表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第一章 親友

 朝の光が、やけに眩しかった。


 カーテンの隙間から差し込むそれが、いつもより強く感じられて、思わず目を細める。まぶたの裏に白い残像が残った。


 しばらく、天井を見つめたまま動けなかった。


 何かを思い出しかけている。


 そんな感覚があった。


 でも、その“何か”が分からない。


 掴めそうで掴めないまま、するりと指の間から抜けていく。


「……なんだっけ」


 呟いてみる。


 答えは返ってこない。


 夢を見ていた気がする。


 それも、あまりいい夢じゃなかった。


 胸の奥に、うっすらとした重さが残っている。


 痛いわけじゃない。


 苦しいわけでもない。


 ただ、少しだけ息が詰まるような、そんな違和感。


「……変なの」


 体を起こす。


 シーツの上に手をついたとき、ほんの一瞬だけ、感触が遅れて伝わってきた気がした。


 気のせいだと思うことにする。


 寝起きだから、ぼんやりしているだけだ。


 そういうことにしておいた方が、楽だった。


 時計を見る。


 七時二十分。


 いつも通りの時間。


 遅刻するほどじゃない。


 でも、ゆっくりしている余裕もない。


 ベッドから降りる。


 床に足をついたとき、冷たさを感じるまでにほんのわずかな間があった。


 やっぱり変だ、と思う。


 けれど、立ち止まるほどじゃない。


 そのまま歩き出す。


 制服に着替える。


 スカートの裾を整えて、リボンを結ぶ。


 何度も繰り返してきた動作。


 身体が覚えているはずの手順。


 なのに、どこかぎこちない。


 鏡の前に立つ。


 そこに映っているのは、いつもの自分のはずだった。


 寝ぐせの残った髪。


 少し眠そうな目。


 見慣れた顔。


 それなのに。


 一瞬だけ、“誰か別の人”を見ているような感覚がした。


 まばたきをする。


 次の瞬間には、いつもの自分に戻っていた。


「……寝ぼけてるだけ」


 そう言い聞かせる。


 階段を降りる。


 足音が、わずかに遅れて聞こえた。


 踏みしめた感触と音のタイミングが、微妙にずれている。


 立ち止まる。


 もう一度、足を踏み出す。


 今度は普通だった。


 気のせい。


 そう思うことにした。


 それ以上考えるのが、少し怖かった。


 朝食は、ほとんど味がしなかった。


 トーストをかじる。


 口の中で咀嚼する。


 飲み込む。


 それだけの行為が、妙に遠い。


 バターの風味も、パンの香ばしさも、確かにあるはずなのに、輪郭がぼやけている。


 水を飲む。


 喉を通る感覚だけが、やけにはっきりしていた。


 玄関で靴を履く。


 紐を結びながら、ふと手を止めた。


「……何か、忘れてる?」


 そんな気がした。


 大事なこと。


 忘れちゃいけないこと。


 でも、それが何なのか分からない。


 考えようとすると、頭の奥がじわっと重くなる。


 うまく思考が続かない。


「……いいや」


 立ち上がる。


 ドアを開ける。


 外の空気は、少し湿っていた。


 昨夜の雨が残っているのか、道路が濡れている。


 水たまりに空が映っていた。


 そこに映る自分の姿が、一瞬だけ遅れて動いた気がした。


 目を凝らす。


 もう普通に動いている。


 やっぱり気のせいだった。



 学校までの道は、いつも通りだった。


 見慣れた家並み。


 見慣れた電柱。


 同じ制服を着た生徒たち。


 全部、昨日までと変わらないはずなのに。


 どこか、自分だけが少し浮いているような感覚があった。


 すれ違う人と、ぶつかりそうでぶつからない。


 肩が触れそうな距離を通っても、なぜかぴたりと避けられる。


 相手が避けているのか、自分がずれているのか分からない。


 駅前の信号で立ち止まる。


 赤信号。


 車が流れていく。


 水しぶきが跳ねる。


 その音が、ほんの少しだけ遠くに聞こえた。


