第二章 逃避
朝は、何事もなかったみたいに始まった。
目が覚めて、天井を見る。
カーテンの隙間から差し込む光。
昨日と同じはずの景色。
なのに、ほんの少しだけ違う気がする。
胸の奥に、重たいものが残っていた。
理由は、分かっている。
分かっているのに。
考えないようにしていた。
「……夢、じゃないよね」
呟く。
返事はない。
当たり前だ。
部屋には、自分しかいない。
でも、聞かずにはいられなかった。
あれが夢だったら、どれだけ楽か。
契約書も。
あの子も。
八日という数字も。
全部、夢だったら。
そう思うだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
でも。
思い出す。
机の中の紙の感触。
あの文字。
あの内容。
忘れられるわけがない。
身体を起こす。
昨日と同じ動作。
同じはずなのに、少しだけぎこちない。
制服に着替える。
鏡を見る。
そこに映っているのは、いつもの自分だ。
顔色が少し悪いくらいで、特に変わったところはない。
「……普通」
そう呟く。
普通だ。
何も変わっていない。
それが、逆に怖かった。
*
学校に向かう道も、昨日と同じだった。
見慣れた景色。
見慣れた人たち。
何も変わっていない。
変わっていないはずなのに、世界がどこか遠い。
音が少し遅れて聞こえる。
人の動きが、ほんのわずかにずれて見える。
気のせいだと言い聞かせる。
そうしないと、歩けなくなる。
学校が見える。
少しだけ、安心する。
ここには、美琴がいる。
それだけでいい。
それだけで、全部が保たれている気がした。
*
教室に入る。
ざわめき。
笑い声。
昨日と同じ。
いや、昨日よりも少しだけ遠い。
「おはよ、紗季」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がほどけた。
「……美琴」
窓際の席。
いつもの場所。
いつもの笑顔。
それを見た瞬間、はっきりと分かった。
私は、この時間を選んだんだ。
全部分かっていて。
全部見ないことにして。
それでも、ここに来た。
「なんか元気ない?」
美琴が、少し心配そうに覗き込む。
「寝不足なだけ」
軽く笑ってごまかす。
嘘じゃない。
ほとんど眠れていなかった。
目を閉じるたびに、契約書の文字が浮かんできた。
八日。
その数字だけが、何度も繰り返される。
「ちゃんと寝なよ」
「うん」
頷く。
そのやり取りが、やけに愛おしかった。
普通の会話。
何でもない一言。
それが今は、ひどく大事に思える。
「今日さ、放課後空いてる?」
美琴が言う。
「なんで?」
「ちょっと寄り道しよ」
軽い口調。
いつものノリ。
でも、その一言に、少しだけ心が揺れた。
寄り道。
いつもなら、普通に頷く。
でも今日は違う。
頭の中で、別の言葉が浮かぶ。
八日。
時間。
終わる。
全部が、勝手に繋がっていく。
だから。
余計に。
「……いいよ」
そう答えていた。
迷いはなかった。
いや、迷っている暇がなかった。
今は。
今だけは。
普通でいたかった。
*
授業は、ほとんど頭に入らなかった。
先生の声が遠い。
黒板の文字が少しぼやける。
ノートを取る手だけが、機械みたいに動いている。
隣では、美琴が普通に授業を受けていた。
ペンを走らせて。
時々、眠そうにしながら。
その姿が、やけに現実感を持っていた。
私は何度もそちらを見る。
ちゃんといる。
消えていない。
それを確認するみたいに。
「紗季、ここ違う」
小さな声で、美琴が指摘してくる。
「あ……ほんとだ」
ノートを見る。
確かに間違っている。
気づかなかった。
「大丈夫?」
「うん」
また、同じやり取り。
その繰り返しが、少しずつ安心をくれる。
でも。
同時に、怖くもあった。
これが、あと何回続くのか。
考えないようにする。
考えたら、終わる。
*
放課後。
約束通り、美琴と一緒に学校を出る。
「どこ行くの?」
「秘密」
楽しそうに笑う。
その表情を見ているだけで、少しだけ救われる。
駅とは反対方向に歩く。
普段あまり通らない道。
少しだけ新鮮だった。
「ここ、知ってる?」
美琴が指さす。
小さなカフェ。
外観は古いのに、どこか落ち着いた雰囲気がある。
