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最終章 八日目

 目が覚めた瞬間、それは分かった。


 もう、ほとんど残っていない。


 音が遠いとか、身体が軽いとか、そういう段階じゃなかった。


 “自分がここにいる”という感覚そのものが、薄い。


 天井が見える。


 でも、それを見ているのが自分なのかどうか、一瞬だけ分からなくなる。


「……八日目」


 声に出す。


 ちゃんと聞こえた。


 けれど、その声が自分の中から出たものなのか、どこか外から聞こえてきたものなのか、区別がつかなかった。


 起き上がる。


 身体は、ほとんど重さを持たない。


 床に足をつける。


 触れているのかどうかも、よく分からない。


 それでも、立てる。


 動ける。


 それだけで、十分だった。


 鏡を見る。


 そこには、誰かが立っている。


 制服を着た、見慣れたはずの姿。


 でも、それが自分だとは、もう思えなかった。


 輪郭が、ほとんどない。


 背景に溶けている。


 存在しているというより、そこに“映っているだけ”のもの。


「……私」


 呟く。


 鏡の中のそれも、同じように口を動かす。


 でも、その動きは、ほんの少しだけ遅れていた。


 もう、はっきりしていた。


 終わる。


 今日で。


 逃げることも。


 誤魔化すことも。


 もう、できない。


 それでも。


「……行かなきゃ」


 口から出た言葉は、それだった。


 理由なんていらなかった。


 最後だから。


 それだけで十分だった。



 外に出る。


 空は、いつもと同じ色をしていた。


 青い。


 雲が流れている。


 普通の朝。


 でも、その色も、動きも、すべてが少し遠い。


 自分の世界から一歩外れたところにあるみたいだった。


 歩く。


 足音は、もうほとんど聞こえない。


 周りの人は、完全に自分を避けるように通り過ぎていく。


 いや、避けているわけじゃない。


 最初から、見えていない。


 存在していないみたいに。


 それでも、歩く。


 学校へ向かう。


 もう理由は一つしかない。


 美琴に会うため。



 教室の前に立つ。


 ドアに手をかける。


 一瞬だけ、止まる。


 ここを開けたら、最後の時間が始まる。


 でも、開けない理由はない。


 ゆっくりと扉を押す。


 ざわめきが、流れ込んでくる。


 でも、それはもう音でしかなかった。


 意味を持たない。


 ただの背景。


 その中で。


「おはよ、紗季」


 その声だけが、はっきりと届いた。


 窓際の席。


 橘美琴。


 いつもの場所。


 いつもの笑顔。


 それを見た瞬間、世界がほんの少しだけ戻る。


「……おはよ」


 返す。


 声は、かなり遅れて届いた気がした。


 でも、美琴はちゃんと反応した。


 まだ、届く。


 それだけでよかった。



 授業は、ほとんど何も感じなかった。


 黒板の文字は見える。


 先生の声も聞こえる。


 でも、それは全部“遠くの映像”みたいだった。


 自分はそこに参加していない。


 ただ、見ているだけ。


 触れられない場所から。


 ただ一つ。


 美琴だけが、現実だった。


 横顔。


 ノートに書く手。


 ふとした仕草。


 そのすべてが、はっきりしている。


 だから、見続けた。


 覚えようとしていた。


 残るわけがないのに。


 それでも、やめられなかった。



 昼休み。


 私は、美琴の前に立った。


 少しだけ距離がある。


 でも、それ以上近づかない。


 近づいたら、触れたくなるから。


「紗季」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、胸が締めつけられる。


「今日さ」


 美琴が、少しだけ迷うように言う。


「帰り、空いてる?」


 何度も聞いた言葉。


 でも、今日は違う。


 これが最後になる。


「……うん」


 頷く。


「空いてる」


 それしか言えなかった。



 放課後。


 教室には、夕方の光が差し込んでいる。


 オレンジ色。


 長く伸びる影。


 全部が、昨日と同じ。


 でも、違う。


 終わりの色をしている。


「行こっか」


 美琴が言う。


「うん」


 立ち上がる。


 足音は、もうほとんど聞こえない。


 それでも、歩ける。


 それでいい。



 外に出る。