 信号が青に変わる。


 人の流れに合わせて歩き出す。


 その中に、自分もいるはずなのに。


 うまく混ざれていない気がした。


 学校が見えてくる。


 少しだけ、ほっとする。


 ここは変わらない場所だ。


 教室に入れば、きっといつも通りに戻る。


 そう思えた。



 教室のドアを開ける。


 ざわめきが、一気に流れ込んできた。


 笑い声。


 机の音。


 話し声。


 全部が混ざり合って、朝の空気を作っている。


 いつも通りの景色。


 そのはずなのに。


 ほんの一瞬だけ、立ち止まってしまった。


 理由は分からない。


 ただ、どこか“違う”気がした。


「おはよ、紗季」


 声がした。


 その瞬間。


 胸の奥が、強く引き寄せられる。


 反射的に顔を上げる。


「……美琴」


 窓際の席。


 そこに、橘美琴がいた。


 黒髪が、朝の光を受けて柔らかく揺れている。


 少しだけ首を傾げる仕草。


 見慣れた笑顔。


 当たり前の光景。


 なのに。


 一瞬だけ、言葉が出なかった。


 息が詰まる。


 胸が苦しい。


 まるで。


 もう二度と会えないと思っていた人に、やっと会えたみたいに。


 そんな感覚が、胸の奥を掠めた。


 すぐに消える。


「なに? ぼーっとして」


 美琴が笑う。


 その声を聞いた瞬間。


 ようやく、息ができた気がした。


「……いや、なんでもない」


 慌てて首を振る。


 変なのは私の方だ。


 美琴がここにいるのは当たり前なのに。


「ほんと?」


「ほんとほんと」


 軽く笑ってごまかす。


 席に座る。


 鞄を置く。


 美琴が、椅子をこちらに寄せてくる。


「昨日の続きなんだけどさ――」


 自然に会話が始まる。


 その流れに乗る。


 言葉が出る。


 普通に話せる。


 それなのに。


 どこか一歩だけ、自分が遅れている感覚があった。


 会話に、ほんのわずかなズレがある。


「でさ、そのとき――」


 美琴が話している。


 私は頷く。


 相槌を打つ。


 ちゃんと聞いているはずなのに。


 内容が、少しだけ遅れて頭に入ってくる。


「紗季?」


「え?」


「聞いてる?」


「あ、うん。聞いてる」


 慌てて答える。


 少しだけ、間があった気がする。


 でも、美琴はそれ以上気にしなかった。


 そのとき。


 ふと、周りの声が耳に入る。


「昨日さ――」


「それでさ――」


 クラスメイトたちの会話。


 普通の、いつものやり取り。


 その中に、ほんの少しだけ違和感が混ざる。


 誰かの笑い声が、一瞬だけ途切れた気がした。


 すぐに戻る。


 でも、その“途切れ”が妙に引っかかった。


「ねえ――」


 何か言おうとして、口を開く。


 声が、少しだけ遅れて出た気がした。


「……あれ?」


 小さく呟く。


「どうしたの?」


 美琴がこちらを見る。


「いや……なんでもない」


 笑ってごまかす。


 気のせい。


 きっとそうだ。


 そう思わないと、落ち着かなかった。


 そのとき。


 不意に、視線を感じた。


 教室の隅。


 見慣れない女子が、一人でこちらを見ている。


 同じ制服。


 同じ教室。


 なのに。


 どうしてか、記憶に引っかからない顔。


 目が合う。


 逸らさない。


 ただ、じっと見てくる。


「……誰だっけ」


 小さく呟く。


 その瞬間。


 その子が、口を開いた。


「呼ばれてるよ」


その一言が、やけにはっきりと耳に残った。


「……え?」


 思わず聞き返す。


 教室の隅に立っていた、あの見慣れない女子。

 誰かに向けて言ったようには見えなかった。

 視線は、まっすぐ私に向いている。


「誰に?」


 その子は、少しだけ首を傾げた。

 考えるみたいに、ほんの一瞬だけ間を置いてから、


「さあ」


 あっさりと、そう答えた。


「……は?」


 意味が分からない。

 呼ばれてるって言ったのに、誰にかは分からない?