「入ったことない」
「でしょ。前から気になってたんだよね」
そう言って、扉を開ける。
中に入る。
コーヒーの香りが広がる。
温かい空気。
外とは違う、ゆっくりした時間。
「いい感じじゃない?」
「うん」
本当にそう思った。
ここだけ、少しだけ現実から切り離されているみたいだった。
席に座る。
注文をする。
何気ないやり取り。
それだけで、少しずつ呼吸が整っていく。
「なんかさ」
美琴が、ぽつりと言う。
「今日の紗季、変」
「……そう?」
「うん。なんか、ずっと遠く見てる感じ」
どきりとする。
気づかれている。
でも。
「気のせい」
そう言って笑う。
笑えているかどうかは分からない。
「そっか」
それ以上、追及はされなかった。
優しい。
優しすぎる。
その優しさが、今は少しだけ痛い。
運ばれてきた飲み物に手を伸ばす。
カップが、少し温かい。
その感触が、やけにはっきりしていた。
「……ねえ」
ふと、口が動いた。
「もしさ」
言いかけて、止まる。
何を言おうとしたのか、自分でも分かっている。
でも、それを言葉にしたら終わる気がした。
「なに?」
「なんでもない」
また、逃げる。
考えない。
見ない。
なかったことにする。
それでも、目の前にいる美琴が少しだけぼやけた気がした。
瞬きをする。
戻る。
ちゃんと、そこにいる。
大丈夫。
まだ、大丈夫。
そう思い込む。
それしか、できなかった。
カフェを出たとき、外はもう夕方に近づいていた。
空が少しだけ橙色に染まっている。
「思ったより長居しちゃったね」
美琴が、軽く伸びをする。
「うん」
短く答える。
それだけなのに、なぜか胸の奥が温かくなった。
さっきまでの時間が、ちゃんと“現実”として残っている。
会話も、笑ったことも、全部。
「楽しかった?」
ふいに聞かれる。
足が止まる。
振り返る。
美琴は、少しだけ真剣な顔をしていた。
いつもの軽い感じじゃない。
答えを待っている顔。
だから。
「……うん」
少しだけ間を置いて、答える。
「楽しかった」
それは、嘘じゃなかった。
本当だった。
だからこそ、少しだけ怖かった。
「よかった」
美琴が笑う。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
どうして、こんなにも大事なんだろう。
当たり前だったはずなのに。
今は、少しでも失うことが怖い。
「また行こうよ」
美琴が言う。
「……うん」
頷く。
その約束が、やけに遠く感じられた。
また。
その言葉の先に、ちゃんと未来があるのか分からない。
でも、否定したくなかった。
否定した瞬間、全部が終わる気がした。
帰り道。
並んで歩く。
会話は、途切れがちだった。
気まずいわけじゃない。
ただ、言葉が少しだけ重くなっている。
「紗季」
「ん?」
「なんかあったら、ちゃんと言いなよ」
不意に言われる。
足が止まりそうになる。
「別に、何もないよ」
すぐに答える。
それしか言えなかった。
「そっか」
それ以上は、何も言わなかった。
その優しさが、やっぱり痛い。
隣を歩く距離が、ほんの少しだけ遠く感じた。
でも。
離れたくなかった。
その距離を、無意識に詰める。
美琴は気づかない。
気づかないまま、普通に歩いている。
その“普通”が、どうしようもなく愛おしかった。
*
夜。
ベッドに横になる。
目を閉じる。
眠れない。
昼間のことが、何度も繰り返される。
カフェの中。
笑った顔。
「また行こうよ」という言葉。
その全部が、やけにはっきりしている。
それと同時に。
別のものが、頭の奥で繰り返される。
八日。
契約書。
終わる。
考えないようにする。
考えたら、壊れる。
だから。
無理やり、思考を止める。
目を閉じる。
深呼吸をする。
それでも。
ひとつだけ、どうしても消えない感覚があった。
時間が、減っている。
確実に。
ゆっくりと。
逃げられない速さで。
その事実だけが、静かにそこにあった。
*
次の日。
目が覚めた瞬間、分かった。
昨日よりも、何かがずれている。
理由は分からない。
でも、はっきりと感じる。
空気が違う。
音が違う。
世界の輪郭が、少しだけ歪んでいる。
「……三日目」
