『母娘』
「aaaa a a aa aaaaa -—ああ」
ユズリハの鼻先で絶叫は嗚咽へ、そして次第に長いため息へと変化してゆく。
『ムスペル』の短く、しかし激しい行進は終わりを迎えようとしているのだ。ユズリハは目の前で崩れゆく複製体に、ジャックの成功を悟る。
「やってくれたんだね、ジャック」
身体の崩壊は下半身にまで及び立っていられなくなったのか、複製体はユズリハの前に跪くようにしてうなだれている。そこに炎をまき散らす災厄としての面影はない。自身を燃やす炎を断たれ、進むための脚も既に形を失っている。後は消えゆくのみとなった無貌の人型はただ黙したまま、自身の終わりを受け入れていた。
「お母さん」
ユズリハの声に、腕を失った肩がぴくりと反応する。
「ねえ、お母さんなんでしょう」
「———」
「あたしのことあれだけ呼んでおいて、それってないよ」
人型はその問いに答えることなく、うなだれたままでいる。
「お母さんがいなくなってから、とっても寂しかった。家の中に穴が開いたようで、みんなで食べていたご飯も———なんだか少し、美味しくなくなって」
「そういえばジャックも、そんなことを言っていたっけ。シャロンはだんまりけど、強がってるだけだよ、きっと」
「みんな、お母さんにいなくなって欲しくなかった。ずっとは無理でも、もっと一緒にいたかった」
—私は生きてると、そう伝えたかっただけなのに。こんな責めるような言い方はしたくないのに。だけど。
一言紡ぐごとに、少女の視界はぼやけ、熱を持ち始めている。涙を押しとどめることは難しいことだっ
た。東居住区で『イチョウ』と戦うよりも、『水母』の中に潜航するよりも。しかし、彼女は今のところ一粒の涙もこぼさなかった。
「何で、なんで、私のそばにいてくれなかったの—お母さん!」
観念したように、人型は歪な口を開いた。しわがれてこそいるが、ユズリハにとってはあまりに聞きなれたものだ。
リージア—『脱命』し、死亡したはずの、母親の声。
「あ—わ、私は、怖かった。あんたたち四人が失われることが。私は、その『恐怖』に負けたの。あの男は—『緑』は、私の恐れを見抜いていた」
「失われる……私たち、四人が?」
「そう、私が失うんじゃない。あんたたちが失われる未来、それだけは絶対に避けねばならなかった。他のどんな犠牲を払おうとも—」
「どういうこと? シャロンと、ジャックと、私と—もう一人って誰のこと?」
無貌の人型はユズリハの疑問など意に介していないかのように、懐かしげな声を上げた。
「ああ—そこにいたのか『黄』」
視線を動かすように身じろぎする。無貌のものではあるが、その視線がもはや自身に向けられていないことはユズリハにも分かっていた。
―『黄』?
ユズリハはリージアが見つめているだろう先を振り返るが、そこには影も形もない。
「誰と—話してるの?」
「君の言葉をないがしろにするつもりはなかったんだけど—人の親としての性というものかもしれない」
「お母さん!」
『生成』
場面を唐突に切り替えられたように、彼女は見覚えのない部屋の中にいた。開け放たれた窓からは太陽の金色の光が注いでいる。久しぶりに見る太陽の光に目を細める。木製で揃えられたシンプルな調度品に、後方にはドアが一つ。豊かな陽光の、昼間のそれと異なる寂しさに、ユズリハは推測する。
―これは、黄昏時というものだろうか。
「背伸びたね、ユズリハ」
ユズリハの背後から、腕がやさしく回される。懐かしい匂いだった。
驚きはしない。なぜなら、それは五年前まで当たり前にあったものだったから。今も、当たり前にあるはずのものだったから。にじむ視界の隅に、自分のものではない鮮やかな赤毛が揺れるのを認める。
「うん。そうだよ、そうなんだよ。お母さん」
それは彼女が長らく忘れていた感覚だった。頬をくすぐる母のふわふわとした赤毛、柔らかい洗剤のにおい。母親が隣にいるという感覚。母は娘の頭に手を置いて言った。
「本当に、大きくなった。しゃがまなければ触れなかったあんたの頬は、今や目の前にある。多分、あんたはいろんなことを乗り越えてきたんだろう」
「わからない。一生懸命何かをよじ登っていたような気もするし、急な坂道を転ばないように駆け下りていただけかもしれない」
