『カエデ』②:後編
ジャックの両手に、二振りの手斧がずしりと加重する。
手斧は黒い防護服をまとった青年の手によくなじみ、周囲の漂白された景色に、その輪郭をより明確にしていた。
『森』との交戦を行う彼らに与えられた唯一の武装『浸透捕食型断神経性伐具』
人に寄生し、発芽するその様から—通称『ヤドリギ』。
その機能は三つである。
一つ、敵性体との戦闘による恐怖、単独任務や『監視塔』からの遮断による恐怖といった心理的障害を補い、闘争本能を向上させるための自律調整機能。
二つ、持つものを『森』による『被侵略者』から、『伐採者』へと転換するための、『加害のイメージ』の具現化である。強力な再生能力を持つ『漂白樹』の生物に対するほぼ唯一の有効な武装こそが、この『ヤドリギ』であった。
今まさにその喉笛をかみ切ろうと波のように殺到する生物の波を、二筋の斧がないだ。
殺到していた白色の獣は、刃に触れたそばから動きを止め、その場にぐにゃりと崩れ落ちた。つながれた電源コードから解放されたロボットのように。
ジャックの持つ斧の刃は瞬間的に太刀筋上の細胞を捕食し、その断面を出血もなく癒着させる。神経のつなぎ目を狂わされた生物は再生を阻害されるとともに例外なく活動を停止した。抜き出されたその1ページのためだけに、書物の内容は大きく損なわれるのだ。
装飾はなく、柄と刃のみで構成された遊びのない機能的な作りだ。しかし刃の長さは一般的なそれとは比較にならぬほど長く、持ち手を守るようにアーチ状に覆っている。異様に長い刃渡りは大量に襲い掛かる生物たちを薙ぎ払う動作には最適だった。
ジャックは『森』による猛攻の第一波を軽々としのぐ。しかしその屍を乗り越えて、また新たな生物が青年に襲い掛かっていく。
攻防と表現するのもためらわれる、森林の一方的な「排除」と、青年の一方的な「伐採」は続いた。攻守が変更されることのない膠着状態。しかし、伐採される命の数は増えていく一方だ。もともとつるりとした地面と巨樹のみで構成されていた空白のサークルに生物の残骸が山のように折り重なっているのは、その暴力的な履歴だ。
哀れな生物たちの骸を前にして、手斧達はわなないた。足下に積もる死骸の山を悼むようにも、狩りを終えた後の喜びを隠しあぐねているようにも見えた。
斧と死体。親和性を見出すには血なまぐさい連想を経る必要のある二つの事物を物理的に結びつけることを、青年は決めたようであった。
彼は手斧の刃先を足元に積もる残骸のうちの一つにさくりと突き刺す。
それは奇妙な光景だった。残骸が、斧の刃先へと吸収され始めたのである。
ジャックの持つ『ヤドリギ』の真価が、発揮されようとしていた。
どくり、どくり。
波打ちながら青年の斧は死骸の吸収を続け、血液が供給された筋肉のように肥大化していく。足元の残骸はスープがすすられるように、ものの数秒で姿を消した。
隆起した黒い二振りの手斧は、青年がそれぞれの刃の峰を合わせると、もともと一つの物であったようにぴたりと吸い付いた。
柄は太く、刃は厚い。青年の身丈の二倍はあろうかという大きさに「成長」したそれは、まさしく漆黒の大斧であった。おとぎ話の巨人が持つような、その重さと握る者の膂力こそが破壊力へと直結する、破壊の為の道具であった。
大仰な武器を手にしながら、『伐採者』ジャックはあくまで事務的に宣言する。
「『伐採者』の権限に基づき、『カエデ』の伐採を開始する」
サークル内を縦横無尽に駆け手斧をふるっていた時とは一転、青年は猛然一直線に大樹へと走り出す。
森が再び総毛立った。『森』の生物たちはそれまでとは比べ物にならないほどの規模を以って、各々の器官の特長を最高効率に発揮しながら走り出し、飛び立ち、地面をはい始めた。
目標は大斧を持った青年。森の白さに染まり切らない異物、その一点のみ。
生物群の波濤が青年の影を飲み込むまさにその直前、斧が大樹を打つ。
甲高さと重厚感を併せ持った、金属質な破壊音が周囲に木霊す。青年を牙にかけようとしていた生物群は、斧が大樹に打ち込まれたその瞬間、金縛りにあったように動きを止めた。青年はその瞬間を見逃すことなく、初撃にできた傷口に向かい、斧を繰り返し叩き込む。
二撃、三撃、四撃。
大樹は抵抗するかのように幹を硬質化させるが、青年の勢いと斧の鋭さが損なわれることはなかった。大樹の裂け目は瞬く間に広がっていく。痛みをこらえあぐねた怪物が、叫びをあげるように。
最後の一撃が加えられ、侍従を支えきれなくなった『カエデ』の倒壊が始まった。
彼のルーティンの一部とはいえ、命のやり取りには違いない。ジャックが安堵のため息を吐き出そうとした瞬間—。
『カエデ』は吠えた。
『『『『除け!喰らえ!奪え!』』』』
木こりの青年が耳にしたのは人ならざるものが発するはずがない、怨嗟の声だった。
めきめき、ばきばきと凄まじい音ともに倒壊しながら、『カエデ』は吠えた。
叫びとも、ましてや意味を持った言葉として耳に届いたわけでもない。しかし青年の心は理解している。
―動けない!
