『イチョウ』:大洪水①
ジャックの下に再び、今度は数匹の『蜻蛉』が飛来した。頭部の録音機からはそれぞれの役割が簡潔に伝えられる。内容を聞いた少年の口の端には思わず笑みが漏れ出た。
—やっぱりね。
傍らで同じ内容を聞いていたローレルは、ジャックに尋ねる。
「いいのか? この作戦では少年、君が最も危険な役割を背負うことになる」
「でも、おじさんは僕が適任であることも分かってる。僕が『庭師』だから。この鎌が人を斬るためのものだから。ちゃんとわかってるんだ」
「—」
壮年の『伐採者』の切れ長の眼が細くなる。
「ありがとう、おじさん。何も死にに行くわけじゃあない。『命題』を果たしに行くだけなんだし」
「『命題』ね。ジャックー君は本来『命題』なんて持っていないだろう?」
微量にためらいを含んだ声で、顔を白斑に覆われた少年に問いかける。
「よく分かったね」
ローレルの眼を見据えたまま、淡々とジャックは賛辞を贈った。
「君自身が『首無し』を使役しているところを一度も見ていないし、何より俺の『機能』による問いかけに君は一切答えなかった。君にはこんな死地に付き合う義務なんて微塵もない」
「そうかもね。—でも、だからこそここにいる意味があると思うんだ。誰に決められたでもない、僕自身の意思が決めた『命題』だから」
「そうか」
一拍おかれたローレルの返答。その眼はいまだに、何かまぶしいものを見るかのように細められている。それを見据えたまま、ジャックは提案した。
「僕の『命題』の話、また話そう。—『イチョウ』を伐採したらさ、みんなでご飯食べに行こうよ。おいしい店知ってるんだから。そう、おじさんの家族を連れてきたっていい。」
「—うん、悪くない」
「約束だよ。—そうそう、忘れてた。おじさんが言ってた『森』の再生を遅らせるためのコツ、教えてよ」
「—」
「おじさん?」
ジャックの声に決心したようにローレルは口を開いた。
「あれはね—」
ローレルからの指南を受けたジャックは、顔をしかめた。
「おじさん、こんな面倒なこといつもやってるの?」
「趣味の一環ってやつでね」
「人の趣味に口出しする気はないけどさ—じゃあね、おじさん、手はず通りに」
ジャックはそう言い残すと、『森』の中心部へと走っていった。
「『人を斬るためのものだから』か」
燃えさかる木立の間に消えて見えなくなった少年の後姿に向かって、ローレルは誰かに語り掛けるような調子でつぶやいた。
「なあ、彼のような子供がそんな言葉を口にせざるを得ない世界は、本当に正しいと思うかい」
当然のように、誰も答えなかった。
▼▼▼
東居住区外縁部。広大な『植木鉢』の縁にユズリハは立っていた。彼女の目の前にある無機質な灰色で塗り固められている壁こそはすなわち地中に埋まっている『植木鉢』の外殻であった。
その滑らかな壁面にユズリハは手のひらを当てた。『育種家』の権限を行使しアクセスを試みる。
壁ののっぺりとした感触の奥から、それとは異質な水っぽい感触が伝わってくる。
—『水母』だ。
『植木鉢』を覆う、最大の『首無し』。それがもたらす生命とも有機物の塊ともつかぬ不気味な感覚に、彼女の腕が粟だった。
『首無し(ヘッドレス)』の種類によって、データを閲覧する際に覚える感覚は異なる。
『飛蝗』の節くれだった外骨格の硬質さが、『狼』の毛皮の柔らかさと湿った鼻の冷たさが、『烏』は羽毛のさらりとした感触と爪の鋭さが、それぞれ彼女の脳に流れ込んでくるのだ。
しかし、中でも『水母』の与えるそれはとりわけ異質だった。
ひんやりとした深い水底に沈んだような中に、点々と光るものが揺蕩っている。『水母』の記録だ。しかし、そのままでは読み取れない。ユズリハの手をぬるぬるとすり抜けていった。
—ジャック達が『漂白域』から帰ってきた場所を特定した、あの時よりも格段に難しい。『指輪』からの干渉があったから? いや、きっとそれよりも深いところに潜っているのだ。
早く。早くしなくちゃ。早くしないと、ジャックも、シャロンも、ニアさんたちも—東居住区で初めて、しかし腐るほど見た焼死体が瞼の裏にちらつく。実際に水底に沈んだわけではないと頭では理解していても、体がついていかない。浅い呼吸に横隔膜が痙攣する。
昏い記録の海にふと、あの『伐採者』の言葉が射しこんだ。
—きっと、彼と一緒に戦ってきたのはシャロン君だけじゃない。それはあなたも同じだよ、ユズリハちゃん。
深呼吸をして、早鐘のような鼓動を抑える。
—落ちつけ、私。見るのは記録じゃない。『水母』そのものの成り立ちだ。教えて、あなたがどうやってできているのか。どうやって私たちを守ってくれているのか。
—そうだ、成り立ち。もともと脳を持たない『水母』だ。注視するんじゃなくて、一歩退いて—。
昏い海に漂う光点は、ようやく意味を持った実像をユズリハの感覚にもたらした。俯瞰する彼女の目に、『植木鉢』を包む『首無し(ヘッドレス)』の全容が映る。
『水母』は丸ごと一つのクラゲからなるのではない。複数の巨大な個体をつなぎ合わせているのだ。それらの結節点には、『水母』を成立させるために最も重要な個所がある。
—やっぱりだ。あった。
快哉を叫びたくなる衝動を後回しにして、傍らの『蜻蛉』に、シャロンへのメッセージを預ける。
「見つけた! 『イチョウ』のほぼ直上! やっちゃって!」
その刹那、『水母』に接続しているユズリハの意識に、言葉が流れ込んできた。
「「「「―あさん」」」」
—『水母』じゃない。もっともっと深層からの声—何、これ?