「多分それは同じこと。あんたは前に進んでいたんだ。成長したんだ」
「そうなのかな」
「現に、あんたは私を止めて、『イチョウ』を切り倒してくれた」
「私だけじゃない。シャロンが考えてくれた。ニアさんが頑張ってくれた。『イチョウ』はニアさんの友達が切り倒してくれた。ジャックが母さんを―殺してくれた。あたしは、『水母』の声を聴いただけ」
「「あれ」の声が聞こえたのか。なるほど、道理で―」
ほんの短い時間、リージアの視線が部屋の隅に向いたような気がした。
「お母さん?」
「いいや、何でもない。―それでもあんたは確かに自分の『命題』を果たした」
「『命題』」
「そう、あたしが守り切れなかった、『植木鉢』に住むものとしての宿命だ」
リージアの表情に、微量に硬さが含まれていくのを感じる。誰に知られるともない水たまりが、氷点下の夜のうちに固まってゆくように。母親を凍り付かせまいと、ユズリハは言った。
「教えて。あの日、お母さんに何があったの?」
「何が起きたのか説明するにはあの子―ジャックがやってきたあの日までさかのぼらなくっちゃならない。覚えているかい? 『降流』の諱を与えられた『漂白樹』を」
ユズリハは頷いた。
「『監視塔』が教えてくれた。人的被害は史上最悪だったって」
「本当にはた迷惑なやつでね、『水母』を傷つけやがった。『植木鉢』にすむ私たちにとって文字通りの意味での隠れ蓑を、生命線をだ」
『サンゴジュ』。八年前に出現した、自然現象の範囲をはるかに逸脱した、凄まじい下降気流を生み出し続ける特質個体。気流によって巻き上がった硬質で鋭利な葉によって、『伐採者』にも多くの死者を出した。
「『『首無し(ヘッドレス)』の生産、並びに記録の管理及び分析』。あんたもよく知る『育種家』としての『命題』だ。私は損傷程度を確かめるために、『水母』にアクセスした」
「私と、同じ」
リージアは頷き、尋ねた。
「どんな感触だった? ほかの『首無し』とはずいぶんと勝手が違ったはずだ」
「うん、冷たくて―昏い水の中を漂っているような感じだった」
「クラゲには脳がないからな。記録がこのバカでかい全身に散らばっている―いや、希釈されているといったほうがいいかな。奇妙な体験だったろう」
「ただのぞき込んでも見えなくて、ただ光の点がちかちかするばかりで―」
「一歩引いたところから覗き込むようにしなくてはならなかった―でしょ?」
「―うん」
ユズリハは微笑んだ。
会話は調子こそ淡々としたものであったが、母娘にとっては、五年という長い時間を埋めるための慎重な作業だった。真剣に地面を見つめ、母親の足跡をたどりながら恐る恐る歩く娘を肩越しに見守るかのように。
「『サンゴジュ』の発生地点は『植木鉢』にほど近くてね、その損傷具合はひどいもんだった。『水母』はもちろん精一杯身をくねらせて再生していたけれど、そう一朝一夕にふさがるとは思えなかった。もしちょっとでも『森』が侵入し始めようものならそれこそ『植木鉢』はおしまいだ。私は『水母』の損傷の全貌を把握するために、より深くに潜った」
ユズリハは我慢できない、というように尋ねる。
「私―私、そこで声を聴いたの。私にはこう聞こえた。『おとうさん』って」
「―」
「あたしが聞いたのは誰の声―お母さんも聞いたんでしょう?」
「その声を境にして、彼女は私の前に現れるようになった」
そういって、リージアはユズリハの背後を指した。
「―!」
叫びだしそうになる己の喉を、少女は何とか抑え込んだ。
「『黄』。それが彼女の名前だ」
黄昏の陽光が差し込み、親子が語らう白塗りの簡素な部屋。その部屋の隅には、まるで調度品のようにして人影が立っていた。頭部を失った巫女装束姿から、女性であろうという推測しかできない。身じろぎもしない。指にはまる黄玉の指輪だけが唯一、きらきらと物理法則に渋々従うかのように陽光を反射させている。
人影はただ彼らに体を向けているだけだ。聞いているのかも、見ているのかもうかがい知ることは不可能だった。
そして、窓の外に響く遠雷に気づいたのは、おそらく彼女だけだった。
かすかに、しかし確かに低くとどろく太鼓のようなその音色に。
遠雷の轟きは、徐々に近づきつつある。




