が。
——勝てる気がしない。
小学生相手に、本気でそう思った。
*
四日目の午前十一時、俺はパン屋の前に立っていた。
立っていた、というか、通り過ぎるふりをして、歩く速度を落としていた。
ガラス戸の向こうで、雨宮さんが、年配の女の人に食パンを包んでいた。いつもと同じエプロン、いつもと同じ、後ろで一つにまとめた黒髪。お客さんに何か言われて、笑っている。
笑っているのに、なぜか、疲れているように見えた。
扉の取っ手に、手を伸ばしかけた。
入って、何を言うんだ。カレーパンとクリームパンください。それから? なんで電話くれないんですか、とでも聞くのか。小学生に負けた男が。
手を引っ込めて、そのまま通り過ぎた。
角を曲がったところで、立ち止まった。歩道のアスファルトの割れ目から、小さなクローバーが、一株だけ顔を出していた。
気づいたら、しゃがみ込んでいた。
三枚。三枚。三枚。どれも、当たり前の三枚葉だった。
当たり前だ。四つ葉なんて、そう簡単に見つかるものじゃない。分かっているのに、指先で葉を一枚ずつめくって数えている自分がいた。
——この感じ。
指先の感触に、身に覚えがあった。濡れた芝生。泥の匂い。何度も何度も、こうやって葉を数えたことがある。いつだ? どこで?
背中で、車が一台止まる音がした。振り返ると、荷台に脚立や木の苗を積んだ軽トラックが、信号待ちをしていた。ドアに、色の褪せた文字で「森田造園」と書いてある。
植木屋だ。
じいちゃんの顔が、一瞬だけ、麦わら帽子の下で笑った。
信号が青に変わって、トラックは行ってしまった。俺は、しゃがんだまま、しばらく動けなかった。
あの夏のことを、一番よく知っているのは、俺じゃない。
ばあちゃんだ。
*
五日目の昼、俺は電車に乗っていた。
行き先は、ばあちゃんの家だ。じいちゃんが死んでからも、ばあちゃんはこの街の外れの平屋で、一人で暮らしている。正月に顔を出すくらいで、自分から会いに行くのは、何年ぶりか分からなかった。
「あら、蒼太。どうしたの、平日に」
玄関で、ばあちゃんは目を丸くした。それから、俺の顔をじっと見て、「また寝てない顔して」と笑った。
仏壇に手を合わせてから、こたつでお茶をもらった。遺影の中で、日に焼けたじいちゃんが、麦わら帽子をかぶって笑っている。
「……ばあちゃん。じいちゃんが入院してた夏のこと、覚えてる?」
ばあちゃんは、湯呑みを持ったまま、少しだけ驚いた顔をした。
「あんたからその話をするの、初めてだね」
「……うん」
「覚えてるよ。あんた、毎日毎日、病院の中庭で四つ葉探してたでしょう」
湯呑みを持つ手が、止まった。
「じいちゃんに持っていくんだって。四つ葉があれば、じいちゃんの病気が治るって。でもあの人、植木屋だからさ。あんたが必死に探してるのを見て、窓から笑って言ったんだよ」
ばあちゃんは、じいちゃんの遺影を見上げた。
「『四つ葉はな、探して見つけるもんじゃねえ。幸せってのは、落ちてるもんだ。気づいた奴が拾うんだ』って」
幸せってのは、落ちてるもんだ。
胸の奥で、何かが、かちりと音を立てた。
「それで、あんた、ある雨の日に、とうとう見つけたんだよ。びしょ濡れの泥だらけで病室に帰ってきて。でも、手には何も持ってなくて」
「……何も」
「『見つけたけど、あげちゃった』って。中庭で泣いてる女の子がいたから、あげちゃったって。じいちゃん、大笑いしてね。ようやった、それでいい、って、あんたの頭をぐしゃぐしゃに撫でて」
湯呑みのお茶が、色の薄い水のように揺れていた。
木の根っこみたいな手。がしがしと頭を撫でられる感触。この前、公園で思い出した、あの手。
あれは、その日の手だったのだ。
その手は、秋には、もうなかった。
「……ばあちゃん」
声が、自分でも驚くほどかすれた。
「俺があのとき、四つ葉をじいちゃんに渡してたら。……じいちゃんは」
言いかけて、やめた。十五年、引き出しの奥で鍵をかけていたのは、たぶん、この問いだった。
ばあちゃんは、しばらく黙っていた。それから、遺影のじいちゃんに目をやって、静かに言った。
「あの人ね、自分の病気がもう治らないって、あの夏にはもう分かってたんだよ」
湯呑みを持つ手に、力が入った。
「だから、余計に嬉しかったんだと思う。あんたが見つけた幸せが、自分のところじゃなくて、これから先のある誰かのところに行ったことが。……あの晩、あの人、言ってたよ。『四つ葉はな、いちばん要るところに落ちるもんだ』って」
いちばん要るところ。
雨の中庭で、一人で泣いていた女の子。
じいちゃんは、それでいいと言ったのだ。十五年前に、もう。
「……その女の子のこと、何か言ってた?」
「さあ。あんた、名前も聞かなかったって言ってたよ。雨の女の子だって、それだけ」
雨の女の子。
雨宮さん。
雨宮灯さん。
ばあちゃんは、湯呑みを置いて、黙って俺を見ていた。それから、少しだけ嬉しそうに言った。
「あんた、あの秋から、雨の日が嫌いになったでしょう。じいちゃんの葬式も、雨だったから。……やっと、雨の話ができるようになったんだね」
*
帰りの電車の中で、俺は窓の外を見ていた。
空が、少しずつ暗くなっていく。車内の電光掲示板に、天気予報が流れていた。今夜は、大雨。雷を伴うところも。
胸の奥のもやもやは、完全に消えていた。
代わりに、ものすごく恥ずかしい気持ちだけが残っていた。
——俺は、五日間も、小学生の自分に嫉妬していたのか。
笑いそうになって、口元を手で覆った。向かいの席の女子高生が、怪訝そうにこちらを見た。
でも、まだ分からないことがあった。
ばあちゃんが話してくれたのは、ばあちゃんの記憶だ。俺の記憶じゃない。
雨の中庭で、俺は何を見たのか。泣いている女の子に、何を思って四つ葉を渡したのか。それを、自分の言葉で雨宮さんに伝えられなければ、それはただの「ばあちゃんから聞いた話」だ。
それでも。
驚くほど自然に、指が、スマホの画面で雨宮さんの名前を押していた。
《今夜、大雨だそうですね》
送信してから、もう少し気の利いたことが書けなかったのか、と頭を抱えた。
既読は、つかなかった。
電車の窓に、最初の雨粒が、斜めに一本、線を引いた。




