第三章 告白
七日目の朝は、驚くほど静かだった。
目覚ましの音は鳴っているはずなのに、それがどこか遠くで鳴っているように感じる。耳の奥で、薄い膜を一枚隔てた向こう側から届いてくるみたいに、輪郭がぼやけていた。
目を開ける。
天井がある。
白い。
昨日と同じ。
何も変わっていないはずなのに。
その「変わっていない」という感覚だけが、ひどく頼りなかった。
ここにあるはずの現実が、少しずつ手のひらからこぼれ落ちていくような、そんな感覚。
「……七日目」
口に出す。
声は、ちゃんと出た。
でも、それが自分の声なのか、一瞬だけ分からなくなる。
数えることに、もう抵抗はなかった。
数えたくなくても、身体が勝手に数えてしまうから。
あと、一日。
その事実が、静かに胸の中に沈む。
重さはない。
恐怖も、昨日ほどはない。
ただ、確かにそこにある。
動かせない現実として。
身体を起こす。
軽い。
昨日よりも、さらに軽い。
重力が少しだけ弱くなったみたいに、自分の身体が空気に近づいている気がする。
足を床につける。
触れているはずなのに、触れていない。
冷たさも、硬さも、確かにあるはずなのに。
それが自分に届くまでに、ほんの少しだけ時間がかかる。
遅れて伝わる。
それがもう、当たり前になりかけていた。
鏡の前に立つ。
そこに映っているのは、自分のはずの姿。
制服。
髪。
顔。
全部、見慣れたもの。
なのに。
それが「自分」だと、すぐには思えなかった。
輪郭が薄い。
線が曖昧で、少しだけ背景と混ざっている。
存在しているのに、存在しきれていないみたいな姿。
「……私」
呟く。
鏡の中のそれが、同じように口を動かす。
でも、その動きがほんの一瞬だけ遅れた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、もう「気のせい」で片付けることができないところまで来ている。
それでも。
「……まあ、いいか」
小さく言う。
諦めじゃない。
受け入れているわけでもない。
ただ、これ以上抵抗しても意味がないことを、もう分かってしまっただけだった。
それよりも。
今日をどう過ごすか。
その方が大事だった。
*
学校へ向かう道は、いつもと同じだった。
人がいる。
声がする。
車が通る。
全部、変わっていない。
でも、それらはすべて背景だった。
自分とは関係のない、遠くの景色。
ぶつからない。
視線が合わない。
存在を認識されない。
それが当たり前になっている。
少し前までは、それが怖かった。
でも今は。
怖いという感情すら、少しずつ薄れていた。
それよりも、残っている時間の方がはっきりしている。
教室の前に立つ。
ドアに手をかける。
一瞬だけ、躊躇う。
ここに入れば、いつもの時間が始まる。
でも、それは「最後の一日」に近い時間でもある。
それでも。
扉を開ける。
ざわめきが、流れ込んでくる。
笑い声。
机の音。
話し声。
全部、昨日までと同じ。
その中で。
「おはよ、紗季」
その声だけが、はっきりと届いた。
窓際の席。
橘美琴。
いつもの場所。
いつもの笑顔。
それを見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
「……おはよ」
返す。
声は少しだけ遅れて届いた気がした。
でも、美琴はちゃんとこっちを見た。
それだけでいい。
それ以上は、もう求めない。
席に座る。
周りの会話は、ほとんど意味を持たない。
音としては聞こえる。
でも、内容が自分の中に入ってこない。
ただ、美琴の声だけは、ちゃんと意味を持って届く。
「紗季、今日さ」
何気ない調子。
「帰り空いてる?」
その一言で、すべてが決まる。
今日。
この放課後。
それが、最後になるかもしれない。
いや。
ほとんど確実に、そうなる。
考えるより先に、口が動く。
「……空いてる」
「よかった」
美琴が笑う。
「じゃあ、寄り道しよ」
「うん」
頷く。
そのやり取りが、やけに鮮明だった。
この瞬間が、はっきりと記憶に刻まれていく。
消えないように。
忘れないように。
身体が勝手に覚えようとしているみたいだった。
*
授業中、私はほとんど前を見ていなかった。
黒板も。
先生も。
視界には入っている。
でも、意識は全部、隣に向いていた。
美琴。
ペンを動かしている手。
ノートに書かれる文字。
時々、髪を耳にかける仕草。
その一つ一つを、見ていた。
覚えようとしていた。
どうしてかは、もう分かっている。