無意識に呟く。
その瞬間、心臓が強く跳ねた。
数えている。
自分が。
ちゃんと。
逃げていたはずなのに。
無視していたはずなのに。
身体は、正確に理解している。
あと、五日。
考えるのをやめる。
すぐにやめる。
それ以上進めたら、本当に壊れる。
*
学校に行く。
昨日と同じ道。
同じ景色。
でも、何かが違う。
人の声が少し遠い。
歩いている感覚が少し軽い。
足元が、ほんのわずかに不安定だ。
教室に入る。
ざわめき。
いつもの光景。
その中に、自分だけが少し遅れて入っていく感覚。
「おはよ、紗季」
美琴の声。
それだけで、少しだけ現実に戻る。
「……おはよ」
席に座る。
顔を見る。
ちゃんと、そこにいる。
それを確認する。
何度も。
「またぼーっとしてる」
美琴が笑う。
「そんなことない」
即答する。
でも、その返事が少しだけ遅れた気がした。
「ほんと?」
「ほんと」
笑う。
ぎこちないかもしれない。
でも、それでもいい。
今は、それでいい。
そのとき。
後ろの席から声が聞こえた。
「ねえ、紗季」
振り返る。
クラスメイト。
名前は――
「……あれ?」
出てこない。
一瞬、思考が止まる。
「どうしたの?」
不思議そうに見ている。
「あ、いや……なんでもない」
ごまかす。
でも、内側がざわつく。
今まで普通に呼んでいた名前が、出てこなかった。
そんなこと、あるはずがない。
そのとき。
「紗季?」
美琴の声。
顔を上げる。
少しだけ心配そうな表情。
それを見た瞬間、ほっとする。
名前が出てくる。
「……美琴」
ちゃんと呼べた。
それだけで、少し安心する。
でも、同時に気づく。
おかしいのは、自分だ。
他の人の名前が出てこない。
でも、美琴だけは出てくる。
それが、逆に怖かった。
授業が始まる。
先生の声が響く。
黒板に文字が書かれる。
ノートを取る。
全部、いつも通りの流れ。
なのに、自分だけがそこに乗れていない。
音が遅れる。
視界がずれる。
手の動きが、ほんの少しだけ遅い。
周りは普通に進んでいる。
誰も気づいていない。
だから、余計に怖い。
そのとき。
ふと、名前を呼ばれた気がした。
「……紗季」
顔を上げる。
誰も見ていない。
先生も。
クラスメイトも。
美琴も。
誰も。
「……今」
小さく呟く。
聞こえた。
確かに。
でも、誰も反応していない。
もう一度。
「紗季」
今度は、はっきり聞こえた。
声のする方を見る。
教室の隅。
あの子が、立っている。
昨日と同じ場所。
昨日と同じように。
最初から、そこにいたみたいに。
目が合う。
逸らせない。
その子は、静かに口を開いた。
「ちゃんと減ってるね」
その一言で、背筋が凍った。
減ってる。
何が。
考えるまでもない。
時間。
私の時間。
八日。
それが、減っている。
現実として。
確実に。
「……やめて」
小さく呟く。
聞こえていないはずなのに。
その子は、少しだけ笑った。
そして、次の瞬間にはいなくなっていた。
教室は、何も変わらない。
授業は続いている。
誰も、何も知らない。
でも。
もう、分かってしまった。
これは、夢じゃない。
勘違いでもない。
現実だ。
静かに。
確実に。
終わりに向かっている。
私は。
逃げられない。
*
朝、目が覚めた瞬間に、分かった。
――足りない。
何かが、決定的に足りていない。
身体の中に、ぽっかり穴が空いたみたいな感覚。
呼吸はできる。
視界も正常。
身体も動く。
それなのに。
何かひとつ、重要なものが欠けている。
「……何」
声に出す。
答えはない。
当たり前だ。
でも、言葉にしないと崩れそうだった。
胸の奥が、ひどくざわついている。
落ち着かない。
理由も分からないまま、焦りだけが膨らんでいく。
ベッドから起き上がる。
立ち上がった瞬間、足元がぐらついた。
「……っ」
壁に手をつく。
体重の感覚が、うまく掴めない。
軽い。
自分の身体が、自分のものじゃないみたいに。
呼吸が浅くなる。
心臓の音が、やけに遠い。
不安だけが、強くなる。
理由が分からないのが、余計に怖かった。
「……なんで」
呟く。
そのとき。
ふと、頭に浮かんだ。
美琴。
その名前が浮かんだ瞬間、胸のざわつきがほんの少しだけ収まる。