 風が吹く。


 でも、その感触はほとんどない。


 ただ、髪が少し揺れたのが分かるだけ。


 並んで歩く。


 少しだけ距離がある。


 でも、それ以上は近づかない。


 分かっているから。


 触れられないことを。


「紗季」


「ん?」


「今日さ」


 美琴が、少しだけ真剣な声で言う。


「やっぱり変」


 小さく笑う。


「……うん」


 否定しない。


 もう、できない。


「なんかさ」


 続ける。


「消えそうっていうか」


 その言葉に、息が止まる。


 見えている。


 完全じゃない。


 でも、感じている。


「……そうかも」


 小さく言う。


 初めて、ちゃんと認めた。


 言葉として。


 美琴が、少しだけ黙る。


 それから。


「そっか」


 それだけ言った。


 追及しない。


 無理に理解しようとしない。


 でも、受け止める。


 それが、美琴だった。



 公園に着く。


 昨日と同じ場所。


 同じ時間。


 でも、もう戻らない。


 ベンチに座る。


 少しだけ距離を空けて。


 風が吹く。


 葉が揺れる。


 その音だけが、はっきり聞こえた。


「紗季」


「ん?」


「もしさ」


 美琴が、少しだけためらう。


「ほんとに、いなくなるなら」


 その言葉に、胸が強く締まる。


「ちゃんと言って」


 昨日と同じ言葉。


 でも、今日は違う。


 冗談じゃない。


 本気で言っている。


「……」


 答えられない。


 言ったら終わる。


 でも、言わなくても終わる。


 その間で、言葉が止まる。


「……ごめん」


 それしか出てこなかった。


 美琴が、少しだけ困ったように笑う。


「またそれ」


「……うん」


「ほんと、謝ってばっか」


 少しだけ、寂しそうだった。


 その顔を見て、思う。


 ああ。


 この人は、ちゃんとここにいる。


 ちゃんと、生きている。


 自分とは違う。


 その事実が、はっきりと形になる。


「ねえ」


 私は、ゆっくりと口を開く。


「美琴」


「ん?」


「……好き」


 言葉が、静かに落ちた。


 空気が止まる。


 風の音だけが残る。


 美琴が、目を見開く。


「……え?」


 それ以上、何も言わなかった。


 言えなかった。


 全部を説明する言葉なんて、ない。


 ただ、それだけは言っておきたかった。


 美琴が、しばらく黙る。


 それから。


「……なにそれ」


 少しだけ笑う。


 でも、その奥に揺れがある。


「急すぎるでしょ」


「……うん」


「ずるいよ」


 そう言いながらも、怒ってはいない。


 ただ、困っている。


 その反応が、少しだけ安心だった。


 重すぎない。


 壊れない。


 いつもの美琴のままだった。


「でも」


 私は続ける。


「言っときたかった」


 それが本音だった。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 美琴が、少しだけ視線を逸らす。


 それから。


「……ありがと」


 小さく言った。


 それが、返事だった。


 それで十分だった。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 風が吹く。


 ブランコの鎖が、かすかに鳴る。


 遠くで子どもの声がした気がしたけれど、それもすぐに消えた。


 空は、昨日より少しだけ淡い色をしていた。


 夕焼けと夜の境目。


 終わりかけの光。


 その中で、美琴は視線を落としたまま、小さく息を吐いた。


「……急すぎて、びっくりした」


「うん」


 それしか言えなかった。


 本当は、急じゃない。


 ずっと前から、たぶんずっと思っていた。


 でも、言葉にしたのは今だった。


 今しかなかったから。


「そういう“好き”でいいんだよね」


 美琴が、少しだけ困ったように笑う。


 冗談めかそうとしているのが分かる。


 空気を壊さないために。


 私をこれ以上追い詰めないために。


「……たぶん」


 少しだけ笑って返す。


 たぶん、でしかなかった。


 親友としてなのか。


 それ以上なのか。


 そんな境界は、今の私にはあまり意味がなかった。


 ただ、この子が大事で、失いたくなくて、ここにいてほしい。


 その気持ちだけが、ずっと変わらずにある。


「たぶんって何」


「分かんないから」


「今日そればっかり」


