第五話 サンドウィッチ——本音を挟んで——
雨宮さんの休みは、火曜日だった。
「もしよかったら、明るいときに会いませんか」
そう言ったのは、俺のほうだった。四時の電話の最後に、昔から言うつもりだったみたいな顔で。実際には、三日前から文面を考えていた。
雨宮さんは、少し黙ってから、じゃあ公園に行きませんか、と言った。
「市民病院の隣の、大きい公園。秋は、銀杏がきれいなんです」
市民病院。また、その名前だった。
*
火曜日は、嘘みたいに晴れた。
待ち合わせの公園の入口に、雨宮さんは先に来ていた。クリーム色のニットに、長いスカート。髪を下ろしているのを、初めて見た。エプロンでも、びしょ濡れでもない雨宮さんは、まるで別の人みたいで、でもちゃんと雨宮さんだった。
「……晴れてますね」
「晴れてますね」
最初の一分は、天気の話しかできなかった。毎朝電話で話しているのに、明るいところで顔を見ると、何を話せばいいのか分からなくなった。
銀杏並木を歩いた。黄色い葉が、足の下でかさかさ鳴った。落ち葉を踏みながら、雨宮さんはときどき、足元に目を落とした。何かを探すみたいに。
雨宮さんが、手作りのサンドウィッチを持ってきてくれていた。パンはもちろん店のものだ。ベンチに並んで座って、それを食べた。卵と、ハムと、カツ。
「……辛いものと、甘いものじゃないんですね」
「今日は、お腹にたまるものと、もっとお腹にたまるものです」
俺は笑った。笑ったら、ようやく肩の力が抜けた。
食べ終わってから、池まで歩いた。
水面に、黄色い銀杏の葉が何枚も浮かんでいた。その間を、鴨が四羽、のんびり滑っていく。
柵の前に、「鳥にエサをあげないでください」と書いた看板が立っていた。雨宮さんは、サンドウィッチの包みを持ったまま、その看板と鴨を交互に見て、少しだけ残念そうな顔をした。
「……パンの耳、持ってきちゃったんですけど」
「持ってきちゃったんですか」
「持ってきちゃったんです。帰って、ラスクにします」
俺は笑った。雨宮さんも、笑った。
一羽の鴨が、くるっと逆さまになって、水の中に頭を突っ込んだ。尾羽だけを水面に立てて、しばらくそのまま動かない。
「何、探してるんでしょうね」
「餌ですかね」
鴨は一度顔を上げて、羽をぶるっと震わせた。それからまた、逆さまになった。何度も、何度も。
「……あの子、諦めないですね」
雨宮さんが、柵に両手をついて、じっとその鴨を見ていた。
「見つかるまで探すの、分かるなあ。……がんばれ」
小さな声だった。鴨に言っているのか、自分に言っているのか、分からないくらいの。
何度目かに水面に出てきたとき、鴨のくちばしが、小さな水草をくわえていた。
「あった!」
雨宮さんが、子どもみたいな声を上げて、俺の袖を引っ張った。それから、自分が何をしたのか気づいて、慌てて手を離した。
「……すみません」
「いえ」
袖を引かれたところが、しばらく熱かった。
二人で、ベンチに戻った。さっきより少しだけ、近いところに座った気がした。
公園の遠くに、市民病院の白い建物が見えた。数年前に建て替えられて、今はガラス張りの、きれいな建物になっている。
なぜか、そっちをあまり見たくなかった。
「……蒼太さんは、子どものころから、この街なんですか」
雨宮さんが、サンドウィッチの包みを折りたたみながら聞いた。
「いや、実家は隣の市です。こっちには、じいちゃんとばあちゃんが住んでて。……小五の夏に、じいちゃんがそこの病院に入院してたんです」
言ってから、自分で少し驚いた。その話を誰かにするのは、たぶん初めてだった。
雨宮さんの手が、止まっていた。
「夏休みの間、毎日見舞いに行ってたんです。じいちゃん、植木屋で。病室でもずっと、草とか花の話ばっかりしてて」
夜の天井を見つめているときと同じように、記憶の引き出しが、少しだけ開いた。
消毒液の匂い。長い廊下。窓際のベッド。木の根っこみたいな手で、俺の頭をがしがし撫でる、じいちゃん。
そこまでで、引き出しは止まった。
「……その秋に、死んじゃったんですけど」
雨宮さんが、息をのんだのが分かった。
「それから、あんまり思い出さないようにしてたんです。あの夏のこと。思い出さないようにしてたら、本当に、あんまり思い出せなくなっちゃって。……眠れなくなったのも、たぶん、そのころからです」
言いながら、そうだったのか、と思った。十五年、一度もそう考えたことはなかった。
雨宮さんは、黙っていた。
それから、すごく小さな声で、聞いた。
「……蒼太さん。その夏、雨の日に、病院の中庭に出たこと、ありますか」
雨宮さんの手の中で、スマホにぶら下がった四つ葉が、秋の光を拾って揺れていた。
俺は、考えた。必死に考えた。
雨。芝生。濡れたスニーカー。
何かが、引き出しの奥で、一瞬だけ光った気がした。稲妻みたいに。でも、光が消えたあとには、何も残らなかった。
「……すみません。覚えてないです」
正直に言うしかなかった。
雨宮さんは、少しだけ目を伏せて、それから、すぐに顔を上げて笑った。
「そうですよね。十五年も前のことだし。……変なこと聞いて、ごめんなさい」
「いや……」
「いいんです」
雨宮さんは、立ち上がって、スカートの裾についた銀杏の葉を払った。
「……もう一回、鴨、見に行きませんか。さっきの子、また何か見つけてるかもしれないですよ」
明るい声だった。
でも、先を歩く雨宮さんの肩が、ほんの少しだけ震えているように見えたのは、たぶん、秋の風のせいだけではなかった。
*
夕方、駅で別れるとき、雨宮さんは言った。
「今日、楽しかったです」
「俺もです」
「……明日の朝も、電話していいですか」
「もちろんです」
雨宮さんは、改札の向こうで手を振った。いつもと同じように。
帰り道、公園の遠くに、夕焼けに染まった病院の建物が見えた。
俺は、今度は、目をそらさなかった。
あの夏、あの建物のどこかに、雨の中庭があった。
そこに、泣いている女の子がいた。
——本当に、いたのか?
分からなかった。でも、もしいたのなら。
雨宮さんが十五年探している男の子が、もし俺だったら。
——いや。そんな都合のいい話があるわけない。
俺は、ポケットの中で拳を握った。小学生の頃の自分に、嫌っているのか、期待しているのか、自分でも分からなかった。




