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プロローグ

 雨の音が、やけにうるさかった。


 フロントガラスに叩きつけられる水滴が、視界を細かく砕いていく。ワイパーが左右に動くたびに、世界は一瞬だけ形を取り戻し、すぐにまた滲んで崩れた。


 ぎい、ぎい、と。

 少し古びた一定のリズム。


 それだけが、やけにはっきり聞こえる。


 他の音は、どこか遠かった。


 エンジンの振動も、タイヤが水を弾く音も、すべてが一枚膜を隔てた向こう側にあるみたいに鈍く響いている。


「……見えない」


 声がした。


 それが自分の声かどうか、一瞬分からなかった。


 口は動いたはずなのに、声を出した感覚がない。


 夜だった。


 街灯の光が、濡れた道路に反射している。白、赤、橙。色だけがやけに鮮明で、形はどれも曖昧だった。対向車のライトが通り過ぎるたびに、視界の端で光が流れていく。


 どれも現実から浮いて見えた。


 夢みたいだ、と思う。


 でも、夢にしては妙に細かい。


 濡れた空気の重さも、シートに身体が押しつけられる感覚も、やけに生々しい。


 隣に、誰かがいた。


 助手席。

 そこに、確かに人がいる。


 それは分かるのに、顔がうまく認識できない。


 輪郭だけが揺れている。


 暗い髪。

 肩の線。

 口元が動いているのだけが分かる。


「――大丈夫?」


 声が届いた。


 少し遅れて。

 水の中を通ってきたみたいに、輪郭がぼやけている。


 その声を、私は知っている。


 何度も聞いてきた声だ。


 すぐに分かるはずなのに、どうしても名前が出てこない。


 喉の奥で、言葉がつかえる。


「……えっと」


 自分でも情けなくなるくらい、頼りない音だった。


 そんなはずがない。

 忘れるはずがない。

 知らないわけがない。


 胸の奥がざわつく。


 焦りとは違う。

 もっと深い場所から滲み出てくる、不安に近い感覚。


 大事なものを目の前にしているのに、それに手を伸ばせないような、そんなもどかしさ。


 隣の誰かが、何かを言った。


 聞き取れなかった。


 雨の音が重なる。

 ワイパーがまた動く。

 ぎい、ぎい、と同じ音が繰り返される。


 私はもう一度、横を向いた。


 見ようとするほど、輪郭が曖昧になる。

 ピントが合わない。


 まるで、そこだけが現実から切り離されているみたいに。


「ごめん」


 口からこぼれた言葉に、自分でも理由が分からなかった。


 何に対して謝っているのか。


 名前が出てこないことか。

 うまく反応できないことか。


 それとも――


 何か、取り返しのつかないことが起きようとしている気配に、何もできないことか。


 視界の端で、光が揺れた。


 白い。

 強くて、まっすぐな光。


 遠いと思った次の瞬間には、もう近かった。


 近い。

 近すぎる。


 身体が強張る。


「――危な」


 声。


 どちらのものか分からない。


 ハンドルが大きく切られる。

 タイヤが滑る。

 水を噛んで、嫌な音を立てる。

 ブレーキが鳴る。


 すべてが同時に起こった。


 世界が、傾く。


 身体が横に投げ出される。

 シートベルトが胸に食い込む。

 視界が回転する。


 ガラスが割れる音。

 金属が軋む音。

 何かがぶつかる鈍い衝撃。


 それらが一度に押し寄せて、頭の中が真っ白になる。


 その中で。


 私は手を伸ばしていた。


 考えるより先に、身体が勝手に動いていた。


 何かを掴もうとしている。

 目の前のものを。


 失いたくないものを。


 指先が、何かに触れた。


 温かい。

 柔らかい。


 確かにそこにある感触。


 細い指だった気がする。

 あるいは、手首かもしれない。


 その温もりだけが、やけに鮮明だった。


「……よかっ、た」


 誰かが、小さく笑った気がした。


 それがどちらの声だったのか、分からない。


 次の瞬間。


 視界が、白く弾けた。


 光が強すぎて、何も見えない。


 音が消える。


 雨の音も、金属の軋みも、すべてが一度に遠ざかる。


 残るのは、耳の奥で細く鳴る高い音だけ。


 身体の感覚が、急速に失われていく。


 それでも、意識だけが妙に残っている。


 変だ。

 おかしい。


 何かが、決定的におかしい。


 なのに、その“何か”が分からない。


 私は必死に思い出そうとした。


 隣にいた人の名前。

 何度も呼んできたはずの名前。

 大切な人の名前。


 喉の奥で音を作ろうとする。


 一音目だけが浮かんでは消える。


 掴めない。


 どうしても出てこない。


 代わりに、ひとつの感情だけが残る。


 失いたくない。


 それだけが、驚くほどはっきりしていた。


 理由も、言葉も、全部曖昧なのに。


 その感情だけが、壊れない。


 だから、もう一度手を伸ばした。


 届くはずのない距離。


 それでも伸ばす。


 指先が空を切る。


 何もない。


 それでも、伸ばす。


 ――触れた、気がした。


 その瞬間。


 すべてが途切れた。


 景色が消える。

 音が消える。

 意識が沈んでいく。


 深く、暗い場所へ。


 その中で、声がした。


 どこから聞こえたのか分からない。


 やさしい声だった。


「――大丈夫」


