『大人と子供』:後編
夕日の差し込む室内でローレルと『イチョウ』の戦いを観察していたジャックは、傍らの少女に向き直り、しかとその眼を正面にとらえた。少女はしばらくその視線を受け止めたままでいたが、やがてため息を一つつくと、手にした枝切ばさみを鳴らした。
軽い音とともに、ジャックののど元を埋め尽くしていたリコリスが散る。ジャックは慎重に、声が出ることを確かめるように少女に尋ねた。
「いいの?」
「いいも悪いも、こんなことしなくたって、あんたはあたしに何一つできやしないのよ。何一つね」
ジャックは少女の言葉には答えなかったが、やがて思い出したように尋ねた。
「お姉さん、名前は?」
「どうするの? あたしの名前なんて聞いて」
「お願いするんだ。相手の名前も知らないで頼み事なんてできないでしょ」
意外そうな表情を浮かべた彼女は、手にした深紅の枝切ばさみをくるくると指先で器用に回しながら言った。
「お願い? あんたが何をお願いするっていうの」
「目覚めさせて。あそこに倒れている僕を」
ジャックは机の上の立体映像を指さした。その先には倒れる少年自身がいた。
「あの男を助けるつもり? あんたを背後から切り殺した男よ?」
「そうだとしても」
「助けた途端、また背後から切りつけられるかも。見たでしょう? あいつは『緑』と手を組んでるの。いずれ死ぬことになるわ」
「今僕が彼を助けない理由にはならない。それに、これ以上師匠に人を殺させたくない、家族に傷ついてほしくない。僕があそこに帰る手段はあるんでしょ? さっき言ってたよね—『あの木こりは別にして』って」
「ふーん。まあ、無理」
少女の返答はにべもない。
「どうして?」
「あんたがもういっぱいいっぱいだから」
—君、空っぽだね。要らないや。
『漂白域』での『緑』の言葉を思い出すが、それもはるか昔のことのように思えた。
「少し前にあの『緑』って男に全く反対の言葉を言われたんだけど」
「実にアイツらしい言葉。ガスマスク(あんなもの)をかぶった代償ね。一つの面しか見えちゃいないの」
「ねえ、僕を満たしているもの、あるいは抜け落ちたものっていったい何?」
少女は少し視線を落とし少し逡巡するようなそぶりを見せたが、やがてこう口にした。
「満たしているもの、それは人間であるための条件。抜け落ちてしまったもの、それは媒介者としての役割」
「何を言ってるのか分からない。—人間であるための条件? 媒介者としての役割?」
白斑に覆われた顔が表情を崩すことはない。しかしその声にわずかに困惑の色が混ざるのを、少女は聞き逃さなかった。その声が急速に温度を失ってゆく。
「おめでたいわね、のんきなものね。あなたは既にそれを経験しているはずなのに」
「—」
背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。
—さて、僕はパンドラの箱を開けたのか、それとも箱の中にいたのを自覚していなかっただけなのか。
少なくともその二択だろう、と彼は確信していた。少女は構わずつづけた。
「怒り、恐怖、憧憬、そして殺意という四種類の狂気。人間とは『これを宿していなければならない』と奴らが定めた、器としての条件。あんたはそれをすべて満たしている。」
白斑に覆われた右目を抑える。自分でもその行動の意味を理解できないまま。少女の語りは続く。その声は詰るようでいて、どこか痛ましい。
「なんで『監視塔』があんたを受け入れなかったのか、考えたことはない? あんたの記憶がなぜ虫食いだらけなのか、あんたの両手を染めていたあの赤い血がいったい誰のものなのか、考えたことはない?」
—考えたことはあるか、だって?
鼓動が加速する。心臓の音がこんなにうるさいのなら、いっそ彼女の声をかき消してほしいとさえ思った。
—僕が『植木鉢』にやってきてからの七年間、そればかり考えていたよ。僕はずっと後ろを向いていたんだ。僕が殺したのは一体どこの誰なのか、僕は彼らと一緒にいていい人間なのか。僕はどこからやってきたのか。でもそうしてもいられない。
—『過去からは逃げられない』。悪夢のたっぷり詰まった箱に貼られたラベルにはそう書いてある。
「分かってるよ」
何度も口にした言葉を、また口にする。
しかし消え入るような少年の言葉は少女の耳に届かない。
「この世界は既に十二回繰り返している。あんたは私に連れてこられた人間なのよ。十一回目の世界からね」
そして息をのむ。ここに来てから彼女が初めて見せる表情だった。
「そしてあんたが殺したのは—いえ、私が殺させた男の名は、ハウリー。あんたの父親だった男よ」
▼▼▼
シャロンの視界に、オレンジ色の光が無遠慮に飛び込んでくる。最も、そして二度と目にしたくなかった光が。それは『イチョウ』の発した炎の光。
—失敗した! 『イチョウ』の伐採には間に合わなかった。
彼は全身の力が抜けていくのを感じながらも、『馬』の背中に何とかしがみつき、思考を回転させる。
—次の策は? 他の『ヤドリギ』所持者全員で仕掛けるか? いや無理だ。『ムスペル』はまだ元気ピンピン、こっちに回せるだけの余裕はない。目の前の『ムスペル』たちを放置することは、彼らにはできない。『命題の放棄』に抵触する恐れがあるからだ。なら、 ニアを『イチョウ』への攻撃に参加させなかったのは判断ミスだったのか?