青年の斧を持つ手は震え、冷汗が体中をびっしりと覆っている。これまで受けたことのない感情が、青年の精神を支配しようとしていた。
殺意である。
これまで、いくら森の危険にさらされようとも、青年は「伐る」側であり、森は「伐られる」側の存在であった。これまで『森』が彼を攻撃しようとするのはただの異物の排除のためであり、青年が樹を伐るのは、それが『命題』の一部であるからだった。そこに本来、殺意は不要だった。
しかし今、死にゆこうとする目の前の『樹』は、何らかの手段でもってジャックを殺そうとしている。それも明確に、彼を憎み、妬み、恨んだうえでの殺人を犯そうとしているのだ。
人を殺すことのできる存在を、彼は一つしか知らなかった。
「人間なのか?」
—人間? 目の前の真っ白な樹の化け物が? なんて馬鹿馬鹿しい問いだ。
彼は自身の問いを心から嘲った。
迅速にもう一撃を加え、『樹』の息の根を完全に止めるべきであることは理解している。しかし、『命題』が彼にそれを許さない。彼は樹を伐るものであって、人を斬るようにできていないのだ。
『脱命条件』、それを「行わないこと」によって『監視塔』が『植木鉢』の住民として認めるための条件。
『『命題』の放棄』、『自己保存の放棄』、『殺人』
中でも『殺人』は、他の二つの命題にも同時に抵触する。そのため殺意を持った段階で本来『機能』からの強烈な制止がなされるはずだった。そしていまだかつてそれを振り切った人間はいない。
ゆえに、この世に『殺人犯』はいないのだ。
しかし、禁止されているということは、『可能である』ことにほかならない。
『人』には本来、『その機能』が備わっていると、明言されているということに他ならない。
青年の言葉を肯定し、嘲笑うかのようだった。
細かな繊維がより集まって糸をなすがごとく、『声』は徐々に収束していく。
『よクも』
『僕ーあたしー俺ー私ー我々ノ!』
『上に立てタもノダ!』
『踏みにジれたモのだ!』
『見下ロセタモのだ!』
「クソっ、スパイクが聞いていたのは」
―「カエデ」は「うるさすぎる」。
「『これ』か!」
呆気にとられていたジャックは、背後からの殴打に気づかなかった。
吹き飛ばされ、ゴロゴロと転がる彼の視界に、人型のシルエットが映りこむ。
その人影を中心として、つい先ほどまで樹への攻撃で動きを止めていた生物群がより集まり始めた。
ぐちゃり、ぐちゃり。
それら互いには境界をなくして溶け合い、しかし確かに新たな輪郭を形作っていく。足元から積みあがるように続く融合と成型は、「それ」の体高が10mをこしてもなお続いた。
ジャックの前に立ち上がったものを一言で表すならば、『首を無くした巨人』であった。
十数メートルに及ぼうかという巨躯は、歩行するだけで足元の青年の命を脅かし、剛腕の一撃はあらゆるものを粉砕せしめるだろう。
青年はその事実を理解していた。
暴、と巨人は剛腕を振り上げる。
青年の死は、コンマ数秒後に確定しようとしている。
ほぼ確実な死もたらすだろう横撃を前にして、青年の脳は思考でもって恐怖を薙ぎ払った。命に手をかけられること自体は、彼にとって珍しいことではない。
歴戦の木こりである彼が思考をやめる時はすなわち死を迎えたときだけだった。
―腕の一撃。あのリーチだ、俺の強化された脚力でも、おそらくかわし切れない。斧で撃ち合うか?そのまま吹き飛ばされるのが関の山だ。ならば。
青年はあえて前に跳びこんだ。狙いは踏み出された巨人の右足。腕の一撃が少年をとらえるその前に、最も荷重のかかる部分にダメージを与える。勢いを殺すことはできないが、バランスを失った一撃は青年のわずか頭上を掠めるだろう。その後のことは―。
「後で考える!」
彼の見立てが正確に実行されたなら、巨人の一撃をかろうじてかわすこともかなっただろう。しかし。
ぼこり。
巨人の体表に、泡のように浮かび上がったのは―。
『お兄ちゃん!』
―ああ最悪だ。
『嫌だ、やだやだ死にたくない!』涙まで流して、その顔が再現していたのは弟—ジョンの死にざまだった。
―一瞬でもお前のことなんて。
「思い出したくなかった!」
新しく青年の胸中を支配した後悔は、致命の一撃を呼び込んだ。自らの悪手に悪態をつく暇もなく、迫りくる大腕の威力を相殺すべく斧を構えるも無駄なあがきであった。
青年の身体が木の葉のごとく宙に舞う。衝撃を真っ向から受け止めた大斧は折れ砕け、持つ右腕は肩口からちぎれとび、鮮血が飛び散る。
しかしそれを目の当たりにすることすらなく青年の意識はあっけなくホワイトアウトする。
彼の意識がその輪郭を失う直前—。
ちょきん。
『介入』
鋏の鳴る音を聞いた。