呼吸が整う。
足元の感覚が戻ってくる。
はっきりと分かった。
原因。
足りなかったもの。
それは。
「……会わないと」
言葉が、自然に出ていた。
理由なんて考えていなかった。
ただ。
会わないといけない。
そうしないと、保てない。
自分が。
*
学校までの道を、ほとんど走るように進んだ。
信号も。
周りの人も。
ほとんど意識に入らない。
ただ、早く。
早く会わないと。
それだけが頭の中を埋めている。
教室のドアを開ける。
視線が、真っ先に窓際へ向く。
いた。
美琴がいる。
その瞬間、身体の奥にあった不安がすっと引いた。
呼吸が、ちゃんとできるようになる。
足元が安定する。
音が、はっきり聞こえる。
世界が、戻ってくる。
「……は」
思わず、息が漏れた。
安心。
それ以外の言葉が見つからない。
「おはよ、紗季」
いつも通りの声。
それだけで、全部が整う。
「……おはよ」
声が少し掠れていた。
でも、それでもいい。
ちゃんと返せた。
それだけで、十分だった。
「どうしたの? なんか急いでた?」
「いや……ちょっと」
言葉がうまく続かない。
でも、美琴は気にしなかった。
それが、ありがたかった。
席に座る。
少しだけ距離が近い。
それだけで、安心する。
離れたくない。
その感情が、はっきりと形を持つ。
授業が始まる。
昨日までとは違った。
ちゃんと聞こえる。
ちゃんと理解できる。
ノートも、普通に取れる。
全部が、正常だった。
ただ一つだけ。
美琴が視界から外れると、不安になる。
ほんの一瞬でも見えなくなると、胸の奥がざわつく。
だから、何度も確認する。
横を見る。
いる。
それだけで、落ち着く。
異常だと分かっている。
でも、止められない。
*
昼休み。
「ねえ、紗季」
美琴が声をかけてくる。
「ん?」
「今日さ、どっか行く?」
軽い口調。
でも、その一言で胸の奥が強く反応した。
「……行く」
即答だった。
考えるより先に、口が動いていた。
「即答じゃん」
美琴が笑う。
「別にいいけどさ」
「……うん」
自分でも分かっている。
おかしい。
でも、どうでもよかった。
放課後。
また、二人で歩く。
昨日と同じような時間。
同じ距離。
同じ空気。
それなのに、今日は少し違う。
近い。
物理的じゃなくて。
もっと内側の距離が。
離れたくない。
そう思う気持ちが、強すぎる。
「紗季、今日やけに静かじゃない?」
「そう?」
「うん。なんか考え事してる感じ」
図星だった。
でも。
「してないよ」
嘘をつく。
考えているのは、ひとつだけ。
どうやったら、この時間を続けられるか。
それだけ。
カフェに入る。
昨日と同じ席。
同じメニュー。
同じ会話。
繰り返し。
なのに、それが心地いい。
むしろ、安心する。
変わらないことが、救いだった。
「ねえ」
美琴が言う。
「ん?」
「ほんとに大丈夫?」
少しだけ、真剣な顔。
視線が、まっすぐこっちを見ている。
逃げられない。
「……大丈夫」
答える。
嘘だ。
でも、これ以上は言えない。
「そっか」
それ以上、聞かれなかった。
優しい。
その優しさが、怖い。
もし、全部話したら。
この関係はどうなるんだろう。
考えるのをやめる。
ただ。
この時間が続けばいい。
それだけでいい。
それ以上はいらない。
*
夜。
ベッドの上。
目を閉じる。
すぐに分かる。
今日も、減った。
時間が。
四日目。
残り、四日。
ちょうど半分だ。
「……半分」
呟く。
その言葉が、やけに重い。
半分終わった。
半分しかない。
どちらとも取れる。
でも。
今の自分にとっては、後者だった。
あと四日。
それしかない。
美琴といられる時間が。
考えた瞬間、胸の奥が強く締めつけられる。
苦しい。
息が浅くなる。
でも。
その中で。
ひとつの考えが、浮かぶ。
もし。
もし、このまま。
ずっと一緒にいられるなら。
それでいいんじゃないか。
その考えは、静かに、でも確実に、自分の中に根を張り始めていた。
*
五日目。
朝。
目が覚めた瞬間、違和感はもう誤魔化せなかった。
世界が、薄い。
音が遠い。
身体の感覚が曖昧だ。
鏡を見る。
自分の姿が、ほんの少しだけぼやけている。
ピントが合っていないみたいに。
「……は?」