なくなるからだ。
この時間も。
この距離も。
この人も。
全部。
自分の中から、消えていく。
その前に、少しでも多く残しておきたかった。
「紗季」
小さな声で呼ばれる。
「ん?」
「ここ、違う」
ノートを指さされる。
計算が一つ間違っていた。
「あ……ほんとだ」
直す。
そのやり取りが、やけに愛おしい。
いつもなら気にも留めないような、ほんの小さなやり取り。
それが今は、かけがえのないものに思えた。
「集中して」
美琴が小さく笑う。
「してるよ」
「してないでしょ」
軽い口調。
でも、その声がちゃんと届いている。
それだけで、十分だった。
ふと、思う。
この声も、もうすぐ聞こえなくなるのかもしれない。
その瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
息が、少しだけ詰まる。
でも、それを顔には出さない。
出したら、終わる気がした。
*
昼休み。
私は、いつも以上に美琴のそばにいた。
距離は、ほんの少しだけ近い。
でも、触れようとはしない。
もう、分かっているから。
触れられないことを。
それでも、近くにいるだけで少しだけ安心する。
「紗季」
「ん?」
「今日さ、どこ行く?」
「どこでもいい」
即答だった。
「なんでもいいの?」
「うん」
本当に、どこでもよかった。
場所なんて、どうでもいい。
隣にいるのが美琴なら、それでいい。
「じゃあさ」
美琴が少し考える。
「公園行こっか」
「……公園?」
「たまにはいいじゃん」
軽く笑う。
その笑顔に、頷く。
「うん」
それでいい。
どこでもいい。
ただ、この時間が続けばいい。
それだけだった。
*
放課後。
教室には、夕方の光が静かに差し込んでいた。
窓の外の空は、昼間より少しだけ色を失っていて、青と橙の境目が曖昧になっている。机の脚が長い影を床に落とし、その影が時間と一緒に少しずつ伸びていく。
「行こっか」
美琴が鞄を肩にかけながら言う。
「うん」
立ち上がる。
椅子を引く音がした。
それがいつもより少しだけ遠く聞こえたけれど、もう気にしないことにした。
廊下を並んで歩く。
人はいる。
すれ違う生徒も、笑いながら階段を駆け下りていくグループも、全部そこにいる。
でも、その中を歩いている自分だけが、少し別の場所にいるみたいだった。
美琴は、そんなことに気づいていない。
少なくとも、今は。
それでよかった。
校門を出る。
正面の道ではなく、少し脇に逸れた細い道へと美琴が進む。
「ほんとに公園なの?」
「うん。そんな顔しなくても、変なとこ連れていかないって」
少しだけ笑う。
その軽さが、ありがたかった。
深刻になりすぎないでいてくれることが、ありがたかった。
住宅街を抜ける。
自販機の前を通る。
古びた塀の横を曲がる。
見慣れているはずなのに、細部が少しずつ遠い。
代わりに、美琴の横顔だけが妙にはっきり見えた。
髪が揺れるたびに、夕方の光を細く反射する。
口元に、うっすらと笑みが浮かんでいる。
たぶん、何でもない顔だ。
でも今の私には、その何でもなさがひどく大切に思える。
公園に着く。
ブランコと、滑り台と、色の剥げたベンチがあるだけの小さな場所。
人はいない。
風が少しだけ吹いていて、木の葉が擦れ合う乾いた音がしていた。
「ここ、久しぶり」
美琴が言う。
「……うん」
頷く。
懐かしい、と思う。
でも、いつの記憶なのかは曖昧だった。
ここに来たことがある。
それは分かる。
何回も。
でも、それがいつだったのか、何を話したのか、細かいことは少しずつ薄れている。
美琴はベンチではなく、ブランコの方へ歩いていった。
「座る?」
「……ううん、見てる」
「何それ」
小さく笑って、美琴はブランコに腰を下ろす。
鎖がきしむ音。
足先で地面を蹴る、ほんの小さな動き。
その揺れ方さえ、記憶に残しておきたいと思った。
私は少し離れた場所に立ったまま、それを見ていた。
距離はほんの数歩。
近づこうと思えば近づける。
でも、近づきすぎるのが怖かった。
触れたいと思ってしまうから。
触れられないことを、また確かめてしまうから。
「紗季」
「ん?」
「ほんとに、今日変」
笑って言う。
でも、その目はまっすぐだった。
軽く流してほしい気持ちと、ちゃんと見ていてほしい気持ちが同時に湧いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……うん」
今回は、もう否定しなかった。
