第一章 親友
朝の光が、やけに眩しかった。
カーテンの隙間から差し込むそれが、いつもより強く感じられて、思わず目を細める。まぶたの裏に白い残像が残った。
しばらく、天井を見つめたまま動けなかった。
何かを思い出しかけている。
そんな感覚があった。
でも、その“何か”が分からない。
掴めそうで掴めないまま、するりと指の間から抜けていく。
「……なんだっけ」
呟いてみる。
答えは返ってこない。
夢を見ていた気がする。
それも、あまりいい夢じゃなかった。
胸の奥に、うっすらとした重さが残っている。
痛いわけじゃない。
苦しいわけでもない。
ただ、少しだけ息が詰まるような、そんな違和感。
「……変なの」
体を起こす。
シーツの上に手をついたとき、ほんの一瞬だけ、感触が遅れて伝わってきた気がした。
気のせいだと思うことにする。
寝起きだから、ぼんやりしているだけだ。
そういうことにしておいた方が、楽だった。
時計を見る。
七時二十分。
いつも通りの時間。
遅刻するほどじゃない。
でも、ゆっくりしている余裕もない。
ベッドから降りる。
床に足をついたとき、冷たさを感じるまでにほんのわずかな間があった。
やっぱり変だ、と思う。
けれど、立ち止まるほどじゃない。
そのまま歩き出す。
制服に着替える。
スカートの裾を整えて、リボンを結ぶ。
何度も繰り返してきた動作。
身体が覚えているはずの手順。
なのに、どこかぎこちない。
鏡の前に立つ。
そこに映っているのは、いつもの自分のはずだった。
寝ぐせの残った髪。
少し眠そうな目。
見慣れた顔。
それなのに。
一瞬だけ、“誰か別の人”を見ているような感覚がした。
まばたきをする。
次の瞬間には、いつもの自分に戻っていた。
「……寝ぼけてるだけ」
そう言い聞かせる。
階段を降りる。
足音が、わずかに遅れて聞こえた。
踏みしめた感触と音のタイミングが、微妙にずれている。
立ち止まる。
もう一度、足を踏み出す。
今度は普通だった。
気のせい。
そう思うことにした。
それ以上考えるのが、少し怖かった。
朝食は、ほとんど味がしなかった。
トーストをかじる。
口の中で咀嚼する。
飲み込む。
それだけの行為が、妙に遠い。
バターの風味も、パンの香ばしさも、確かにあるはずなのに、輪郭がぼやけている。
水を飲む。
喉を通る感覚だけが、やけにはっきりしていた。
玄関で靴を履く。
紐を結びながら、ふと手を止めた。
「……何か、忘れてる?」
そんな気がした。
大事なこと。
忘れちゃいけないこと。
でも、それが何なのか分からない。
考えようとすると、頭の奥がじわっと重くなる。
うまく思考が続かない。
「……いいや」
立ち上がる。
ドアを開ける。
外の空気は、少し湿っていた。
昨夜の雨が残っているのか、道路が濡れている。
水たまりに空が映っていた。
そこに映る自分の姿が、一瞬だけ遅れて動いた気がした。
目を凝らす。
もう普通に動いている。
やっぱり気のせいだった。
*
学校までの道は、いつも通りだった。
見慣れた家並み。
見慣れた電柱。
同じ制服を着た生徒たち。
全部、昨日までと変わらないはずなのに。
どこか、自分だけが少し浮いているような感覚があった。
すれ違う人と、ぶつかりそうでぶつからない。
肩が触れそうな距離を通っても、なぜかぴたりと避けられる。
相手が避けているのか、自分がずれているのか分からない。
駅前の信号で立ち止まる。
赤信号。
車が流れていく。
水しぶきが跳ねる。
その音が、ほんの少しだけ遠くに聞こえた。
信号が青に変わる。
人の流れに合わせて歩き出す。
その中に、自分もいるはずなのに。
うまく混ざれていない気がした。
学校が見えてくる。
少しだけ、ほっとする。
ここは変わらない場所だ。
教室に入れば、きっといつも通りに戻る。
そう思えた。
*