「……うん」


 また小さく笑う。


 その笑い方まで、覚えておこうと思った。


 たぶん、残らない。


 でも今この瞬間だけは、確かに見ている。


 ちゃんと、ここにある。


「紗季」


「ん?」


「なんか、今日の紗季って」


 言いかけて、美琴が言葉を探すみたいに少しだけ黙る。


「今日だけじゃないけど」


 訂正するように言って、また小さく息をつく。


「ずっと、ちゃんとここにいるのに、ちょっと遠い」


 その一言に、胸がひどく痛んだ。


 見えている。


 全部じゃなくても。


 ちゃんと、感じている。


 私が少しずつ薄くなっていることを。


「……ごめん」


「だから、なんで謝るの」


 美琴が苦笑する。


 でも今度の笑いは、少しだけ弱かった。


「紗季が謝るたびに、こっちまで嫌な感じする」


「嫌な感じ?」


「うん。なんか……終わりみたいで」


 息が止まる。


 その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。


 分かっていないはずなのに。


 知らないはずなのに。


 それでも、美琴はちゃんと“終わり”の気配を感じ取っている。


 私は視線を落とした。


 言葉が出てこない。


 出せるはずなのに、喉の奥で全部止まってしまう。


「……終わりだよ」


 やっと出た声は、自分でも驚くくらい小さかった。


 美琴が、ぴくりと反応する。


「え?」


「ごめん」


 首を振る。


「違う。違うけど」


 何が違うのか、自分でも分からない。


 終わりなのは本当だ。


 でも、そう言いたかったわけじゃない。


 そう言ってしまったことが、たまらなく怖かった。


 美琴はしばらく何も言わなかった。


 風が吹く。


 制服の袖が揺れる。


 私は、その揺れを見ていた。


 揺れているのに、触れられないもの。


「……帰ろっか」


 先に言ったのは、美琴だった。


 責めるでもなく、問い詰めるでもなく。


 ただ、そう言った。


 私は頷く。


「うん」


 立ち上がる。


 少しだけふらついた。


 でも、美琴は気づかなかった。


 あるいは、気づいても何も言わなかった。


 公園を出る。


 並んで歩く。


 もう会話は、ほとんどなかった。


 でも、沈黙は苦しくなかった。


 たぶん、どちらも分かっていたからだ。


 この時間が、長くは続かないことを。


 駅前の分かれ道まで来る。


 いつもの場所。


 ここで手を振って、それぞれ家に帰る。


 何度も繰り返してきたはずの、当たり前の終わり方。


 でも今日は、それがひどく遠く感じた。


「じゃあ」


 美琴が言う。


 声が少しだけ掠れていた。


「また明日」


 その言葉に、私は一瞬だけ息を止めた。


 “また明日”。


 そんなものは、もう私にはほとんど残されていない。


 それでも。


「……うん」


 頷いた。


 そう答えたかった。


 最後まで。


 いつも通りに。


 美琴が手を振る。


 私も振り返す。


 そのとき。


 指先の輪郭が、少しだけ揺らいだ。


 光の中で、透けた気がした。


 見間違いじゃない。


 でも、美琴は気づいていない。


 いや、気づいていないふりをしたのかもしれない。


 そのまま、少しだけ首を傾げる。


「紗季?」


 呼ばれる。


 返事をしようとする。


 その瞬間。


 ふっと、身体の感覚が抜けた。


 足元が消える。


 音が遠ざかる。


 視界が白く滲む。


「……え」


 自分の声なのかどうかも分からない。


 立っているはずなのに、立っていられない。


 でも、倒れる感覚もない。


 ただ、ほどける。


 自分の輪郭が。


 世界とのつながりが。


 少しずつ、静かに。


「紗季?」


 もう一度、美琴の声。


 今度は、さっきよりも近い。


 心配している声。


 私は顔を上げた。


 美琴が、目の前にいた。


 いつの間にか距離を詰めていたらしい。


 手を伸ばしてくる。


 たぶん、私の肩に触れようとしていた。


 でも。


 その手は、何も掴めないまま空を切った。


 美琴の表情が、はっきりと揺れる。


「……え?」


 初めて。


 明確に、見えた。


 理解できないものに触れたときの顔。


 私は、少しだけ笑った。


 怖がらせたくなかった。


 最後まで、そう思った。


「……ごめん」


 またその言葉だった。


 本当に最後まで、私はそればかりだった。