思わず声が出る。
目を擦る。
もう一度見る。
戻っている。
でも、確かにさっきはずれていた。
誤魔化せない。
これは、進んでいる。
確実に。
終わりに向かって。
足元が、少し軽い。
歩くたびに、現実感が薄れていく。
怖い。
でも、同時に分かっている。
原因。
時間。
残り。
全部、繋がっている。
「……まだ」
呟く。
まだ、間に合う。
何にかは分からない。
でも、まだ。
そう思わないと、立っていられなかった。
学校へ向かう道は、昨日までと同じはずだった。
なのに、歩いている感覚がひどく曖昧だった。
足は前に出ている。
景色も進んでいる。
それなのに、自分だけが地面にきちんと触れていないみたいで、何度も足元を見たくなる。
信号待ちで立ち止まる。
隣に立った会社員の鞄が、腕に触れそうな距離を通った。
思わず身構える。
でも、何も起きない。
ぶつからない。
いや、ぶつかっているのかもしれない。
ただ、それを感じ取れないだけで。
そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……やだな」
小さく呟く。
言葉にしたところで、何も変わらない。
それでも、声に出さないと自分が薄くなっていく気がした。
*
教室に入る。
ざわめきがある。
でも、昨日より遠い。
水の中から聞いているみたいだった。
視線が、まっすぐ窓際へ向く。
美琴がいた。
その瞬間だけ、胸の苦しさが少し和らぐ。
「おはよ、紗季」
いつも通りの声。
「……おはよ」
返す。
ちゃんと届いた。
それだけで、ほっとする。
まだ大丈夫。
まだ、美琴には届く。
それだけが、今の私を支えていた。
席に座る。
斜め前の女子が、友達と話している。
「昨日さ、ほんと最悪で――」
笑い声。
普通の朝の景色。
私は、何の気なしに声をかけた。
「ねえ」
反応がない。
昨日もあった。
気のせいじゃないと、もう分かっている。
それでも、もう一度言う。
「ねえってば」
少し強めに。
それでも、その子は振り向かない。
隣の友達と笑い続ける。
私の声が存在しないみたいに。
胸の奥が、すっと冷えた。
私は机の上の消しゴムを掴んで、わざと落とした。
ころん、と音を立てて転がる。
でも、誰も見ない。
誰も反応しない。
教室の中で、その音だけが私にだけ聞こえていた。
「……っ」
息が詰まる。
何か言おうとしても、喉がうまく動かない。
「紗季?」
美琴の声がして、私ははっと顔を上げる。
「どうしたの?」
「……今、落とした」
自分でも情けないくらい、弱い声だった。
「え?」
美琴が足元を見る。
消しゴムは、ちゃんとそこに落ちている。
「それ、いつ落ちたの?」
本気で不思議そうな顔だった。
今の今まで、気づいていなかったみたいに。
その事実が、余計に怖い。
「……さっき」
「そっか」
美琴はしゃがんで、それを拾おうとする。
私は、反射的にその手を掴もうとした。
理由は分からない。
ただ、触れれば確かめられる気がした。
「美琴――」
伸ばした手が、すり抜けた。
確かにそこにあるはずの制服の袖も。
腕の温度も。
何ひとつ指先に残らない。
「……え」
息が止まる。
美琴は何も気づいていない。
普通に消しゴムを拾って、私の机に置く。
「はい」
笑う。
その笑顔が、痛かった。
今、私は確かに触れようとした。
届く距離だった。
なのに、触れられなかった。
それはもう、気のせいじゃない。
「紗季?」
美琴が、少しだけ不安そうに呼ぶ。
その声が、胸の奥のひび割れに落ちていく。
「……なんで」
小さく呟く。
呼ばれない名前。
届かない声。
気づかれない音。
触れられない存在。
全部が、繋がってしまう。
分かりたくなかったことが、形になっていく。
*
授業中、何も頭に入らなかった。
黒板の文字は読める。
先生の声も聞こえる。
でも、意味が自分の中に入ってこない。
ノートに書かれた文字も、借り物みたいに見える。
窓の外の雲だけが、やけにゆっくり流れていた。
八日。
その数字が、頭の奥で何度も反芻される。
もう、五日目。
半分以上が終わっている。
その事実が、遅れて胸に落ちてくる。
怖い。
今さらになって、ちゃんと怖かった。
消えることが。