教室のドアを開ける。
ざわめきが、一気に流れ込んできた。
笑い声。
机の音。
話し声。
全部が混ざり合って、朝の空気を作っている。
いつも通りの景色。
そのはずなのに。
ほんの一瞬だけ、立ち止まってしまった。
理由は分からない。
ただ、どこか“違う”気がした。
「おはよ、紗季」
声がした。
その瞬間。
胸の奥が、強く引き寄せられる。
反射的に顔を上げる。
「……美琴」
窓際の席。
そこに、橘美琴がいた。
黒髪が、朝の光を受けて柔らかく揺れている。
少しだけ首を傾げる仕草。
見慣れた笑顔。
当たり前の光景。
なのに。
一瞬だけ、言葉が出なかった。
息が詰まる。
胸が苦しい。
まるで。
もう二度と会えないと思っていた人に、やっと会えたみたいに。
そんな感覚が、胸の奥を掠めた。
すぐに消える。
「なに? ぼーっとして」
美琴が笑う。
その声を聞いた瞬間。
ようやく、息ができた気がした。
「……いや、なんでもない」
慌てて首を振る。
変なのは私の方だ。
美琴がここにいるのは当たり前なのに。
「ほんと?」
「ほんとほんと」
軽く笑ってごまかす。
席に座る。
鞄を置く。
美琴が、椅子をこちらに寄せてくる。
「昨日の続きなんだけどさ――」
自然に会話が始まる。
その流れに乗る。
言葉が出る。
普通に話せる。
それなのに。
どこか一歩だけ、自分が遅れている感覚があった。
会話に、ほんのわずかなズレがある。
「でさ、そのとき――」
美琴が話している。
私は頷く。
相槌を打つ。
ちゃんと聞いているはずなのに。
内容が、少しだけ遅れて頭に入ってくる。
「紗季?」
「え?」
「聞いてる?」
「あ、うん。聞いてる」
慌てて答える。
少しだけ、間があった気がする。
でも、美琴はそれ以上気にしなかった。
そのとき。
ふと、周りの声が耳に入る。
「昨日さ――」
「それでさ――」
クラスメイトたちの会話。
普通の、いつものやり取り。
その中に、ほんの少しだけ違和感が混ざる。
誰かの笑い声が、一瞬だけ途切れた気がした。
すぐに戻る。
でも、その“途切れ”が妙に引っかかった。
「ねえ――」
何か言おうとして、口を開く。
声が、少しだけ遅れて出た気がした。
「……あれ?」
小さく呟く。
「どうしたの?」
美琴がこちらを見る。
「いや……なんでもない」
笑ってごまかす。
気のせい。
きっとそうだ。
そう思わないと、落ち着かなかった。
そのとき。
不意に、視線を感じた。
教室の隅。
見慣れない女子が、一人でこちらを見ている。
同じ制服。
同じ教室。
なのに。
どうしてか、記憶に引っかからない顔。
目が合う。
逸らさない。
ただ、じっと見てくる。
「……誰だっけ」
小さく呟く。
その瞬間。
その子が、口を開いた。
「呼ばれてるよ」
その一言が、やけにはっきりと耳に残った。
「……え?」
思わず聞き返す。
教室の隅に立っていた、あの見慣れない女子。
誰かに向けて言ったようには見えなかった。
視線は、まっすぐ私に向いている。
「誰に?」
その子は、少しだけ首を傾げた。
考えるみたいに、ほんの一瞬だけ間を置いてから、
「さあ」
あっさりと、そう答えた。
「……は?」
意味が分からない。
呼ばれてるって言ったのに、誰にかは分からない?
変な子だ、と思う。
関わらない方がいいタイプ。
そう判断してもおかしくないはずなのに。
視線が離せなかった。
胸の奥が、ざわつく。
さっきから続いている違和感が、その一言で輪郭を持った気がした。
「紗季?」
美琴の声がする。
現実に引き戻される。
「……ちょっと、行ってくる」
気づけば、そう言っていた。
「え? どこに?」
「すぐ戻るから」
それだけ言って、立ち上がる。
椅子が小さく音を立てる。
視線を教室の隅に戻す。
その子は、もういなかった。
「……は?」
思わず声が漏れる。
見間違い?