シャロンの必死の思考を否定する材料は、彼がひねり出すまでもなく際限なく湧き出してくる。思考が絶望に塗り替えられていくにつれて、『馬』は速度を落とし、やがて立ち止まった。
彼の頭に浮かぶのは敗北の二文字だ。『庭師』としての敗北、そして人類としての敗北。
「くそ、くそ、くそ!」
『馬』の背を拳で何度も殴りつける。
—ずっとそうだ。『監視塔』から『伐採者』の捕縛命令を受けてから、分からないことばかりだ。訳も分からず振り回される中で僕らは考えた、決意だってした。その結末がこれだって? 僕の家族が僕の眼の届かないところで死んでゆく。
「こんな話が—あって—たまるか!」
『馬』の背にマスクを押し付け叫ぶ。ペストマスクと瞼との間に、温かいものがにじんだ。
無念に沈む彼を引き戻したのは、聞き覚えのある男の声だった。
「まったく同感だよ。ガキが死ぬ物語にろくなもんはない—俺の知り合いの受け売りだがな。でもな、ここで泣き叫んだところで何も変わりはしねえのはお前も分かってるだろ」
「あんたは—」
顔をあげたシャロンは目の前の人影に一瞬警戒するも、丸腰の相手に敵意がないことを悟る。
隆々とした体躯に、マットブラックの防護服。そしてひときわ目を引くのは、無数のツタが絡み合って形成された純白の右腕だった。数日前に『漂白域』でであった『木こりのジャック(ランバージャック)』が、シャロンの眼前に立っていた。相も変わらず太い眉の間には深いしわが刻まれ、彼の強固な意志をこれでもかと主張していた。
自らに初黒星を刻み相棒の命を救った、目の前の元『伐採者』に、シャロンは皮肉を飛ばす。
「やっぱり生きてたんだね。まああそこで野垂れ死ぬほど、ひ弱には見えなかったけどさ」
しかしその舌鋒にもどこか覇気がない。
「なめんな、あれくらいで死ねるか」
「でも『植木鉢』は、人類はもう終わりだ—策はない。後は全部後手後手に回りながら、ゆっくりと『イチョウ』に浸食されてゆくのを待つだけさ、今更何しに来たの?」
「決まってんだろ、お前と同じだ。『イチョウ』をぶった切る」
どこか憮然とした表情で、ジャックは答えた。
「もう『伐採者』でもないあんた—が」
そう口にしたシャロンは息をのんだ。『監視塔』から『命題』を与えられずになお自身の決めた道を歩く相棒の姿を思い出したからだった。彼の内心を見透かしたかのように、ジャックは言った。
「そういうことだ。俺には俺のやることがある。お前もそうなんだろ?」
「だったら止まるな。お前に残ったものを守り切れ。失ったものを振り返る時間はない。そもそも、その趣味の悪いマスクじゃ前しか見えねえはずだ」
彼の乱暴な口調の中に、シャロンは真摯な響きを感じ取る。
「—ってる」
喉の奥に何かが詰まったように、うまく答えられなかった。消え入るようなシャロンの声に、ジャックはわざとらしく耳に手を当てて聞き返す。
「何だって?」
「分かってるよ! あんたに言われなくたってね!」
青年はわずかに口の端に笑みを浮かべた。
「そうかよ、じゃあさっさと行け」
「もちろんだ。喜んでそうするよ—。でも、一つだけ礼を言っておく。あの時、ジャックを助けてくれてありがとう」
「ジャック? —ああ、あの死神気取りのガキか—もののついでだ、礼を言われる筋合いはねえ」
顔をそらして否定する青年に、シャロンは続けて言った。
「それと—。死んじゃだめだよ。僕のマスクを趣味が悪いって言ったの、次あったときに訂正してもらわなくっちゃ」
「かわいげのねえ奴だ。—お前も死ぬな。俺の知り合いがへそを曲げるからな」
シャロンは彼の言葉に小さく頷きを返すと、『馬』を再びユズリハの方角へ向けた。その速力に今やためらいがないことを確認したジャックは、『森』中心部にわななく『イチョウ』へ視線を移した。
—『火災』の特質が復活している。しかし『森』の気配が中心に集まってきてるということは、『イチョウ』自身もそう余裕はないってことだ。どこの誰かは知らねえが伐採は続いている。特質個体相手に、相当の使い手だ。
ジャックは現在の戦況を分析する。
だがおそらく「一手」足りねえ。
「マルン、悪いが無理な話だった。『何もするな』ってのは」
ジャックは種を自身の右腕に突き刺した。すでに大斧の形となった『ヤドリギ』が、手中に発芽する。その巨大な刃には、純白のラインが走っていた。