 変な子だ、と思う。

 関わらない方がいいタイプ。

 そう判断してもおかしくないはずなのに。


 視線が離せなかった。


 胸の奥が、ざわつく。

 さっきから続いている違和感が、その一言で輪郭を持った気がした。


「紗季?」


 美琴の声がする。

 現実に引き戻される。


「……ちょっと、行ってくる」


 気づけば、そう言っていた。


「え? どこに?」


「すぐ戻るから」


 それだけ言って、立ち上がる。

 椅子が小さく音を立てる。


 視線を教室の隅に戻す。


 その子は、もういなかった。


「……は?」


 思わず声が漏れる。


 見間違い?

 そんなはずはない。

 さっきまで、確かにそこにいた。


 視線を巡らせる。


 いた。


 教室の出口のところに、同じ子が立っている。


 最初からそこにいたみたいに、自然に。


 そのまま、廊下へ出ていく。


 呼ばれている気がした。


 理由は分からない。

 でも、無視できなかった。


 私は、そのまま教室を出た。



 廊下は、教室よりも静かだった。


 さっきまで耳に満ちていたざわめきが、一気に遠ざかる。


 足音が、少しだけ遅れて響く。


 自分のもののはずなのに、他人のものみたいに聞こえる。


 その子は、少し先に立っていた。


 振り返るでもなく、ただそこにいる。


「……で、誰に呼ばれてるの?」


 少しだけ苛立ちを含んだ声になる。


 その子は、ゆっくりとこちらを向いた。


「どこにいると思う?」


「は?」


「呼んでる人」


「だから、それを聞いてるんだけど」


 会話が噛み合わない。


 さっきよりも、はっきりと分かる。


 この子は、“普通じゃない”。


 言葉のやり取りが成立していないのに、不思議と意味だけは伝わってくる。


 それが、気持ち悪かった。


「……どこにいるの?」


 少し強く言う。


 その子は、ほんのわずかに口元を緩めた。


「ここ」


 一瞬、意味が理解できなかった。


「……ここ?」


 思わず周りを見渡す。


 廊下には、私とその子しかいない。


「誰もいないじゃん」


「いるよ」


 即答だった。


「どこに?」


 問い返した、その瞬間。


「呼んだの、私だから」


 空気が、変わった。


 ほんのわずかに。

 けれど確実に、何かがずれた。


「……何、それ」


 冗談にしては、笑えない。


 かといって、本気とも思えない。


 ただ。


 さっきまでの“変な子”とは、明らかに違っていた。


 温度がない。

 感情の起伏が見えない。


 なのに、言葉だけがやけに正確に届く。


「ねえ」


 一歩、近づいてくる。


 距離はほとんど変わっていないはずなのに、妙に近く感じる。


「それ、読んだ?」


「……何のこと」


「手紙」


 心臓が、大きく跳ねた。


 一瞬で、身体の奥が冷える。


 まだ、誰にも見せていない。


 というより――まだ“ちゃんと見ていないはずのもの”。


「……なんで、それ」


 かろうじて絞り出した声。


 その子は、何でもないことみたいに言った。


「もう始まってるから」


「……は?」


「時間」


 淡々とした口調。


 感情が、ほとんど感じられない。


「ちゃんと、終わらせないとね」


 ぞくり、と背筋が冷える。


「……何を?」


 聞いた瞬間。


 その子は、少しだけ目を細めた。


「終わってないもの」


 それだけ言って、視線を逸らす。


 次の瞬間。


 その姿は、もうどこにもなかった。


「……え?」


 声が漏れる。


 さっきまで、確かにそこにいたはずなのに。


 気配が、完全に消えている。


 最初から、いなかったみたいに。


「……何なの」


 小さく呟く。


 返事はない。


 廊下は、ただ静かなままだった。


気づけば、足が動いていた。


 逃げるみたいに、教室へ戻る。


 ドアを開けると、さっきと同じざわめきが広がっていた。


 笑い声。机を引く音。誰かの話し声。


 全部、何も変わっていない。


 ほんの数分前と、まったく同じ景色。


 それなのに。


 自分だけが、少し違う場所にいたみたいな感覚があった。


「遅かったね」


 美琴が、軽く手を振る。


 いつも通りの笑顔。


 それを見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


「……うん」


 うまく顔を見られないまま、曖昧に頷く。


 席に戻る。


 椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。


 何も言わない。


 何も聞かれない。


 ただ、それだけで少しだけ安心した。


 あの子のことを話そうか、一瞬だけ迷う。


 でも、やめた。


 言葉にしたら、現実になる気がした。


 さっきの出来事が、全部本当だったって認めてしまいそうで、怖かった。


 席に座る。


 机に手をかけた、そのとき。


 指先が、何かに触れた。


「……え?」


 引き出しの中。


 見覚えのない封筒が、一通。


 真っ白で、差出人も何も書かれていない。


 なのに。


 それが何なのか、分かってしまった。


 頭の奥で、さっきの言葉が蘇る。


 ――それ、読んだ?


