『大人と子供』:中編
『イチョウ』の特質は、その力を取り戻しつつあった。『水母』から放出された洪水に押し流された枝には、再び葉が芽吹き実が膨らみ始めている。
そして『ムスペル』の複製体を喰らい強化してなお、ローレルの大鉈は『イチョウ』の幹を伐り倒すには至っていなかった。彼は唇をかみしめつぶやく。
「届かないか…!」
やはり通常の『漂白樹』とはあまりにかけ離れている。『森』の生物による攻撃のリソースを、漂白樹本体の防御のための硬質化と回復にあてているのだ。だが無傷ではない。ローレルの大鉈は確実にダメージを蓄積させていた。しかし、なまじダメージが通るがゆえに、伐採に必要な残り時間を意識させられる。
—間に合わない。いずれ『火災』の特質が復活する。そうなれば今度こそ打つ手がない。
濁った色の感情がローレルの胸中を支配してゆく。
—『緑』と名乗るあの怪人に協力したのは何のためだ? 俺があの少年を背中から切りつけたのは何のためだ? 他人の命を差し出して、そして自らの手で命を奪ってなお、俺が目の前の『イチョウ(こいつ)』に立ち向かわねばならない理由は一体何だ?
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—十年前『サンゴジュ』が伐採されたあの場所。俺が敗北した、喪失したあの白い森に吹き荒れていた突風は、凄まじい金属音を契機とするかのように唐突に止んだ。
『伐採者』としての自負はあった。しかし研鑽を積んだ彼の鉈を容易にはじく『サンゴジュ』は、そんなことはお構いなしに彼の自負をへし折り、さらに彼の後継者までも奪っていった。
こういう時、人は泣き叫ばないものだとローレルは意外な事実を発見した。肉親を失う悲しみを飲み込むほどに、彼は自らの命が助かったことに対し安堵していたのだ。失禁さえしている自分に情けなさや怒りを感じるよりも前に。
突然吹き止んだ風に当惑を隠しきれぬかのようにひらひらと舞い続ける白い落葉の向こうに、『緑』と名乗るガスマスクの怪人は現れた。
娘の亡骸を抱えうなだれるローレルに『緑』はこう言った。
「オッサン、あんただからいいんだ。—なーんにも守れなかった、空っぽのあんただから」
珍しい昆虫でも見つけたような、無邪気ささえ感じる声だった。
「空っぽになった人間にもぐりこむものをなんて呼ぶか知ってるかい? ああ、『欲望』なんて大したもんじゃない。『妥協』さ。相手が強大だったから、矮小な自分には何もできなかったから。手段は選ばない、いや選ぶ必要がない—ってね」
『緑』の持論に、ローレルはかすかな声で返答した。
「俺には関係ない。手段は目的に先行しない」
「だから、その目的を与えてやろうって言ってるんだ。あんたの娘を取り返す手伝いをしてやる代わりに僕に手を貸してもらうよ」
「この子を—」
ゆっくりと見上げるローレルを、『緑』は手で静止した。
「希望なんて持たない方がいい。僕は僕の目的のためにあんたを利用するだけ。恵まれないあんたのために寄付するわけじゃあない」
くくく、とガスマスクの裏からくぐもった笑い声を発して続ける。
「あんたはこれからその『妥協』に少しずつ残った中身を食われながら生きていくんだ。そしてそれはいずれあんた自身になる。寄生したセミを食い尽くした冬虫夏草みたいにね。そうなったあんたが螺旋の一つ向こう側にたどり着く可能性はゼロに等しい。それでもやるかい?」
『緑』が差しだした手を、ローレルはしっかりと握りしめた。
「」
ガスマスクの怪人が、笑顔を浮かべたのをはっきりと感じ取れた。
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大鉈を右手に持ち換えたローレルが、あいた左手で防護服のホルスターから引き抜いたのは新たな『ヤドリギ』の種だった。しかし、その色は通常とは異なり、『漂白樹』のごとき純白である。