できなかった。
「なんかあったんでしょ」
「……あった」
正直に答える。
その一言だけで、少しだけ楽になる。
隠していることはまだ山ほどあるのに、不思議だった。
「言えないやつ?」
「……うん」
「そっか」
美琴は、それ以上すぐには何も言わなかった。
ブランコが、小さく往復する。
風が吹く。
葉が擦れる。
遠くで車の走る音がする。
その全部の中で、沈黙だけがちゃんと意味を持っていた。
「私、待てるよ」
美琴が、ぽつりと言った。
「え?」
「言いたくなったらでいいってこと」
少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「無理に聞きたいわけじゃないし」
その言葉に、喉の奥が熱くなる。
待てる。
その時間が、私にもう残っていないことを知っているから、余計に苦しかった。
「……ごめん」
また謝っていた。
どうしても、その言葉しか出てこない。
「だから、なんで謝るの」
美琴が苦笑する。
「紗季、最近それ多い」
「……そうかも」
「そうだよ」
少しだけ揺れるブランコ。
その上の美琴。
何でもない会話。
全部が、泣きそうになるくらい優しい。
私はベンチに座った。
少しだけ視線を落とす。
靴の先が、地面に作る影を見る。
「ねえ、美琴」
「ん?」
「もしさ」
そこで言葉が止まる。
その先を言ったら、もう戻れない気がした。
でも、戻る場所なんてもうない。
頭では分かっているのに、喉が詰まる。
「もし?」
急かさない声。
待ってくれる声。
その優しさが、余計に言葉を重くする。
「……もし、急にいなくなったら」
やっと、それだけ言えた。
美琴のブランコが止まる。
「は?」
当然の反応だった。
「何それ」
少し笑う。
冗談だと思って流そうとしているのが分かる。
「急に転校するとか?」
「違う」
首を振る。
「じゃあ何」
その問いに、答えられなかった。
全部を言えばいいのかもしれない。
でも、言葉にした瞬間、崩れてしまう気がした。
私の中でかろうじて保っている何かが。
「……分かんない」
結局、そんな答えしか出てこない。
美琴は少しだけ黙った。
それから、ブランコから立ち上がる。
足音が近づく。
私の前で止まる。
「紗季」
「……なに」
「今日、ずっと変」
まっすぐな声。
「怖いくらい」
胸がぎゅっと縮む。
「……ごめん」
「謝らなくていいって」
少しだけ強い口調。
でも、怒ってはいない。
ただ、本気で困っている。
本気で心配している。
それが分かるから、痛い。
「何があったのか言えないなら、それでいい」
美琴は続ける。
「でもさ」
一拍置く。
「一人で全部決めないでよ」
その言葉に、息が止まった。
一人で全部決めないで。
そう言われた瞬間、自分がもうとっくに“一人で決めるしかない場所”に立っていることを思い知らされる。
でも、それを言えない。
言えないまま、ただ頷きそうになる。
けれど、できなかった。
頷いたら、嘘になるから。
「……うん、とは言えない」
気づけば、そう言っていた。
美琴が少しだけ目を見開く。
「それ、どういう意味?」
「そのまま」
視線を上げる。
ちゃんと、美琴を見る。
逃げないで。
今だけは。
「私さ」
言葉が震える。
でも、止めない。
「たぶん……ちゃんといられなくなる」
それが、今言える限界だった。
真実じゃない。
でも、嘘でもない。
美琴はしばらく何も言わなかった。
冗談だと笑うことも。
すぐに問い詰めることも、しなかった。
「……病気とか?」
やっと出てきた言葉が、それだった。
私は首を振る。
「違う」
「じゃあ何」
「分かんない」
「分かんないって」
困ったように言いながらも、美琴は怒らない。
怒るより先に、私の顔を見ている。
嘘をついている顔かどうかを確かめるみたいに。
たぶん、美琴は分かっている。
私がふざけているわけじゃないこと。
意味の分からないことを言っている自覚が、こっちにあること。
それでも言わなきゃいけないくらい、追い詰められていること。
「……ねえ」
美琴が少しだけ声を落とす。
「私、信じていい?」
「え?」
「紗季が変なこと言ってても、ちゃんと意味があるって思っていい?」
その問いに、胸がいっぱいになる。
信じる、じゃない。
否定しない、でもない。
意味があると思っていいか、と聞く。
それが、美琴らしかった。
優しくて。
賢くて。
少し不器用で。
相手を無理に分かろうとしないくせに、ちゃんと隣に立ってくれる。
「……うん」