「ちが」


 美琴が何かを言おうとする。


 でも、最後まで聞き取れない。


 音が、もう届かない。


 その代わりに、見える。


 美琴の顔だけは、最後まではっきり見えた。


 泣きそうな顔。


 でも、まだ泣いていない。


 たぶん、自分に何が起きているのか分かっていないから。


 私は最後に、もう一度だけ口を開いた。


「ありがとう」


 声になったかどうかは分からない。


 でも、言った。


 ちゃんと。


 それだけは、伝えたかった。


 次の瞬間。


 世界が、静かに切れた。



 橘美琴は、その場に立ち尽くしていた。


 夕方の駅前。


 人が行き交う。


 信号が変わる。


 車が通る。


 世界は何も変わっていない。


 なのに。


 胸の奥だけが、ひどくおかしかった。


「……え」


 小さく声が漏れる。


 今、誰かがいた。


 確かに、目の前に。


 話していた。


 見ていた。


 声も聞いていた。


 なのに。


 それが、誰だったのか分からない。


 思い出そうとすると、頭の中が白くなる。


 大事なものを掴みかけて、指の間から零れ落ちていく感覚だけが残る。


「……なんで」


 意味もなく、そう呟く。


 胸が痛い。


 理由が分からないのに、苦しい。


 喉が詰まる。


 視界が少しだけ滲む。


 泣く理由なんて、ないはずだった。


 なのに。


 気づいたときには、涙が頬を伝っていた。


「……何、これ」


 拭う。


 でも、止まらない。


 どうして泣いているのか分からない。


 何を失ったのかも分からない。


 それでも。


 確かに、何かがなくなった。


 その感覚だけが、ひどく鮮明だった。


 しばらく、その場を動けなかった。


 人が通り過ぎていく。


 誰も気にしない。


 誰も立ち止まらない。


 その中で、美琴だけがひとり取り残されていた。



 次の日。


 朝。


 教室の窓際に座りながら、橘美琴はぼんやりと外を見ていた。


 空は晴れている。


 普通の朝。


 教室にはいつものざわめきがある。


 何も変わらない。


 それなのに。


 胸の奥に、ぽっかりと穴が開いていた。


 何かを忘れている。


 大事なことを。


 そう思うのに、それが何なのかは分からない。


「美琴?」


 友達に呼ばれて、振り向く。


「今日元気なくない?」


「……そう?」


「うん。なんかぼーっとしてる」


 そう言われて、少しだけ笑ってごまかす。


 でも、自分でも分かっていた。


 どこかおかしい。


 ずっと、何かを探しているみたいな感覚がある。


 なのに、何を探しているのかが分からない。


 席に座り直す。


 ふと、隣の席を見る。


 空いている。


 誰もいない。


 それだけのはずなのに。


 ひどく胸が痛んだ。


 そこに、誰かがいた気がする。


 ずっと。


 当たり前みたいに。


 でも、思い出せない。


 名前も。


 顔も。


 声も。


 何一つ。


「……やだな」


 小さく呟く。


 理由のない喪失感だけが、残っている。


 そのとき。


 机の中で、紙が擦れるみたいな音がした。


 美琴は眉をひそめる。


 ゆっくりと引き出しを開ける。


 中には、一通の封筒が入っていた。


 真っ白で、差出人も何も書かれていない。


「……何これ」


 昨日まで、こんなものはなかったはずだ。


 なのに、どうしてか。


 それを見た瞬間、胸の奥がざわついた。


 知っている気がした。


 見覚えなんてないのに。


 指先が少しだけ震える。


 封筒を手に取る。


 紙の感触は、妙に冷たかった。


 そのとき。


「ねえ」


 背後から、声。


 振り向く。


 そこに、見知らぬ少女が立っていた。


 同じ制服。


 なのに、記憶に引っかからない顔。


 最初からそこにいたみたいに、自然に立っている。


 目が合う。


 逸らせない。


 その子は、少しだけ笑った。


「次は」


 静かな声だった。


「どんな願いにする?」


 その言葉が、やけにはっきりと耳に残った。


 意味なんて分からないはずなのに。


 どうしてか。


 胸の奥が、ひどく痛んだ。


 美琴は何も言えなかった。


 ただ、封筒を握る指先に、少しずつ力が入っていく。


 理由の分からない涙だけが、また静かに頬を伝っていた。

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