そんなはずはない。
さっきまで、確かにそこにいた。
視線を巡らせる。
いた。
教室の出口のところに、同じ子が立っている。
最初からそこにいたみたいに、自然に。
そのまま、廊下へ出ていく。
呼ばれている気がした。
理由は分からない。
でも、無視できなかった。
私は、そのまま教室を出た。
*
廊下は、教室よりも静かだった。
さっきまで耳に満ちていたざわめきが、一気に遠ざかる。
足音が、少しだけ遅れて響く。
自分のもののはずなのに、他人のものみたいに聞こえる。
その子は、少し先に立っていた。
振り返るでもなく、ただそこにいる。
「……で、誰に呼ばれてるの?」
少しだけ苛立ちを含んだ声になる。
その子は、ゆっくりとこちらを向いた。
「どこにいると思う?」
「は?」
「呼んでる人」
「だから、それを聞いてるんだけど」
会話が噛み合わない。
さっきよりも、はっきりと分かる。
この子は、“普通じゃない”。
言葉のやり取りが成立していないのに、不思議と意味だけは伝わってくる。
それが、気持ち悪かった。
「……どこにいるの?」
少し強く言う。
その子は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「ここ」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……ここ?」
思わず周りを見渡す。
廊下には、私とその子しかいない。
「誰もいないじゃん」
「いるよ」
即答だった。
「どこに?」
問い返した、その瞬間。
「呼んだの、私だから」
空気が、変わった。
ほんのわずかに。
けれど確実に、何かがずれた。
「……何、それ」
冗談にしては、笑えない。
かといって、本気とも思えない。
ただ。
さっきまでの“変な子”とは、明らかに違っていた。
温度がない。
感情の起伏が見えない。
なのに、言葉だけがやけに正確に届く。
「ねえ」
一歩、近づいてくる。
距離はほとんど変わっていないはずなのに、妙に近く感じる。
「それ、読んだ?」
「……何のこと」
「手紙」
心臓が、大きく跳ねた。
一瞬で、身体の奥が冷える。
まだ、誰にも見せていない。
というより――まだ“ちゃんと見ていないはずのもの”。
「……なんで、それ」
かろうじて絞り出した声。
その子は、何でもないことみたいに言った。
「もう始まってるから」
「……は?」
「時間」
淡々とした口調。
感情が、ほとんど感じられない。
「ちゃんと、終わらせないとね」
ぞくり、と背筋が冷える。
「……何を?」
聞いた瞬間。
その子は、少しだけ目を細めた。
「終わってないもの」
それだけ言って、視線を逸らす。
次の瞬間。
その姿は、もうどこにもなかった。
「……え?」
声が漏れる。
さっきまで、確かにそこにいたはずなのに。
気配が、完全に消えている。
最初から、いなかったみたいに。
「……何なの」
小さく呟く。
返事はない。
廊下は、ただ静かなままだった。
気づけば、足が動いていた。
逃げるみたいに、教室へ戻る。
ドアを開けると、さっきと同じざわめきが広がっていた。
笑い声。机を引く音。誰かの話し声。
全部、何も変わっていない。
ほんの数分前と、まったく同じ景色。
それなのに。
自分だけが、少し違う場所にいたみたいな感覚があった。
「遅かったね」
美琴が、軽く手を振る。
いつも通りの笑顔。
それを見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
「……うん」
うまく顔を見られないまま、曖昧に頷く。
席に戻る。
椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。
何も言わない。
何も聞かれない。
ただ、それだけで少しだけ安心した。
あの子のことを話そうか、一瞬だけ迷う。
でも、やめた。
言葉にしたら、現実になる気がした。
さっきの出来事が、全部本当だったって認めてしまいそうで、怖かった。
席に座る。
机に手をかけた、そのとき。
指先が、何かに触れた。
「……え?」
引き出しの中。
見覚えのない封筒が、一通。
真っ白で、差出人も何も書かれていない。
なのに。
それが何なのか、分かってしまった。
頭の奥で、さっきの言葉が蘇る。
――それ、読んだ?
喉が、ひどく乾く。
周りの音が、少し遠くなる。
笑い声も、話し声も、全部ぼやけていく。
ゆっくりと、封筒を取り出す。
指先が、少し震えている。
紙の感触が、妙に冷たい。
開ける。
中には、一枚の紙。
折り目に沿って、それを広げる。
印刷された文字が、整然と並んでいる。
手書きじゃない。
誰かの感情が入り込む余地がないくらい、無機質な文字。
まるで、最初から決まっていたことを、ただ伝えているだけみたいに。
視線が、文字をなぞる。
自然と、最初から最後まで読んでしまう。
止まれなかった。
途中でやめることが、できなかった。
そこに書かれていたのは――
契約書。
本契約は、以下の条件に基づき成立する。
一、対象者は既に願いを発現させている。
二、願いの対価として、対象者は八日以内にその生命を終了するものとする。
三、契約の破棄を望む場合、対象者は願いの対象を自らの手で終了させなければならない。
