第三話 ちぎりパン——少しずつ、近づきたい——
傘は、三日後の夕方に返ってきた。
正確には、返しに来てくれた。俺のアパートの前まで。
チャイムが鳴って、俺は確かめもせずにドアを開けた。赤い夕焼けを背に、あの人が立っていた。乾いたビニール傘を、何かの賞状みたいに両手で持っている。
「……えっ」
心臓が跳ねて、声が裏返った。
あの人は、一瞬きょとんとしてから、くすっと笑った。
「……やっぱり、のぞかずに開けるんですね。そんな気がしてました」
俺は慌てて、三日前から着ているスウェットの袖を引っ張った。どうにもならなかった。
「……なんで、家が分かったんですか」
笑われた照れ隠しに、つい、それを聞いてしまった。最悪の質問だと、言ってから思った。
「あの夜、坂をゆっくり上って、このアパートに入っていくのが見えたので。……すみません、怪しい者じゃないんです。いや、家に押しかけている時点で、十分怪しいんですけど」
どこかで聞いたような台詞だった。
俺が吹き出すと、あの人も笑った。
「今日、早番で三時上がりなんです。傘、ありがとうございました」
差し出された傘の柄に、小さな紙袋が掛けてあった。中で、カレーパンとクリームパンが、一つずつ寄り添っている。
「……辛いものと、甘いもの」
「一個ずつです」
完全に読まれている。
*
気づいたら、二人で坂を下りていた。
駅まで送ります、と言ったのは俺のほうだった。言ってから、まだ明るいのに変だったかな、と思った。でも、あの人は、じゃあお願いします、とあっさり頷いた。
夕焼けの中を、歩いた。あの夜と同じ道が、全然違う道に見えた。
「そういえば、まだ名前、聞いてなかったですよね」
先に言ったのは、あの人だった。
「雨宮です。雨宮灯」
「……雨宮さん」
「名前に雨が入ってるんです。だから小さいころ、よく雨女って言われました」
「あかり、は、どう書くんですか」
「灯りの、灯です。漢字一文字で」
きれいな名前だと思った。雨の中の、明かり。あの夜、真っ暗な交差点で揺れていた、小さなスマホの光を思い出した。
「俺は、蒼太です。蒼いに、太い」
「蒼太さん」
口の中で、確かめるように、雨宮さんは俺の名前を繰り返した。
大通りに出る手前で、コンビニの前を通り過ぎた。
雨宮さんが、あ、と小さく声を上げた。
「あの夜、蒼太さん、ここまで来ようとしてたんですか」
「……充電器を買いに。結局、たどり着きませんでしたけど」
「たどり着かなくて、よかったです」
雨宮さんはそう言ってから、自分の言葉に慌てたみたいに、少し早口になった。
「だって、そうじゃなかったら、キーホルダー、見つからなかったので」
「……そうですね。俺の詰めの甘さが、初めて役に立ちました」
雨宮さんが吹き出して、俺も笑った。あの夜、充電ケーブルが抜けていなかったら、俺はたぶん、部屋でスマホを眺めながら、停電が終わるのを待っていた。
「雨女って言われるの、嫌じゃなかったですか」
話題を変えるつもりで聞くと、雨宮さんは、少し考えるように空を見上げた。
「小さいころは、嫌でした。遠足も運動会も、私のせいで雨になるって、男子に言われて。……でも、雨の日に、いいことがあったこともあるので」
「いいこと」
「はい。だから今は、そんなに嫌いじゃないです」
それが何かは、言わなかった。雨宮さんの指が、コートのポケットの上から、何かを確かめるようにそっと触れた。
「蒼太さんは、雨、好きですか」
「……あんまり、好きじゃないですね」
「なんでですか」
言われて、考えた。濡れるから。靴が汚れるから。どれも本当だけれど、どれも違う気がした。
「……なんでだろう。気づいたら、そうだったんです」
雨宮さんは、何も言わずに、少しだけ俺の横顔を見ていた。それから、また前を向いた。
「じゃあ、あの夜は、嫌いな雨の中を、歩いてきてくれたんですね」
そう言われると、そうだった。でも、あの夜の雨が嫌いだったかと聞かれたら、よく分からなかった。
小さな公園の横を通り過ぎる。滑り台の下に、あの夜の雨の名残りの水たまりが、まだ少しだけ残っていた。
「蒼太さんは、お仕事、夜なんですか」
「在宅で、Webのデザインを。夜が仕事ってわけじゃないんですけど、眠れないので、つい夜に作業しちゃうんです」
「眠れないんですか」
「三時前に寝られたら、その日は赤飯を炊きます」
雨宮さんは笑った。それから、少しいたずらっぽい顔で言った。
「私、毎朝四時に起きるんです。パンの仕込みがあるので」
「四時。……俺がいちばん、もうだめだって思ってる時間ですね」
「じゃあ、蒼太さんがいちばんだめだって思ってる時間に、私はいちばんやる気を出してるんですね」
世界のどこかに、同じ時間に、まったく違う気持ちで起きている人がいる。
当たり前のことなのに、それが、すぐ坂の下にいると分かっただけで、四時の暗さが少しだけ薄くなる気がした。
駅の改札の前で、雨宮さんは立ち止まった。
「あの、蒼太さん」
「はい」
「……もし、四時に起きてたら。連絡してもいいですか」
雨宮さんは、コートのポケットから出したスマホを、胸元で握っていた。そのスマホケースに、あの四つ葉のキーホルダーが、新しい鎖でぶら下がっていた。
「……もちろんです」
言ってから、声が少し裏返っていたのに気づいた。
雨宮さんは、改札を抜けてから一度だけ振り返って、小さく手を振った。
俺は、夕焼けの中を一人で帰った。
手の中には、乾いたビニール傘と、辛いものと甘いものが一つずつ入った紙袋。
五百円の傘が、なぜか、五百円よりずっと重かった。
角を曲がったところで、足が止まった。
——連絡先、聞いてない。
連絡してもいいですか、と言われて、もちろんです、と答えた。答えただけだった。電話番号も、LINEも、何一つ交換していない。
俺の人生は、だいたいこういうところで詰めが甘い。
その夜は、四時まで起きていた。当然、スマホは一度も鳴らなかった。
*
次の日の午前十一時、俺は「こむぎとことり」のガラス戸を開けた。
カラン、とベルが鳴る。レジの向こうで、雨宮さんが顔を上げた。一瞬ぽかんとして、それから、みるみる耳まで赤くなった。
「……あの、昨日」
「連絡先、ですよね」
同時だった。
「今朝、四時に起きて、スマホを持って、……送る先がないことに気づいたんです」
雨宮さんは、両手で顔を覆った。
「俺も、昨日の帰り道で気づきました」
「言ってくださいよ」
「言う先が、なかったので」
雨宮さんが、指の隙間から吹き出した。
カレーパンとクリームパンを一つずつ買うと、雨宮さんはレシートの裏に、LINEのIDを書いてくれた。小さくて、丸い字だった。
その夜、俺は生まれて初めて、朝四時にアラームをセットした。起きている自信はあったけれど、念のために。