 喉が、ひどく乾く。


 周りの音が、少し遠くなる。


 笑い声も、話し声も、全部ぼやけていく。


 ゆっくりと、封筒を取り出す。


 指先が、少し震えている。


 紙の感触が、妙に冷たい。


 開ける。


 中には、一枚の紙。


 折り目に沿って、それを広げる。


 印刷された文字が、整然と並んでいる。


 手書きじゃない。


 誰かの感情が入り込む余地がないくらい、無機質な文字。


 まるで、最初から決まっていたことを、ただ伝えているだけみたいに。


 視線が、文字をなぞる。


 自然と、最初から最後まで読んでしまう。


 止まれなかった。


 途中でやめることが、できなかった。


 そこに書かれていたのは――


 契約書。


 本契約は、以下の条件に基づき成立する。


 一、対象者は既に願いを発現させている。

 二、願いの対価として、対象者は八日以内にその生命を終了するものとする。

 三、契約の破棄を望む場合、対象者は願いの対象を自らの手で終了させなければならない。

 四、いかなる場合においても、発現した事象の完全な無効化は認められない。


 なお、本契約は既に効力を発揮している。


 読み終わった瞬間。


 紙が、かすかに揺れた。


 いや。


 揺れているのは、私の手だ。


「……何、これ」


 声が出た。


 自分でも驚くくらい、小さくて、頼りない声だった。


 願い。


 対価。


 八日以内に、生命を終了する。


 言葉の意味は分かる。


 全部、知っている言葉のはずなのに。


 頭の中で、うまく繋がらない。


 現実として、受け取れない。


 もう一度、読む。


 ゆっくりと。


 一行ずつ、確かめるように。


 文字は、変わらない。


 どこにも間違いはない。


 その中で。


 どうしても目が止まる一文があった。


 三、契約の破棄を望む場合、対象者は願いの対象を自らの手で終了させなければならない。


 願いの対象。


 その言葉が、頭の中でひどくゆっくり響いた。


 考えるまでもない。


 思い浮かぶのは、一人だけ。


 窓際の席。


 朝の光の中で、当たり前みたいに笑っている。


 橘美琴。


「……うそでしょ」


 声が、震えた。


 視界が揺れる。


 息が、うまく吸えない。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


 八日以内に、死ぬ。


 それとも。


 美琴を、殺す。


 頭の中で言葉にした瞬間、それが急に現実味を帯びる。


 重い。


 ひどく、生々しい。


 ありえない。


 意味が分からない。


 こんなの、現実のはずがない。


 なのに。


 紙は、ちゃんと手の中にある。


 触れている。


 読めてしまう。


 理解してしまう。


「紗季?」


 名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねた。


 顔を上げる。


 美琴が、不思議そうにこちらを見ている。


「どうしたの? 顔、真っ青だよ」


 いつも通りの声。


 いつも通りの距離。


 それが、ひどく遠く感じる。


「……なんでもない」


 反射的に、そう答えていた。


 言えるわけがない。


 こんなもの。


 こんなこと。


 言葉にした瞬間、全部が本当になってしまいそうで、怖かった。


 美琴は少しだけ首を傾げた。


 でも、それ以上は何も聞かなかった。


 その優しさが、今はありがたいより先に、痛かった。


 もう一度、紙を見る。


 逃げ場みたいに思っていた日常が、音もなく崩れていく。


 教室のざわめき。


