『カエデ』②
下草を踏みしだく音は、森の環境音に簡単にかき消される。鳥の鳴き声や羽ばたき、枝葉の揺れ擦れる音、時折がさりと響く獣の足音。しゃりしゃりと草木をかじる虫の咀嚼音まで、森という単語から連想できるものすべてが、森を走るジャックの耳に届いている。
地球は青かった、と、最初に宇宙へ到達した旧暦人の一人は語ったそうだ。彼は一体何を思ってそんな言葉を口にしたのか、青年は駆けながら想像した。
母星を自らの掌の上に収めることができた満足感か?それとも純粋に、美しさへの賛美か?
いや、と青年は思う。
―地球の発する鮮やかな青がいくら美しかろうとも、周りが等しく暗黒であるならば、『孤独』だ。その旧暦人は、つい先日までこれ以上なく確固たるものとして足元に踏みしめていた母星が、暗い海を孤独に航行する船の一つに過ぎなかったと実感したはずだ。
彼は一体何を思っただろうか?
その絶望感に、青年はぞくりと身を震わせた。思考から眼前の目標に意識を戻す。
―まぁそれに比べれば目の前の景色は、
「及第点かな」
一面に広がる白い森は、そのすべてが例外なく「白」で構成されていた。生い茂る樹木、その間を縫って歩く獣、葉の裏に潜む虫に至るまでがあまりに平凡な、ともすれば模範的であるとすらいえる風景。しかし純白と表現するにはあまりによそよそしい、色素を奪われてしまったかのような白がそこにはあった。
青年は常軌を逸した風景にひるむこともなく走り続ける。なぜなら、この白い森は彼にとって日常生活の、『命題』の一部であったから。着地から2分。『樹』もそろそろ気づくころ合いだろう―。
そして、ある一線で立ち止まった。
不自然に脱色された森林の中にあって、なお不自然極まる空白があった。草木一本すら生えていないつるりとしたサークル。
その中心には、直径5mはあろうかという巨樹―いうまでもなく真白に脱色されていた―が立っていた。扇子のように開いた樹形のふちを形作る葉の一枚一枚は、手のひらを開いたような形でそよいでいる。大樹の立ち姿には、己の不自然さこそが自らの在り方であると主張するかのような厚かましささえ感じられた。
「『カエデ』か」
事前情報通り。何も問題はない。
青年が迷いを見せることはなかった。サークルに一歩踏み出す。その足が地に着くか否かというところで―。
『森』は総毛だった。
餌を探し森を闊歩する獣が、花をつつく小鳥が、葉の裏に潜む虫が、風にそよぐだけの枝葉までも。そのすべてが、無遠慮極まりない闖入者に瞼を開き、ぎょろりと目を向けたように青年には感じられた。
森はその『視線』をそのままなぞるように、青年へ文字通り凝集した。
肉食獣が草食獣の首元にかみつくためにとびかかるのとも、鳥が魚をめがけて急降下するのとも違う。白血球が抗原を除去するのと同じく機械的だが、しかし全力を以ってただ異物を除去する、そのためだけの動きだった。
しかしてその首魁である巨樹は何の反応も示すことなく、いまだふてぶてしく中央に鎮座している。
つい先ほどまで自由な生を謳歌していたかのように見えた動物たちは、水平方向に猛進する雪崩となっていた。防護服を除けば丸腰の青年は、三秒もすればあえなくその白い奔流に飲み込まれるはずだ。
そう、丸腰であれば。
彼は腰部のホルダーから、左手でくすんだ黒色の物体を抜いた。20㎝ほどの長さに先端が鋭くとがっている。一本の杭のようでもあり、弾丸のようでもあった。ジャックはその物体を『種』と呼んでいた。
眼前に迫る白い波濤に臆することなく、自身の右腕に『種』を突き立て、青年は一言呟く。
「来い、『ヤドリギ』」
『ヤドリギ』と呼ばれたものの『種』が右腕に沈み込むように吸い込まれる。
彼はこの時、いつもある光景を幻視する。
青年の脳の中心に、『種』がその根を下ろしていく。そこに在る「何か」を根はちゅうちゅうと吸い上げて、せっせと形作るのだ。
ーこの「何か」はなんだろう?
ジャックは考える。彼には何もなかった。家族も友人も恋人もなく、あるものは父親から受け継いだこの『命題』のみだ。
―空っぽのはずの俺から、何か吸い上げるほどのものがあるのだろうか?
あるとき、質問された『監視塔』はこういった。
『▼あなたの便宜的なイメージで、特に意味はありません』と。
そうなのだろう、と、彼も便宜的に納得した。
ただ、死ぬのだけはごめんだ。怖くはないが、絶対に嫌だ。
―なぜ、こんなに死ぬのが嫌なのだろうか?
彼の思考を切断するように、『種』は『発芽』した。
『木こりのジャック』の手には、二振りの漆黒の手斧が握られていた。
「仕事の時間だ」