美琴に触れられないことが。
いや。
もう、触れられないことが。
*
昼休み。
私は、美琴のそばから離れなかった。
離れたら、そのまま本当に見えなくなってしまいそうで怖かった。
「紗季、今日ほんと変だって」
美琴が苦笑する。
「……うん」
「うん、じゃないでしょ」
そう言いながらも、その声は強くない。
心配と困惑が半分ずつ混ざっている。
「なんかあった?」
また、その問い。
私は少しだけ黙った。
言えない。
でも、何もないとも言えない。
「……あった」
やっと、それだけ言う。
美琴が少し目を見開く。
「え?」
「でも……言えない」
喉がつまって、それ以上は出てこない。
美琴は少し黙った。
それから、静かに言った。
「そっか」
それだけだった。
責めない。
無理に聞き出さない。
でも、“何かある”ことだけはちゃんと受け止める。
その優しさに、余計に泣きたくなる。
「紗季」
「……なに」
「一人で抱え込まないでよ」
その一言が、胸に深く刺さった。
一人じゃない。
そう言ってくれているのに。
私はもう、その手を取れない。
それがどうしようもなく苦しかった。
*
放課後。
教室には夕方の光が差し込んでいた。
長く伸びる机の影。
オレンジ色に染まる窓際。
いつもなら少しだけ綺麗だと思える時間だった。
でも今は、全部が終わりに向かう光に見えた。
「紗季」
美琴が、机の横から私を覗き込む。
「今日、一緒に帰る?」
その言葉に、すぐ答えられなかった。
帰る。
その意味が、昨日までとは違う。
今日が終わったら、明日が来る。
明日が来たら、もっと壊れる。
それなのに私は、まだ美琴の隣にいたいと思ってしまう。
「……帰る」
やっと答える。
「一緒に」
美琴は少しだけ驚いた顔をしてから、ふっと笑った。
「うん」
その一音が、泣きたくなるくらい優しかった。
*
帰り道。
私はずっと、美琴の半歩後ろを歩いていた。
隣じゃない。
少しだけ後ろ。
もしまた触れようとして、すり抜けたら。
その瞬間を、美琴に見られるのが怖かった。
「紗季」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
美琴が立ち止まっていた。
「さっきから、なんか変」
真っ直ぐな声だった。
もう、誤魔化せないくらい見ている声。
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「分かんない」
本当に、分からなかった。
怖くて、苦しくて、でも離れたくなくて。
何をどう言えばいいのか、分からない。
そのとき。
「やっと、ここまで来たね」
すぐ後ろから、声。
振り返る。
あの子が、立っていた。
夕方の光の中で、影だけが濃く見える。
「……何が」
問いかける声は、自分でも驚くほど弱かった。
「崩れるところ」
あまりにもあっさりと、そう言う。
「順調だよ」
ぞくり、と背筋が冷える。
「ねえ」
一歩、近づく。
「まだ、分からない?」
その目が、まっすぐこちらを見る。
逃がさない、と言うみたいに。
「君はもう――」
「やめて!!」
思わず叫んでいた。
美琴がびくっと肩を揺らす。
私は荒い息のまま、目の前の少女を睨んだ。
それ以上、聞きたくなかった。
分かってしまうから。
全部。
壊れてしまうから。
でも、あの子は表情を変えない。
「……遅いよ」
ただ、それだけを静かに言った。
その言葉の方が、叫び声よりずっと残酷だった。
息が荒い。
視界が揺れる。
「紗季、落ち着いて」
美琴の声がして、私はその声に縋るみたいに顔を上げた。
そこに、美琴がいる。
ちゃんといる。
なのに、その存在が少しだけ遠い。
昨日よりも。
一昨日よりも。
確実に。
「……やだ」
小さく呟く。
「やだ……」
それしか言えなかった。
怖い。
消えたくない。
でも、それ以上に。
この子と離れたくない。
その願いだけが、子どもみたいに剥き出しのまま胸の中に残っていた。
そして私は、その願いが叶わないことを、もうどこかで知っていた。
*
六日目の朝は、驚くほど静かだった。
昨日みたいな恐怖が、少し引いている。
なくなったわけじゃない。
ただ、表面が静まっているだけだ。
台風が過ぎたあとの海みたいに。