四、いかなる場合においても、発現した事象の完全な無効化は認められない。
なお、本契約は既に効力を発揮している。
読み終わった瞬間。
紙が、かすかに揺れた。
いや。
揺れているのは、私の手だ。
「……何、これ」
声が出た。
自分でも驚くくらい、小さくて、頼りない声だった。
願い。
対価。
八日以内に、生命を終了する。
言葉の意味は分かる。
全部、知っている言葉のはずなのに。
頭の中で、うまく繋がらない。
現実として、受け取れない。
もう一度、読む。
ゆっくりと。
一行ずつ、確かめるように。
文字は、変わらない。
どこにも間違いはない。
その中で。
どうしても目が止まる一文があった。
三、契約の破棄を望む場合、対象者は願いの対象を自らの手で終了させなければならない。
願いの対象。
その言葉が、頭の中でひどくゆっくり響いた。
考えるまでもない。
思い浮かぶのは、一人だけ。
窓際の席。
朝の光の中で、当たり前みたいに笑っている。
橘美琴。
「……うそでしょ」
声が、震えた。
視界が揺れる。
息が、うまく吸えない。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
八日以内に、死ぬ。
それとも。
美琴を、殺す。
頭の中で言葉にした瞬間、それが急に現実味を帯びる。
重い。
ひどく、生々しい。
ありえない。
意味が分からない。
こんなの、現実のはずがない。
なのに。
紙は、ちゃんと手の中にある。
触れている。
読めてしまう。
理解してしまう。
「紗季?」
名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねた。
顔を上げる。
美琴が、不思議そうにこちらを見ている。
「どうしたの? 顔、真っ青だよ」
いつも通りの声。
いつも通りの距離。
それが、ひどく遠く感じる。
「……なんでもない」
反射的に、そう答えていた。
言えるわけがない。
こんなもの。
こんなこと。
言葉にした瞬間、全部が本当になってしまいそうで、怖かった。
美琴は少しだけ首を傾げた。
でも、それ以上は何も聞かなかった。
その優しさが、今はありがたいより先に、痛かった。
もう一度、紙を見る。
逃げ場みたいに思っていた日常が、音もなく崩れていく。
教室のざわめき。
窓の外の光。
全部、何も変わっていないのに。
そこにいる自分だけが、切り離されていく。
――八日。
その数字だけが、頭の中で繰り返される。
八日。
八日後に、私は死ぬ。
八日後に、終わる。
短い。
あまりにも短い。
ふと、視線を感じた。
ゆっくりと顔を上げる。
教室の隅。
あの子が、また立っていた。
今度は、はっきりと分かる。
最初から、そこにいたみたいに。
誰も見ていない。
誰も気づいていない。
そこにいるのに、存在していないみたいに。
目が合う。
逸らせない。
その子は、静かに口を開いた。
「ちゃんと、終わらせてね」
その一言が、やけに重く残った。
小さい声なのに、耳の奥に刺さって抜けない。
「……終わらせるって、何を」
小さく呟く。
返事は、ない。
瞬きをした次の瞬間。
その子の姿は、もうどこにもなかった。
「……は?」
思わず声が漏れる。
見間違いじゃない。
確かにいた。
でも、もういない。
現実が、少しずつ歪んでいく。
「紗季?」
隣から声がして、我に返る。
美琴が、心配そうにこちらを見ている。
「ほんとに大丈夫?」
「……うん」
頷く。
大丈夫なはずがないのに。
視線を逸らす。
机の上を見る。
紙は、そこにある。
消えない。
逃げられない。
――八日。
その言葉だけが、繰り返される。
八日後に、私は死ぬ。
それとも。
美琴を、殺す。
そんなこと、できるわけがない。
考えるまでもない。
選択肢ですらない。
「……ありえない」
小さく呟く。
これは、きっと何かの間違いだ。
悪い冗談か、夢か、そういうもの。
だって。
美琴は、ここにいる。
こうして笑っている。
それが全部、嘘だなんて。
受け入れられるわけがない。
もう一度、教室の隅を見る。
誰もいない。
でも、あの言葉だけが残っている。
終わらせてね。
何を終わらせるのか。
答えは、分かっている気がした。
でも、それだけは考えたくなかった。
考えた瞬間、壊れる。
全部が、音を立てて崩れそうだった。
だから。
私は、目を逸らした。
考えない。
見ない。
なかったことにする。
全部。
この手紙も。
あの子も。
八日後のことも。
だって。
今、美琴がここにいるなら。
それでいい。
理由なんていらない。
正しいかどうかなんて、どうでもいい。
ただ。
失いたくない。
それだけで、十分だった。
視線を上げる。
窓際の席で、美琴が笑っている。
その光景が、あまりにも当たり前で。
あまりにも、かけがえがなくて。
胸の奥が、じんわりと痛んだ。
私は、決めた。
――知らないままでいることを。
この八日間が、何を意味するのかも。
何が始まってしまったのかも。
全部。
知らないまま。
見ないまま。
なかったことにしたまま。
それでも、今だけは。
この時間を失わないで済むのなら。
それでいい。
そうやって目を逸らすことが、間違っていると分かっていても。
私は、それを選んだ。
それしか、選べなかった。
教室のざわめきの中で。
私だけが、静かに数え始めていた。
――八日。




