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『大人と子供』:前編

 向かい合うジャックと『ムスペル』。その間には銀灰色の霧が立ち込め始めていた。それにジャックが気づいたのは、伝令用の『蜻蛉(ドラゴンフライ)』が激しく痙攣しながら地に落ちたからだった。


『あァ、ああああ』


 ムスペルもまた、身を震わせてしゃがみこむ。

 —やっぱり、来たか。

 呼吸を止め、その場を離脱する。一時的に消し止められているとはいえ『イチョウ』の熱が生んだ強い気流は、霧の滞留を局所的なものにしているようだった。

「感動の再会ってやつなんだろうね、きっと。はた目にはそこまで心温まる光景には見えないけど」

 予想通りの男の声が庭師の少年に投げかけられた。軽薄でいてどこか機械的な声。『カエデ』の切り株で遭遇したガスマスクの怪人の名を口にする。


「『(リディス)』—」


「まさか覚えてくれていたとは! まこと光栄だよ、ジャック・ザ・リーパー。『ムスペル』を止めに入るなら、まあ君だろうと思っていたよ」


 大手を広げて大げさに礼をする姿に向かって、鎌の刃先を向ける。

「あれ、あの『指輪(ソロモンズ・リング)』の彼はどこ行ったの? —死んだ?」

(リディス)』の言葉を無視してジャックは語気を強める。


「『イチョウ』を呼び寄せたのはあんたか、『(リディス)』」

「んー、そうとも言えるし、そうでないともいえる」

「ふざけるな—いったい何人の人々が命を落としたと思ってるんだ」


 少年の口調は淡々としている。しかしそのあまりに平坦な調子が怒りの抑制によって生まれたものだと、目の前の怪人は看破しているようだった。飄々とした口調を崩さずに、『(リディス)』はジャックを嘲弄した。


「さあね。『監視塔(ウォッチタワー)』に聞いてみれば? —ああそうだった、君『機能』を使えないんだっけ」 

「話を逸らすなよ、さっさと目的をしゃべるんだ。ここは前みたいな三つ巴の戦いじゃない。『ムスペル』は複製体を産めず、直に他の『ヤドリギ』保持者もやってくる。追い詰められているのはあんたの方だ」


「強がるなよ。確かに長期的に見ればそうかもしれないが、今のところ、君の周りは敵だらけだぜ?」

 ぞわり、と毒虫が背中を這うような感触が、ジャックの背中に走った。


 ほとんど反射的に、ムスペルが作り出した泉に目を向ける。白い水面から突き出している複製体の、『ヤドリギ』による毒に痙攣していたはずの手足が震えを止めていた。

 もし複製体の傷口を細部まで見ることがかなったなら、彼は自身の『ヤドリギ』の破片が、別の破片に食われている様を目にしただろう。彼はその光景を視覚ではなく鎌から伝わるイメージとして受け取った。


 —侵食されている。


「何を—」


 ジャックの背に衝撃が走る。それは次第に線をなし、熱を持ち始めた。熱く、どろりとした液体がジャックの背を流れ落ちる。

 —しくじった。

 —ごめん。

 ジャックの意識がホワイトアウトする。


「悪いけど、まだ『ムスペル』を消されると困るんだ」

 策にはめた達成感などみじんもあらわさずに機械的に独り言ちながら、『(リディス)』は動かなくなったジャックを見下ろすと傍らに立つ男に問うた。


「僕が言うのも何なんだけどさ—本当に良かったわけ?」

「—」

「何とか言えよ、オッサン」


 『(リディス)』の声が低くなる。無形のじっとりとしたいら立ちが含まれているのが、男にも感じ取れた。


「—」

 それでもなお貝のように黙ったままの男に、はあ、とため息をつくと、『(リディス)』は言った。

「一つ予言してあげる。多分いい死に方できないよ、オッサン。幸せになろうなんざもってのほか。この物語がバッドエンドに続こうがハッピーエンドに続こうが、あんたはその踏み台が関の山—自分でもわかるだろ? あんたが今、どんな文脈にいるのか」

「生憎本を読む趣味はないのでね」

「今からでもお勧めするよ。物語は越境を体験するには手軽な手段だ。ただの活字に過ぎなかろうが紛れのない一つの世界さ。そこに生きる人物は生きている。そこに僕らとの違いなんて存在しない」

