第四話 食パン——毎朝の、当たり前の幸せ——
午前四時四分。
四が二つ並んでいる。いつもの俺なら、縁起でもないとか、適当なことを言っているところだ。でも、そうは思わなかった。
スマホが、ポン、と鳴った。
《おはようございます。起きてますか》
素っ気ない一行だった。なのに、俺はベッドの上で跳ね起きて、正座してその一行を三回読んだ。
《起きてます。いつもどおり》
《いつもどおり、だめですね》
《いつもどおり、だめです》
笑っているスタンプが返ってきた。小麦粉まみれになった、にわとりのスタンプだった。
それが、始まりだった。
*
毎朝四時に、雨宮さんから連絡が来るようになった。
三日目には、電話になった。雨宮さんがパン屋まで歩く十五分間だけの、短い電話。
「今、角の自販機の前です」
「俺は、次の仕事のバナーの色を、まだ決められてません」
「何色と何色ですか」
「青と、もうちょっと青」
「……それ、もうどっちでもいいやつですね」
雨宮さんの声の向こうで、新聞配達のバイクの音が通り過ぎる。鳥が鳴き始めるのも聞こえる。俺の部屋の窓の外はまだ真っ暗なのに、電話の向こうには、もう朝が始まっているみたいだった。
不思議なもので、電話を切ったあと、俺はだいたい、すとんと眠りに落ちた。何年も忘れていた落ち方だった。
四時十五分に「いってきます」と言われて、「いってらっしゃい」と返す。それだけで、一日がちゃんと終わったような気がするのだ。
話すのは、どうでもいいことばかりだった。
ある朝は、店長さんの話。七十手前のおじいさんで、生地をこねながら演歌を歌うらしい。デュエットの場所は、いつも雨宮さんが担当させられる。
ある朝は、俺の話。クライアントに「もっと、こう、バーンとしてほしい」と言われて、三日間「バーン」の意味を考え続けた話。雨宮さんは、電話の向こうで、歩けなくなるほど笑っていた。
ある朝は、何も話さなかった。雨宮さんが「今日は、星がすごいです」と言ったきり、二人とも黙った。俺はカーテンを開けて、同じ空を見上げた。坂の上と坂の下で、同じ星を見ていると思うと、電話の沈黙が、少しも気まずくなかった。
医者にも教えてもらえなかった寝かしつけの方法が、坂の下のパン屋にあった。
*
二週間が過ぎた、ある朝。
その日は、雨だった。あの夜ほどではないけれど、細かい雨が、窓ガラスを静かに濡らしていた。
「雨の日は、傘の音がしますね」
「……あの傘ですか」
「あの傘です。五百円の」
俺は笑った。一週間前、急なにわか雨の日に店に寄ったら、雨宮さんが傘を持っていなくて、あの傘をまた貸したのだ。「返すのは、次の雨の日でいいですか」と言われて、理由は聞かなかった。
「……蒼太さん」
「はい」
「このキーホルダーの話、してもいいですか」
雨宮さんの声が、少しだけ、いつもと違った。
「もちろんです」
「私が九つのとき、母が大きな手術をしたんです。市民病院で」
市民病院。
その言葉に、胸のどこかが、小さく鳴った気がした。
「手術の日、待合室にいるのが怖くて、一人で中庭に出たんです。雨が降っていて、軒下のベンチでずっと泣いていたら、知らない男の子が来て」
電話の向こうで、雨宮さんの足音が止まった。
「その子、傘も差さずに、雨の中の芝生にしゃがみ込んで、何かを探してたんです。それで、しばらくして、泥だらけの手で、これを私にくれたんです」
四つ葉のクローバー。
「その子は、何て言ったと思いますか」
「……何て、ですか」
雨宮さんは、少しだけ間を置いた。
「『幸せ、落ちてたよ』って」
雨の音が、急に遠くなった。
「……あの夜、私、つい口に出しちゃったんです。拾ってもらったとき」
覚えていた。雨の音にまぎれた、独り言みたいな小さな声。
あのとき、胸の奥で、古い引き出しがかたりと鳴った気がした。でも、それが何の音だったのか、自分でも分からなかった。
「……聞こえてました。誰に言ってるんだろうって、思ってました」
「その子に、です」
雨宮さんは、少し照れたように笑った。
「その子の名前も顔も、もうほとんど覚えてないんです。でも、あの言葉だけは、ずっと覚えてて」
「……お母さんは」
「元気です。今も、実家で毎日、犬の散歩してます」
雨宮さんは笑って、それから、小さな声で付け足した。
「手術、成功したんです。あの四つ葉を握りしめて待ってたら、先生が出てきて、もう大丈夫ですよって。……子どもっぽいけど、今でも、あの四つ葉のおかげだって思ってるんです。だから私、ずっと、あの子にありがとうって言いたくて。あの日、私は泣いてばっかりで、お礼も言えなかったから」
電話の向こうで、カラン、とベルの音がした。パン屋に着いたのだ。
「あ、着いちゃった。……いってきます」
「……いってらっしゃい」
電話が切れた。
その朝、俺は初めて、四時十五分の電話のあとに眠れなかった。
天井を見つめながら、考えていた。
市民病院。雨の中庭。四つ葉。
どれも、俺の記憶のどこにも、はっきりとは見当たらない。なのに、引き出しの奥のほうで、何かが、かさかさと音を立てている。
それに、もう一つ。
雨宮さんが十五年も、お礼を言いたくて探している、名前も知らない男の子。
その子のことを考えると、胸の奥が、少しだけ、もやっとするのだった。
——いや、小学生相手に、何を。
俺は布団を頭までかぶった。窓の外で、雨の音が、傘を叩く音みたいに聞こえていた。