頷く。
声が少し掠れた。
「信じてほしい」
それは、初めて自分の口から出た本音だった。
「そっか」
美琴が、小さく言う。
その表情が少しだけ揺れる。
怖いのだと思う。
分からないことが。
でも、それでも逃げないでいる。
「じゃあ、聞かない」
「……え?」
「今は」
美琴は少しだけ笑った。
「言えないなら、無理に聞かない」
泣きそうになる。
その優しさは、ずるい。
私が一番欲しかったものを、いちばん綺麗な形でくれる。
だから、余計に手放せなくなる。
「でも」
美琴が続ける。
「一個だけ言っていい?」
「……うん」
「どっか行くなら、ちゃんと言って」
その一言で、目の奥が熱くなる。
「黙っていなくなるのだけは、やめて」
それが、どれだけ残酷な願いか。
言っている本人は知らない。
知らないまま、まっすぐに口にする。
私は、うまく息ができなかった。
返事が出ない。
出せない。
黙っていたら、美琴が少しだけ困ったように笑う。
「難しいこと言った?」
「……ううん」
やっとそれだけ返す。
難しい。
ものすごく。
でも、それを言う資格が自分にあるのかも分からない。
夕焼けが、少しずつ色を深くしていく。
空気が冷えてくる。
この時間も終わる。
今日も、終わる。
そう思った瞬間、どうしても言わなきゃいけない言葉が浮かんだ。
「……ありがとう」
気づけば、口にしていた。
美琴が、少しだけ目を丸くする。
「何に?」
「分かんない」
少しだけ笑う。
たぶん、もう何度も繰り返してきた答えだ。
でも、今はそれでしか言えなかった。
「でも」
一拍。
「いてくれて、よかった」
それだけは、はっきり言えた。
美琴が、黙る。
風が吹く。
髪が揺れる。
遠くで犬の鳴き声がした。
全部が静かだった。
「……そっか」
しばらくして、美琴が言う。
それ以上、何も言わない。
ただ、少しだけ困ったように、でも優しく笑った。
その笑顔を見た瞬間、私はこの子に全部渡してしまった気がした。
言葉にできる分だけの、本音を。
抱えきれない分だけの、感情を。
それで十分だった。
もうそれ以上、何かを望んではいけない気がした。
「帰ろっか」
美琴が言う。
「……うん」
立ち上がる。
並んで歩く。
帰り道は、ほとんど会話がなかった。
でも、沈黙は嫌じゃなかった。
むしろ心地よかった。
言わないままでも、何かだけは伝わっている気がしたから。
駅前の分かれ道で、美琴が立ち止まる。
「また明日」
いつもの言葉。
その何でもなさが、ひどく痛い。
「……うん」
頷く。
“また明日”が、私にはほとんど残されていないことを知っている。
でも。
それでも、この瞬間だけはそう答えたかった。
美琴が手を振る。
私も振り返す。
少しずつ、その姿が遠ざかる。
見えなくなるまで、目を逸らせなかった。
角を曲がって、完全に見えなくなったあと。
ようやく、息を吐く。
胸の奥に残ったのは、静かな痛みだった。
でも。
後悔は、なかった。
ちゃんと、言えたから。
言えなかったことの方が、ずっと多い。
それでも。
私が持っている言葉で、渡せるものは渡した。
だから、たぶんこれでいい。
そう思ったとき。
「終わる準備、できた?」
すぐ後ろから、声。
振り返る。
あの子が立っていた。
夕方の影の中に、溶けるみたいに。
「……何」
聞き返す。
声は、もう震えていなかった。
「明日で終わるから」
淡々とした口調。
感情のない、事実だけを告げる声。
「知ってる」
自分でも驚くくらい、静かに答えていた。
あの子が少しだけ目を細める。
「そっか」
それだけ言って、消える。
最初から、いなかったみたいに。
街灯が灯る。
空はもう、夕焼けじゃなかった。
夜に変わり始めている。
私は一人で歩き出す。
足音が少しだけ遅れて聞こえる。
でも、気にしなかった。
明日が来る。
もう、それを止める気はなかった。
*
家に戻ったとき、夜はすでに深くなっていた。
玄関の灯りが、やけに白く感じる。
靴を脱ぐ。
床に触れたはずの足の感触が、ほんの一瞬だけ遅れて伝わってきた。
それでも、立ち止まらなかった。
もう、いちいち確かめる必要はない。
分かっているから。
階段を上がる。
一段ずつ、静かに。
足音が少し遅れて響く。
それを聞きながら、自分の存在がこの場所に追いついていないような感覚を、ぼんやりと受け入れていた。
部屋に入る。
ドアを閉める。
音が、少しだけ遠い。
鍵はかけない。
誰も来ないことを、どこかで知っているから。
ベッドに腰を下ろす。