 『(リディス)』は三日三晩砂漠を歩いた旅人のように乾いた男の声には何ら関心を示さず、淡々と返答する。そして、こう付け加えた。

「ただ、生きる場所が違うだけさ。誰かの脳髄の中に生まれた活字の中に生きるのか、原子の海の中に生まれた塊として生きるのか」

「それを考える余裕は今の俺にはない。俺は自分の仕事をしなくては」

「どうぞ、ご自由に。勤め人はそういう時つらいよね」

「—」

 黙って背中を向けるの男に『(リディス)』はふん、と鼻を鳴らした。。

「そういう大人にはなりたくないよね」


 煙に消えた『(リディス)』を尻目に、男は泉の中の複製体の一つに近づくと、手にした得物を突き刺し、その把手に意思を送った。


 どくり、どくり。

 生物的な脈動とともに、純白の体が吸い込まれる。

 その『伐採者(ランバージャック)』は二丁の(ウッドマンズ・パル)を連結した。

 把手は太く、刃は大きく分厚くなった大鉈は、傍目には飾り気のない大剣として映るだろう。今となっては、先端に残された鈎状の刃がわずかにその名残を残しているに過ぎない。


「少年、君との約束は守れない。すまないな。こんな大人で」


 『伐採者(ランバージャック)』の言葉は、彼が先ほど切り捨てた少年に向けられたもののようだった。

 ローレルは大鉈を上段に振りかぶり、目の前に立ちはだかる『イチョウ』に相対し告げた。

「それはそうと、お前は伐らせてもらう。最後の家族サービスってやつさね」

▽▽▽

「ようやく来たのね」


 凛と涼やかな少女の声が響く。

「本当にしぶとい子。あの男に目を付けられていたから、もうちょっと早いかと思っていたけど」


 染み一つない真っ白な素材でできた部屋だった。簡素な木製のテーブルと椅子、そして木枠の簡素だが大きな窓。そこからは赤い夕焼けの光がたっぷりと射しこんでいる。まぶしさにすがめた目から、ジャックは自分に語り掛ける声の主を見た。


 滑らかな白い長髪が、うなじを経由してシンプルな赤色のワンピースにかかっている。右手の中指には指輪がはまっていた。そのシンプルなデザインはあしらわれた大粒の赤玉(ルビー)を際立たせている。しかし何よりジャックの目を引いたのは、彼女が握る深紅の枝切ばさみだった。


 ここはどこだ。ジャックの発した疑問は、声にならなかった。

 喉を覆う妙な感覚に、彼は顎を引いて確かめる。

 彼の声帯があるべき場所からは、真っ赤な大量のリコリスが、開いた傷口のように顔をのぞかせていた。

 —何者だ、この子

 息をのみ少女をにらみつける。その様を見て、少女は驚きを口にした。

「あんた、私のこと覚えてないの? —そっか、あなたの脳、相当侵食されてたっけね。『(オクルス)』の移植だけじゃ思い出せないか」

 

 その声には、どこか安心感にも、落胆にも似た響きが微量に含まれていた。そんな少女への疑問を強引に彼の思考が押しのけた。


 —『(オクルス)』? 


「あんたのその真っ白な右目のこと。似たようなもの、見たことあるんじゃない?」


 白斑に覆われた顔を抑えた彼の頭に去来したのは、『脱命者』の木こりが振るっていた純白の剛腕だった。

 —確か、『右腕』と呼ばれていたか。あれと同じものが、僕の右目に...じゃない!

 記憶が彼の思考を押しのけた。

 —そうだ、僕は背後からローレルに斬られて—。早く戻らなきゃ!

 彼の焦りを読み取ったのか、少女はジャックに諭すように告げる。

「いい? あの『木こりのジャック(ランバージャック)』はともかくとして、ここはいわば中継地点(トランジット)。帰りの切符はないの」

 —中継地点? どこへの?

「あんたはちゃんと役割を果たしてくれた。急造のナイフにしては大したものよ。今度こそ、()()()()()()()()()()()()()()()

 触れてはならない怪物から分泌された汁のような、嫌な触り心地。両手を真っ赤に染め上げるそれは— 。

「————ッ」 

 —頭が割れるように痛い。

 膝をつき頭を抱えるジャックに向かって、少女は傍らにしゃがみこんで声をかけた。

「さっきも言ったけれど、ここは中継地点。死んだあんたにお疲れ様を言うためのね」


 —僕が、死んだ?


 少女がジャックの喉から生えるリコリスに手をかざすと、細長い花弁が無数に沸き立ち、細かく分裂しながら宙に舞う。それら一つ一つは連なりあって机の上にミニチュアの立体映像(ホログラム)を作り上げた。

「その通り、あんたは死んだの。背後からあの『伐採者(ランバージャック)』に斬られたあの時にね。ほら、あそこで倒れているのがあんた」


 重く痛む頭を持ち上げて、少女の言葉を確認する。

 巨大な『イチョウ』とそれに相対するローレルが最初に目に入った。そして少し離れた『ムスペル』の泉のそばには小柄な少年が、大鎌の姿を解き種の姿となった『ヤドリギ』とともに倒れていた。

「あのおじさん、相当苦戦してるようね」


 無感情に少女は戦況を分析する。

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