ローレルは血だまりに倒れるジャックの体に種を突き刺した。純白の種が、ジャックの死にゆく体から『加害のイメージ』を読み取ってゆく。
幼い子供を手にかけ、その死体をも利用する己に、彼は自嘲の笑みを浮かべる。
—底なしの泥沼に、半身を突っ込んでいるみたいだ。抜け出そうと水面に手をついても、今度は両手が沈んでいく。何とか手を引っ張りぬいても、身体はより深みにはまっている。だけど、もがかぬことには命はない。
沼のほとりには、『緑』が餌をちらつかせながら口笛を吹いている。その顔面にたたきつけるようにローレルは言葉を絞り出す。
「俺は手段を択ばない。薄汚くても歪んでいても、俺にとっては希望だ」
種を突き刺されたジャックの体から、純白のツタが放たれる。
「—悪いが少年、君の『鎌』を借り受ける」
ローレルの大鉈に、白いラインが這う様にまとわりついてゆく。
「うまくいったうまくいった! あの『斥候』のおじさんからもらった『ヤドリギ』が無駄にならなくてよかったよ」
その様を遠巻きに眺めていた『緑』は、愉快そうに笑った。
「その子は証明書であり鏡だ。ぜひとも耐え抜いてくれ! 自分がいったい何と手を組んだのか、これからどんな道筋をたどるのか、目に焼き付けるんだ!」
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『馬』の後部に気を失ったニアを乗せ、シャロンは『森』を走っていた。
『植木鉢』の天面を切り飛ばした『伐採者』の少女は意識を失っていた。彼女を運搬していた『飛蝗』の大部分は既に火炎と『水母』からの洪水に飲み込まれ、彼女を再び安全地帯に運ぶほどの数を残すには至らなかった。シャロンは脚の負傷を押しながらも、新たな『馬』によって回収したのだ。
彼らの命を救い、『イチョウ』伐採への糸口を切り開いた彼女を無事に送り届けること。その成否は『首無し(ヘッドレス)』の操作によって誰よりも多くの視界を持ち、誰よりも広い範囲への影響力を持つ『指輪』使いとしての自負にも関わることだった。
「生きていてくれ…!」
シャロンはうめき声をあげずにはいられなかった。しかし、その声は背後のニアに向けられたものではない。
彼の家族二人に向けられたものだ。
その原因の一つは上空に放った『首無し(ヘッドレス)』から伝えられた情報にあった。『イチョウ』周辺に立ち込める、濃い銀灰色の霧。それが指し示す事実はただ一つである。
—あそこに来ているんだ、あの男が。『緑』と名乗るあの怪人が。
あの日『カエデ』の森で、ガスマスクの双眸から相棒に向かって放たれた、あの昆虫的な視線を思い出す。
—あれはいわゆる殺気ではない。ただ必要ないと、邪魔だと思っただけだ。部屋を飛び回る蠅に殺虫剤を吹きかけるのと同じだ。もちろんジャックは強い。しかし強いだけでは、ヤツに太刀打ちできない。息の根を止めるまで、徹底的にやらなくては。
そこに思考が至った瞬間、シャロンの脳が、ぐったりと重くなる。
—『監視塔』による『脱命』条件の—殺人への思考の制限か。
「僕らへのバックアップは早々に切り上げたくせに、思考制限にかける余力は有り余ってるようじゃないか」
『監視塔』へ悪態をつく。
「心配しなくても、そんなことさせるもんか。もう二度と、させるもんか」
『ムスペル』が見せた異常な挙動も、シャロンの懸念を加速させた。
『イチョウ』の炎が消火された直後、『ムスペル』の複製体は一瞬その動きを止めるも、すぐに行進を再開させた。一瞬であれ「動きを止めた」事実は、ジャックから『ムスペル』本体への働きかけによるものと考えるのが自然だ。
それが再び活動を開始した。初期は四方八方に散らばっていた『ムスペル』の複製体そのすべてが、突然向きを変え、特定の方角へ向けて行進を始めたのだ。恐怖の咆哮をあげながら。『首無し』がもたらした情報から予測される方角にあるのは『監視塔』でも、『イチョウ』でもなかった。『植木鉢』外縁部、つまり『水母』を解析するためにユズリハを置いてきた場所だった。