 静かに、そう告げる。


「すぐ、会えるから」


 意味は分からなかった。


 それでも、安心した。


 その言葉だけを握りしめるみたいに。


 私は、そこで意識を手放した。



次に気づいたとき、雨はまだ降っていた。


 さっきまで耳を叩いていた激しさはなくなり、少し遠くから聞こえてくるだけの音になっている。


 私は、道路の上に立っていた。


 立っている、はずなのに。

 その感覚は、ひどく曖昧だった。


 足の裏に、何も感じない。


 濡れたアスファルトの冷たさも、硬さも、ざらつきも伝わってこない。


 そこに立っているはずなのに、ほんの少し浮いているような、奇妙な感覚だった。


「……あれ」


 声が出た。


 ちゃんと音になったのかは分からない。


 周囲には人が集まっていた。


 何人も。


 傘もささずに駆け寄ってくる人。

 スマートフォンを耳に当てて叫んでいる人。

 道路の真ん中にしゃがみ込んでいる人。


 遠くには、赤色灯の光が滲んで見える。


 事故だ。


 そう思った。


 そのはずなのに、妙に現実感がない。


 全部、自分のことじゃないみたいだった。


 私は一歩踏み出そうとした。


 動いたのかどうか、よく分からない。


 脚は前に出た気がする。


 けれど、歩いている感覚がない。


 身体と地面のあいだに、見えない膜が一枚挟まっているみたいだった。


 人が集まっている中心を見る。


 そこだけが、どうしてもぼやけていた。


 見ようとするほど焦点が合わない。


 輪郭が崩れて、光の塊に変わっていく。


 まるで、見てはいけないものを無理やり見ようとしているみたいに。


「……誰か」


 自分でも驚くくらい弱い声だった。


 ここに、誰かがいるはずだ。


 さっきまで隣にいた人。


 名前の思い出せない、大事な人。


 手放したくなかった人。


 それなのに、どうしても見えない。


 胸の奥が、じわじわと苦しくなる。


 息が浅い。


 いや、そもそも自分が息をしているのか、それすらよく分からない。


 足元に何かが落ちていた。


 鞄。


 見覚えがある気がする。


 少し離れたところには、自転車も倒れている。


 ガラスの破片が、街灯の光を拾って細かくきらめいていた。


 全部、見えている。


 全部、そこにある。


 なのに、その中心だけが見えない。


 分からない。


 名前も。

 顔も。

 何が起きたのかも。


 ただ一つだけ、はっきりしている感情がある。


 失いたくない。


 それだけが、どうしても消えない。


 私は無意識に胸元へ手を当てた。


 鼓動は、感じられなかった。


 一瞬、身体の内側がひどく冷たくなる。


 もう一度、確かめても、何も感じ取れない。


 胸はそこにあるはずなのに。


 自分の中に、自分がいないみたいだった。


「……なんで」


 呟く。


 答える人はいない。


 雨の音と、人のざわめきだけが辺りを満たしている。


 私はもう一度、中心を見た。


 見ようとするほど、輪郭は崩れる。


 近づきたいのに、近づけない。


 脚が勝手に止まる。


 そこへ行ってはいけない、と何かに止められているみたいに。


 そのとき。


 誰かの声がした。


「女の子が……!」


「早く、救急――」


「しっかりして!」


 言葉が途切れ途切れに聞こえてくる。


 “女の子”。


 その単語だけが、妙に強く耳に残った。


 女の子。


 誰のことだろう。


 考えた瞬間、胸の奥に刺すような痛みが走る。


 私かもしれない。


 違うかもしれない。


 分からない。


 分からないはずなのに、ひどく怖かった。


 名前を呼びたい。


 呼ばなければいけない気がする。


 でも、やっぱり出てこない。


 その代わりに、別の感情が押し寄せてくる。


 お願い。


 頭の中で、誰にともなく縋る。


 これ以上、奪わないで。


 私から、取らないで。


 それが自分のための願いなのか、誰かのための願いなのかも分からなかった。


 分からないまま、私は願っていた。


 どうか。


 どうか、もう一度。


 会わせて。


 声にしようとしても、うまく形にならない。


 でも、その願いだけははっきりしていた。


 会いたい。


 もう一度。


 いま、ここで失いかけているその人に。


 その瞬間。


 雨音の向こうに、ひどく静かな気配が混ざった気がした。


 誰かが、すぐそばに立っているような。


 振り向く。


 誰もいない。


 気のせいかもしれない。


 でも。


 ほんの一瞬だけ、幼い声が聞こえた気がした。


 囁くみたいに。

 耳元で笑うみたいに。


 けれど、言葉は聞き取れなかった。


 次の瞬間には、もうその気配も消えていた。


 雨だけが降っている。


 道路の上で、人が叫んでいる。


 赤色灯が近づいてくる。


 その光景の中で、私だけが取り残されていた。


 このままではいけない。


 そう思う。


 でも、何をどうすればいいのか分からない。


 だから。


 私は、ただ願った。


 願うことしかできなかった。


 どうか。


 どうか、もう一度。


 会いたい。


 その願いが、どこへ届いたのか。


 あのときの私は、まだ知らなかった。

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