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第二話 カレーパンとクリームパン——ずっと見ていた——

 結論から言うと、あの夜、俺たちは名前も聞かずに別れた。

 あのとき、「会いましたよね」と声を重ねたあと、二人とも次の言葉が出てこなかった。そこへ、車が一台、水たまりを盛大に蹴散らして通り過ぎた。

 頭から水をかぶった俺を見て、女の人は、ごめんなさい、と言いながら笑いをこらえていた。俺は、もうこれ以上濡れようがないので、傘を女の人に押し付けた。

「使ってください。俺の家、すぐそこなので」

「でも、返せない……」

「ビニール傘ですから。五百円の」

 それだけ言って、俺は坂を上った。どうせもう、濡れるだけ濡れている。走るのは諦めて、ゆっくり歩いた。振り返ったら、女の人はまだ交差点に立っていて、俺の傘の下で、両手で何かを大事そうに握りしめていた。

 部屋に戻って、シャワーを浴びて、ベッドに入った。

 当然、眠れなかった。

 どこで会ったんだろう。大学? 前の職場? ジム? いや、ジムには入会して三回しか行っていない。

 天井を見つめながら、記憶の引き出しを片っ端から開けていった。どの引き出しにも、あの人はいなかった。

 なのに、知っている。

 あの目を、前にも見たことがある。


     *


 午前十一時。

 結局一睡もできないまま、俺は朝ごはんを買いに出た。昨夜の雨が嘘みたいに、空はすっかり晴れていた。水たまりが、あちこちで青空を映している。

 坂を下りて、角を曲がる。

 小さなパン屋の前で、足が止まった。

 木の看板に、ひらがなで「こむぎとことり」と書いてある。焼きたての小麦の匂いが、店の前まで漂っていた。

 ここには、月に二度くらい来る。締め切り明けのご褒美で。店内は狭くて、レジにはいつも、エプロン姿の女の店員さんが——

 あ。

 店のガラス戸の向こうで、長い黒髪を後ろで一つにまとめた女の人が、トレーにクロワッサンを並べていた。

 俺は、思わず声が出そうになった。

 ——パン屋の人だ。

 なんだ。そういうことか。会ったことがあるはずだ。月に二度、レジ越しに。いつもありがとうございます、と言ってくれる人だ。

 肩の力が抜けるような、少しだけがっかりしたような、変な気分だった。

 扉を開けると、カラン、とベルが鳴った。

「いらっしゃいませ——」

 女の人が顔を上げて、止まった。

 トングの先のクロワッサンが、トレーの上にぽとりと落ちた。

「……昨夜の」

「……はい。昨夜の、怪しい者です」

 女の人は、一秒黙って、それから、吹き出した。昨夜、暗闇の中で聞いたのと同じ笑い声だった。

「やっぱり。明るくなったとき、あ、お客さんだって思ったんです。いつも、カレーパンとクリームパンを買っていく人」

「……覚えられてたんですね」

「辛いものと甘いもの、一個ずつ。毎回同じなので」

 なんだか恥ずかしくなって、俺は首の後ろを掻いた。

 そうか。それで、見覚えがあったのか。お互いに。

 謎が解けた。解けたはずなのに、なぜか胸の奥に、小さな引っかかりが残っていた。昨夜、電気が戻る前。稲妻の光の中でこの人を見たときの、あの感じは、レジ越しの記憶とは少し違う気がした。

 もっと遠くて、もっと古い。

 ——気のせいだろう。寝不足だし。

「昨夜は、本当にありがとうございました」

 女の人が、レジの向こうで深く頭を下げた。エプロンの胸元に、安全ピンで、あの透明なキーホルダーが留めてあった。鎖が切れてしまったのだろう。四つ葉が、朝の光を拾って、小さく光っていた。

「それ、大事なものなんですね」

「……はい。お守りなんです。小さいころからの」

 女の人は、指先でキーホルダーにそっと触れた。それから、何かを言いかけて、やめたように見えた。

「……あの、昨夜、拾ってくれたとき」

「はい」

「……いえ。なんでもないです」

 女の人は、少しだけ困ったように笑って、話題を変えるみたいに、トレーにクリームパンを一つ載せた。

「これ、お礼です。今日はお代いらないので」

「いや、いいですよ、そんな」

「だめです。なんだか、いろいろ詰めが甘そうな顔してますよ。甘いもの食べて、ちゃんと寝てください」

 俺は、思わず顔を触った。そんな顔をしているのか。しているのかもしれない。

 結局、カレーパンの分だけ払って、クリームパンはありがたくいただくことになった。

 店を出る前に、女の人が言った。

「傘、今度ちゃんとお返ししますね。乾かしてあるので」

「五百円の傘ですよ」

「五百円の傘でも、です」

 俺は、じゃあ、と頷いた。カラン、とベルが鳴った。

 帰り道、クリームパンの袋を提げながら、気づいた。

 また、名前を聞き忘れた。

 そしてもう一つ。あの人が言いかけてやめた言葉の続きが、妙に気になっていた。

 昨夜、拾ってくれたとき。

 ——あのとき、あの人が呟いた言葉。幸せ、落ちてた。あれは、誰に向けた言葉だったんだろう。

 水たまりに映った青空を踏まないようにしながら、俺は坂を上った。その日は、久しぶりに、昼間にぐっすり眠れた。

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