シャロンの脳裏に最悪の光景が浮かぶ。
濃霧の向こうに倒れるジャックと、それを見下ろすガスマスクの男。無数の人型に飲み込まれるユズリハの姿。
シャロンは頭を振って不吉なイメージを追い払った。
呼気が冷たくなるのを感じる。自分の一挙手一投足こそが、文字通り彼らの生命を左右するのだ。自身の力不足を痛感しながらも、彼はこう声をあげずにはいられなかった。
「まだか、『イチョウ』の伐採は!」
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ジャックの『加害のイメージ』を読み取ったローレルの額には、びっしりと冷汗が浮かんでいた。吐息交じりの声を何とか絞り出す。
「少年、これは同情じゃない」
ローレルの周囲の空気が、熱を持ち始めている。落葉にはぽつぽつと火が灯り始めている。『火災』の特質が復活を始めた。しかし彼はその歩みを止めることなく、『イチョウ』へ近づいてゆく。
壮年の『伐採者』は何とも自分勝手な物言いだと自覚しながら、口にせざるを得なかった。
「手向けみたいなもんだ。こんな形でしかできないが」
彼の手にした大鉈に走った純白のラインからは、泡のような純白の物体がぷくぷくと沸き立った。それらはより集まり、薄く、鋭く、やがて大きな三日月形の鎌刃を形成した。その数十三。鉈の周りを衛星のように浮遊している。
白い種によって読み取られた、ジャックの『加害のイメージ』が上乗せされたローレルの大鉈を前にしてなお、『イチョウ』はその傲岸不遜な立ち姿を崩さない。『森』の生物による攻撃をせず、己の回復と幹の硬質化にその力を回している。『イチョウ』は目の前の『伐採者』を、いまだ脅威ではないと判断しているようだ。
ローレルは大鉈を振りかぶり、渾身の力で幹に打ち込んだ。
幹に大鉈の刃が大きく食い込むが—切断には至らない。『イチョウ』がその身の非力さをあざ笑うかのように身を震わせると、その純白の樹体は一斉に炎に包まれた。先ほどの比ではないその火勢は伐採者一人など容易に焼き尽くす。
その時間があれば、だが。
轟音が響き渡る。『イチョウ』の幹の全方位から、十三の純白の鎌が突き立てられたのだ。
その様を『緑』は霧の中から観察していた。
—『加害のイメージ』の読解と上乗せ。オリジナルの『巨人の腕』ほどではないけど、十分みたいだね。
純白の鎌は超高速で回転しながら、幹をごりごりと削り取ってゆく。
「俺の『ヤドリギ』は切断は得意だが、大斧のような固い幹を破壊するだけの強度と重さはない。線鋸のような射程もない。ならば—手数をふやすだけさね!」
『イチョウ』はそこで初めて、自身に伐採者の刃が迫っていることを知る。その葉はざわざわと沸き立ち、自身の回復へ回していたリソースを、『森』の生物に回す。『イチョウ』を取り囲む周囲の木立から、純白の生物群が殺到する。しかし。
「悪手だ、『漂白樹』! お前はその炎で俺を焼くべきだった!」
その声は、自らへの断罪を望んでいるかのようでもあった。
—あと少し。後数十センチ、それでこの戦いにケリが付く。さんざんっぱら利用して悪いが、君には感謝するよ、少年。この戦いだけじゃあない、君のおかげで俺はこの泥沼の中だろうと歩いてゆける。胸を張ることはできなくても、前を向くことはできる。
「これで、あの子の未来は—」
『緑』が目の前にぶら下げた可能性を幻視して、彼は『ヤドリギ』を握る手に力を込める。
どすりと起こった背後からの不意の衝撃に、ローレルの体が揺れる。
「—?」
胸からにょっきりと生えているのは、純白の右手だった。その持ち主は、急造の声帯からしゃがれた声を絞り出す。
「じャ—あ—ジャっく」
『ムスペル』の姿がそこにはあった。