スプリングが沈む。
その感触が、指先に届くまでにわずかな間がある。
それも、もう気にしない。
窓の外を見る。
街灯の光が、滲んでいる。
夜は静かで、どこか現実から切り離されているみたいだった。
スマートフォンを手に取る。
画面をつける。
何もすることはないのに、ただ指が動く。
メッセージの一覧。
美琴の名前。
最後のやり取りは、昨日。
短い言葉が並んでいる。
それだけなのに、やけに遠い。
開く。
既読がついている。
当然のことなのに、少しだけ安心する。
何か送ろうとして、指が止まる。
何を書けばいいのか分からない。
何を書いても足りない気がする。
何も書かない方が、まだいい気もする。
画面を閉じる。
静かになる。
部屋の中には、自分の呼吸の音だけが残る。
「……あと、一日」
声に出す。
小さい。
でも、はっきり聞こえた。
明日で終わる。
それはもう、疑いようがない。
怖くないわけじゃない。
でも、もう逃げたいとも思わなかった。
逃げても意味がないことを知っているから。
それよりも、今日のことが何度も浮かぶ。
公園。
夕焼け。
ブランコの軋む音。
美琴の声。
「信じていい?」と聞かれたときの顔。
「一人で決めないで」と言われたときの、少しだけ強い声。
そして。
「黙っていなくなるのだけはやめて」
その言葉だけが、何度も繰り返される。
喉の奥が、少しだけ熱くなる。
「……ごめん」
また、同じ言葉が出た。
何に対してなのか、もう分からない。
でも、謝らないといけない気がした。
守れない約束に。
言えなかった言葉に。
これから終わることに。
全部に対して。
ベッドに横になる。
天井を見る。
白い。
同じはずなのに、少しだけ薄い。
まばたきをする。
戻る。
でも、確かにさっきは違っていた。
世界が。
自分が。
どちらも、少しずつずれている。
「……どうするんだろ」
呟く。
答えは、もう分かっている。
でも、それを口にしたくなかった。
言葉にした瞬間、決まってしまうから。
選ばないままでいたかった。
最後まで。
静けさの中で、時間だけが進む。
カチ、カチ、と。
秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
一秒。
また一秒。
確実に減っていく。
そのとき。
「まだ迷ってるんだ」
声がした。
すぐ横。
驚かない。
もう、驚くことに意味がない。
ゆっくりと顔を向ける。
ベッドの脇に、あの子が立っていた。
影の中に溶けるみたいに、静かに。
「……何」
声は、落ち着いていた。
「もう分かってるでしょ」
淡々とした口調。
責めるでもなく、ただ事実をなぞるみたいに。
「……分かってる」
否定しない。
できない。
あの契約。
あの条件。
あの一文。
何度も繰り返した。
逃げても、消えなかった。
「じゃあ、どうするの?」
問いかけ。
逃げ場はない。
私は、しばらく何も言わなかった。
答えはある。
でも、それを口にする勇気がない。
どちらを選んでも、終わる。
それが分かっているから。
「選ばないままでも、終わるよ」
静かな声。
図星だった。
「時間だから」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
重くもなく、軽くもなく。
ただ、確かに。
「……知ってる」
小さく返す。
あの子は、少しだけ目を細めた。
「じゃあいい」
それだけ言う。
何も押しつけない。
ただ、そこにある事実だけを残す。
「……もうすぐだよ」
続ける。
「準備しときな」
その言葉だけを置いて、あの子は消えた。
最初からいなかったみたいに。
部屋に静けさが戻る。
時計の音だけが、続いている。
私は、目を閉じた。
今日の景色が浮かぶ。
夕焼け。
公園。
美琴。
笑顔。
声。
全部。
ちゃんと、残っている。
まだ、消えていない。
それだけで、少しだけ安心する。
同時に、その“まだ”がどれだけ短いかも分かっている。
だから。
ゆっくりと息を吐く。
「……ちゃんと」
小さく呟く。
何を、とは言わない。
でも。
もう逃げない。
それだけは決めた。
窓の外を見る。
夜は深い。
光は少ない。
でも、確かにそこにある。
明日が来る。
止められない。
でも、目を逸らさない。
それだけでいい。
私は、もう一度だけ目を閉じた。
そのまま、何も考えずにいる。
眠りに落ちるのか。
落ちないのか。
分からないまま。
ただ、時間だけが静かに過ぎていった。
――八日目が、来る。




