『サンゴジュ』:ある木こりの死/消失
『漂白域』に、黒い嵐が吹き荒れていた。『サンゴジュ』の樹冠の上空からは、黒い積乱雲が滾々と湧き出ている。ありとあらゆるものを吹き飛ばす、猛々しい乱流を伴って。
『降流』、それは『漂白樹』の中でも特に強力な特質個体たる『サンゴジュ』につけられたコードネーム、いや、諱とでもいうべきものだ。一言一句たがわず、それは災いだった。そしてその暴威を一身に受けたのが、俺の弟だった。
『サンゴジュ』の脅威は、ヤツを中心として吹き降ろされる強烈な突風だけではない。暴力的な気流に混じる、鋭い刃を持つ無数の葉が、弟の—ジョンの左腕をすっぱりと切り飛ばしやがったのだ。
血液の鮮やかさに、俺は思わず息をのむ。『森』の白と、上空に広がる積乱雲と、俺たちの身に着けている防護服の黒。限りないモノクロの世界に突如として差し込まれた鮮烈な赤は、弟の命に死神の手が買っていることを雄弁に語る、遅すぎる警告色だった。
「いやだ、やだやだ」
ジョンはもはや痛むことすらない傷口への恐怖に顔をゆがめ、冷たい息を吐きながらあえぐ。
—俺だって嫌だ!
そう叫ぶことはもちろんできない。俺にできるのは、左腕の付け根を抑えて、少しでも吹き出る血の量を減らすよう努力するだけ。
「死にたくない…!」
辺りを染める赤の面積が増えるにしたがって、ジョンの声は小さくなっていく。
「大丈夫だ、お前は死なない。親父が今にあのウドの大木を切ってきてくれる」
心にもないことを言う。少なくとも前半はそうだ。
ジョンは俺の言葉を聞いて、力なく笑った。
「兄ちゃん、ウドじゃない、『サンゴジュ』だよ」
何がおかしい! と死にゆく弟を前に無言で憤る俺に、ジョンは気づいていただろうか。
「そうだな、お前が正しい。だから死ぬな! 『伐採者』になるんだろ。俺も、お前も」
正しい、だから死ぬな? なんてめちゃくちゃな論理と要求をしているのか、と己に呆れる。肉親の死の過程を目の前にして、どこか冷静な自分が腹立たしい。
ひときわ大きなエンジンの音と、金属音が響き—不意に、風がやんだ。あんまりに唐突だった。俺の弟は、こんなにもおとなしく死を迎えようとしているのに。
俺の弟の腕を切り飛ばした『サンゴジュ』は、あっさりと、俺の親父にその命を明け渡したようだった。
「さすが、やっぱり、僕のお父さんは—」
そして、ジョンはぐんにゃりと脱力した。何もできなかった兄貴の腕の中で。開いたままの眼を、雲の切れ間から射しこんだわずかな陽光が照らした。
瞼さえ動かなかった。
ただの物になったジョンの体を抱えて、数分間もそうしていただろうか、やがて背後に足音が近づいてきた。
俺はジョンの亡骸をそっと地面に置くと、親父だろうその足音に向かって勢いよく振り向いた。ぼこぼこに殴るつもりだった。
つもりだった、というのは、拳がむなしく空を切ったからだ。親父の姿はどこにもなかった。ただ、親父のチェーンソーだけが置かれていた。はじめからそこに在りましたよ、とでもいうように。
状況を飲み込もうともしない俺の脳内に、『機能』を通じて『監視塔』からのメッセージが届く。漂白樹が伐採され、電波妨害が解除されたのだろう。
『識別名:ジャックへ▼『サンゴジュ』の伐採が確認されました。また同時刻、『伐採者』ハウリーの消失を確認。現時刻を持って後継者であるあなたに『伐採者』の『命題』及び権限が移行します。』
『監視塔』からの無機質なメッセージを合図とするようにチェーンソーは無骨な形をほどき、『種』の姿に戻った。
漆黒の杭状のそれを拾い上げると、俺は右腕に迷いなく突き刺した。
手元に発芽したのは二丁の手斧だった。
「今更遅えんだよ」
力なく悪態をついてみる。
続いて嫌味も言ってみようとした。ただ命題のままに動く『伐採者』の出来上がりだろ、と。
『監視塔』に対する精いっぱいの皮肉のつもりだったが、筋違いも甚だしいから口の中でかみ殺した。
あの夜に、俺が斧を欲したのは、なんのためだったっけ。
望んだものを手に入れるということは、望みを失うことを意味する場合もあるのだという事実は、俺にとって新鮮な驚きだった。
その驚きを最後にして、俺は空っぽになった。




