第一話 ミルクパン——忘れられない甘さ——
午前二時、世界が消えた。
正確には、俺の部屋の電気が消えた。
窓の外が真っ白に光って、一秒後に、腹の底まで響くような雷の音。その瞬間、パソコンのモニターも、デスクライトも、冷蔵庫の低い唸りも、すべてがふっと止まった。
「……嘘だろ」
暗闇の中で、俺は声に出した。
締め切りは明後日。クライアントに渡すバナーのデザインが、あと少しで仕上がるところだった。保存したのは、たぶん三十分前。
いや、それよりも。
手探りでスマホを掴むと、画面の電池マークが、赤く光っていた。
残り、三パーセント。
充電しながら作業しているつもりだったのに、ケーブルが抜けていたらしい。俺の人生は、だいたいこういうところで詰めが甘い。
窓を叩く雨の音が、さっきより大きく聞こえた。電気が消えると、音だけがやけにはっきりする。土砂降りだ。カーテンの隙間から外を見ると、向かいのマンションも、街灯も、全部真っ暗だった。
町内ごと、停電している。
しばらく、ベッドの端に座っていた。どうせ眠れない。ここ何年か、夜中の三時前に眠れたことなんてほとんどない。寝ようとすると、頭の中でどうでもいいことがグルグル回り出す。眠りに落ちる、という言い方があるけれど、俺はもう何年も、その落ち方を忘れている。
暗い部屋で、雨の音だけを聞いていると、なんだか自分がこの世界に一人きりで取り残されたような気がしてきた。
——コンビニ、開いてるかな。
大通りの向こうなら、電気が来ているかもしれない。充電器も買える。それに、明かりのある場所に、少しだけいたかった。
理由なんて、その程度だった。
あとから思えば、その程度の理由で、人生はときどき大きく曲がるらしい。
玄関でスニーカーをつっかけて、靴箱の横に立てかけてあったビニール傘を持って、俺は外に出た。
*
外は、思っていた以上にひどかった。
傘を差しても、雨が横から吹きつけてくる。三歩でスニーカーの中まで水が染みて、五歩で後悔した。
街灯が消えた道は、本当に真っ暗だった。スマホのライトをつけたら電池が持たない。だから俺は、記憶と、時々光る稲妻だけを頼りに歩いた。
アパートの前の坂を下りて、角を曲がる。小さなパン屋の前を通り過ぎる。昼間ならいい匂いがする店だ。今は、シャッターの上を雨が滑り落ちているだけ。
その先の、小さな交差点で。
小さな光が、地面の近くで揺れていた。
最初は、蛍かと思った。十月に蛍なんているわけがないのに。
近づいて、ようやく分かった。スマホのライトだ。誰かが、地面に向けてライトを照らしながら、しゃがみ込んでいる。
傘も差さずに。
そのとき、空が光った。
稲妻の青白い光の中で、一瞬だけ、その人の姿が浮かび上がった。
女の人だった。
長い黒髪が、肩や背中に貼りついている。白いシャツは、雨で全部透けていた。顔を流れる水も、拭おうともしていない。
びしょ濡れだった。
なのに。
なぜか、濡れているようには見えなかった。
いや、濡れている。どう見ても、頭からつま先まで。でも、雨に打たれて縮こまっている人の姿ではなかった。雨なんて最初から存在しないみたいに、その人は、まっすぐ地面だけを見つめていた。
綺麗だ、と思った。
普通なら、ぞっとする場面のはずだった。なのに、少しも怖くなかった。
なんでそう思ったのか、自分でも分からなかった。
光が消えて、また暗闇になった。スマホの小さなライトだけが、水たまりの上を、行ったり来たりしている。
「……あの」
気づいたら、声をかけていた。
女の人が、びくりと肩を震わせて、こちらを見上げた。ライトの光が、俺の顔に当たって、まぶしくて目を細めた。
「あ、すみません。怪しい者じゃなくて。いや、この時間にこんなところを歩いてる時点で、十分怪しいんですけど」
自分で言っていて、何を言っているのか分からなかった。
「……何か、探してますか?」
女の人は、少しだけ黙って、それから、雨の音にかき消されそうな声で言った。
「大切なものを、落としてしまって」
「この辺ですか」
「たぶん。家に着いてから、ないのに気づいて。帰り道に落としたなら、この辺しかないので」
大切なもの、が何なのかは、聞けなかった。この土砂降りの中、傘も差さずに探しに来るくらいだ。
よほど大事なものなんだろう。
俺は、自分のビニール傘を、女の人の頭の上に差し出した。女の人が、驚いたように傘を見上げた。
「手伝います。二人で探したほうが早いですよね」
「でも、電池……」
女の人のスマホの画面にも、赤い電池マークが光っていた。
「俺のは三パーセントです。合わせたら、たぶん十パーセントくらいにはなります」
女の人が、小さく吹き出した。
暗闇の中で、その笑い声だけが、妙にはっきり聞こえた。
*
何を探しているのかも分からないまま、十分くらい、二人で地面を這いつくばるようにして探した。
傘は結局、あまり役に立たなかった。俺もすぐにびしょ濡れになった。
俺のスマホは、五分で力尽きた。
女の人のライトだけが、残った。
もうだめかもしれない、と思い始めたときだった。
また、空が光った。
排水溝の蓋の、格子の隙間。そこに、小さなものが引っかかって、水の流れに逆らっていた。
稲妻の光を反射して、一瞬だけ、きらりと光った。
「——あれ、」
俺は両手を水の中に突っ込んで、それを拾い上げた。
指先ほどの大きさの、透明な樹脂のキーホルダー。女の人がライトを向ける。
中に、色の褪せた、小さな四つ葉のクローバーが封じ込められていた。
何を落としたのか、一度も聞いていなかった。なのに、なぜか分かった。これだ、と。胸の奥が、小さく痛んだ。
どこかで、これと同じものを見たことがあるような気がした。
「……これ、ですか」
女の人は、俺の手のひらの上のキーホルダーを、じっと見つめていた。
それから、雨の音にまぎれるくらいの小さな声で、呟いた。
「……幸せ、落ちてた」
独り言みたいだった。俺にではなく、誰か別の人に向けて言ったような。
なのに、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥のどこかで、古い引き出しが、かたりと鳴った気がした。
女の人が、俺の顔を見た。
雨に濡れたその目が、大きく見開かれていた。
「……あの」
女の人が、何かを言いかけた。
その瞬間、周り中の街灯が、いっせいにぱっと灯った。
電気が戻ったのだ。
急に明るくなった世界で、俺たちは、お互いの顔を初めてちゃんと見た。
あ、と思った。
この人、知っている。
どこかで、確かに会ったことがある。でも、それがどこだったのか、どうしても思い出せなかった。
女の人も、同じ顔をしていた。
「……あの、どこかで……」
「……会いました、よね」
言葉が、同時に重なった。
土砂降りの交差点で、びしょ濡れの二人が、顔を見合わせたまま固まっていた。
雨は、まだ止まっていなかった。