穏やかに見えるのに、底の方ではまだ何かがうねっている。
目を開ける。
天井が見える。
白い。
いつも通りの天井。
でも、その“いつも通り”が、もう手の届かないところにある気がした。
「……六日目」
口に出す。
もう、数えられる。
認めたくないのに。
認めるしかないところまで来てしまったから。
身体を起こす。
重さがない。
昨日より、さらに軽い。
足を床につける。
やっぱり感触が薄い。
冷たさも、硬さも、ちゃんとあるはずなのに遠い。
全部が、一枚向こう側にある。
鏡を見る。
映っている。
ちゃんと、映っている。
でも。
どこか、輪郭が薄い。
人の姿を模した何かを見ているみたいに、少しだけ現実感がない。
「……私」
その言葉が、妙に空っぽに響いた。
ここにいる。
そう思う。
でも、本当にそうなんだろうか。
その問いが、昨日よりはっきりした形で胸に落ちる。
*
学校へ向かう。
人がいる。
声がする。
笑っている。
でも、それは全部背景だった。
自分とは関係のない、遠くの景色。
ぶつからない。
呼ばれない。
振り向かれない。
もう、驚かなかった。
そういうものなんだ、と身体が覚え始めている。
それが、一番怖かった。
教室に入る。
誰も私を見ない。
でも。
「おはよ、紗季」
その声だけが、世界と繋がっていた。
美琴がいる。
窓際の席。
いつもの場所。
「……おはよ」
返す。
少しだけ遅れて届いた気がした。
それでも、美琴はちゃんとこっちを見た。
まだ、届く。
まだ、見える。
そのことに安堵する。
同時に、その“まだ”がどれくらい残っているのかを考えてしまう。
席に座る。
もう、誰にも気づかれない。
それが当たり前になりつつある。
怖い。
でも。
昨日みたいに暴れたくはならなかった。
代わりに、考えてしまう。
私は、何なんだろう。
人間。
そう思っていた。
昨日までは。
でも。
今の私は、本当にそうなんだろうか。
誰にも見えない。
触れられない。
存在していないみたいに扱われる。
それでも。
私は、ここにいる。
その感覚だけは、確かだった。
だから余計に、分からない。
「やっと考えてるんだ」
声。
すぐ横。
振り向く。
あの子が立っていた。
教室の中なのに、誰も気づいていない。
「……何を」
「自分のこと」
即答だった。
逃げ場のない言葉。
「君、どう思う?」
問いかける。
でも、それは質問じゃない。
確認だ。
「……分かんない」
正直に答える。
本当に分からない。
分かりたくない、も含めて。
「そっか」
あの子は、それ以上は何も言わなかった。
ただ。
「でも、もう時間ないよ」
その一言だけ残して、静かに消えた。
最初からいなかったみたいに。
*
放課後。
美琴と並んで歩く。
少しだけ距離を詰める。
でも。
触れない。
分かっているから。
触れようとしない。
それでも、近くにいるだけで少しだけ安心する。
「紗季」
名前を呼ばれる。
「最近さ」
少しだけ、言いにくそうな声。
「なんか、変」
昨日と同じ言葉。
でも、意味が違う。
もっと深い。
「……うん」
否定しなかった。
もう、無理だった。
「でも、大丈夫だから」
そう言う。
自分でも、何が大丈夫なのか分からないまま。
美琴が、少しだけ困った顔をする。
その顔を見て、思う。
ああ。
この子は、ちゃんと生きている。
ちゃんと、ここにいる。
私とは違う。
その事実が、やっと形を持った。
「……そっか」
美琴は、それ以上聞かなかった。
優しいから。
でも、その優しさが少しだけ遠く感じた。
*
帰り道。
夕焼け。
空が、ゆっくり色を変えていく。
その変化を、ただ見ていた。
ふと思う。
もし、このまま。
完全に消えたら。
私は、どうなるんだろう。
何も残らないのか。
それとも。
どこかへ行くのか。
分からない。
でも。
ひとつだけ、分かることがあった。
このままじゃ、終わる。
それだけは、確実だった。
隣を見る。
美琴がいる。
少しだけ、遠い。
でも。
まだ、見える。
まだ、ここにいる。
――あと、二日。
その数字が、静かに胸に落ちる。
怖くないわけじゃない。
でも。
もう、逃げるだけじゃいられなかった。
考えないといけない。
ちゃんと。
終わる前に。