 窓の外の光。


 全部、何も変わっていないのに。


 そこにいる自分だけが、切り離されていく。


 ――八日。


 その数字だけが、頭の中で繰り返される。


 八日。


 八日後に、私は死ぬ。


 八日後に、終わる。


 短い。


 あまりにも短い。


 ふと、視線を感じた。


 ゆっくりと顔を上げる。


 教室の隅。


 あの子が、また立っていた。


 今度は、はっきりと分かる。


 最初から、そこにいたみたいに。


 誰も見ていない。


 誰も気づいていない。


 そこにいるのに、存在していないみたいに。


 目が合う。


 逸らせない。


 その子は、静かに口を開いた。


「ちゃんと、終わらせてね」


 その一言が、やけに重く残った。


 小さい声なのに、耳の奥に刺さって抜けない。


「……終わらせるって、何を」


 小さく呟く。


 返事は、ない。


 瞬きをした次の瞬間。


 その子の姿は、もうどこにもなかった。


「……は?」


 思わず声が漏れる。


 見間違いじゃない。


 確かにいた。


 でも、もういない。


 現実が、少しずつ歪んでいく。


「紗季?」


 隣から声がして、我に返る。


 美琴が、心配そうにこちらを見ている。


「ほんとに大丈夫?」


「……うん」


 頷く。


 大丈夫なはずがないのに。


 視線を逸らす。


 机の上を見る。


 紙は、そこにある。


 消えない。


 逃げられない。


 ――八日。


 その言葉だけが、繰り返される。


 八日後に、私は死ぬ。


 それとも。


 美琴を、殺す。


 そんなこと、できるわけがない。


 考えるまでもない。


 選択肢ですらない。


「……ありえない」


 小さく呟く。


 これは、きっと何かの間違いだ。


 悪い冗談か、夢か、そういうもの。


 だって。


 美琴は、ここにいる。


 こうして笑っている。


 それが全部、嘘だなんて。


 受け入れられるわけがない。


 もう一度、教室の隅を見る。


 誰もいない。


 でも、あの言葉だけが残っている。


 終わらせてね。


 何を終わらせるのか。


 答えは、分かっている気がした。


 でも、それだけは考えたくなかった。


 考えた瞬間、壊れる。


 全部が、音を立てて崩れそうだった。


 だから。


 私は、目を逸らした。


 考えない。


 見ない。


 なかったことにする。


 全部。


 この手紙も。


 あの子も。


 八日後のことも。


 だって。


 今、美琴がここにいるなら。


 それでいい。


 理由なんていらない。


 正しいかどうかなんて、どうでもいい。


 ただ。


 失いたくない。


 それだけで、十分だった。


 視線を上げる。


 窓際の席で、美琴が笑っている。


 その光景が、あまりにも当たり前で。


 あまりにも、かけがえがなくて。


 胸の奥が、じんわりと痛んだ。


 私は、決めた。


 ――知らないままでいることを。


 この八日間が、何を意味するのかも。


 何が始まってしまったのかも。


 全部。


 知らないまま。


 見ないまま。


 なかったことにしたまま。


 それでも、今だけは。


 この時間を失わないで済むのなら。


 それでいい。


 そうやって目を逸らすことが、間違っていると分かっていても。


 私は、それを選んだ。


 それしか、選べなかった。


 教室のざわめきの中で。


 私だけが、静かに数え始めていた。


 ――八日。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