▼▼▼
「ははっ、よし来た!」
『森』の外縁すぐの地点でユズリハの放った『蜻蛉』からのメッセージを受け、シャロンはひきつった笑い声をペストマスクの裏から出した。痛む足首に顔をしかめつつも立ち上がり、精いっぱいの声で『伐採者』に発破をかける。
「頼んだよ、ニア! 特質個体単独伐採者の腕、見せてくれ!」
「まっかせて!」
ニアの切った啖呵に頷きを返し、シャロンは右手を高々と上げた。人差し指にはまった銀色の『指輪』が、『森』の炎を受けてきらりと光る。少年から発される無音の命令を拡散し、『首なし(ヘッドレス)』を呼び寄せた。
「さあ、世にも珍しい空飛ぶ魔法のじゅうたんだ! —今更、虫が苦手なんて言わないでよね?」
大音声の最後にしれっと保険を掛けたシャロンの背後から、前触れもなく真っ黒な壁が立ち上がった。壁はすさまじい羽音をあげながら、ニアに迫りゆく。
「きゃー! やっぱりキモイキモイキモイ!」
ニアに罵倒を浴びせられた黒い壁は、おびただしい数の『飛蝗』から構成されていた。『漂白域』で従えていた三倍を優に超える数の頭部を取り去られた黒い飛蝗たちは、主の命令のまま折り重なりながらニアに近づいてゆく。その形状は、じゅうたんというよりも筏と称する方が正しかった。
嫌がるニアにシャロンが檄を飛ばす。
「いいから乗れ!」
「あああああもう!」
有無を言わせぬ声に、ニアは絶叫しながら『飛蝗』の作る「魔法のじゅうたん」に飛び乗った。
「ギリギリ『監視塔』のバックアップを受けられたから間に合った! —やればできるもんだな。まさかバッタにのって飛ぶ光景を見られるとはね」
「なんか足の裏もぞもぞするぅ! えっでも飛んでるぅ!」
「ふーん、不謹慎だけど絵になるねえ。ジャック、お前じゃこうはいかないだろうな」
沸き上がる黒い雲に、眩い金髪の『伐採者』が運ばれてゆく。その様を二羽の『渡鴉』を通じて観測していたマルンは『助手』と心無い比較をした。
—やはりあの少年、指輪の使い手としては俺の一枚どころか三枚は上手だ。ただし。
「『イチョウ』が黙ってみているというわけにはいかないだろうーだんだんお前のことを言えなくなってきたぜ」
マルンは右手の人差し指に光る金色の指輪を眺めて言った。
ぐんぐんと高度を上げながら『森』の作る雲を抜け、『イチョウ』の直上を目指すニア。
目標地点まで、残り一キロメートルを切っている。『ヤドリギ』を構えたその時—。
その足元が、突然がくんと揺れる。
「きゃあなにこれ!」
ニアが叫ぶ。
「魔法のじゅうたん」の底面を構成する『飛蝗』が、あるものは焼け落ち、あるものは激しい上昇気流にあおられることで、数を減らし始めていた。
—ああくそ、『イチョウ』の成長が早すぎる! 『飛蝗』の数が足りない!
上空に迫る脅威を察知したのか、『イチョウ』は急激にその樹高を伸ばし始めていた。より激しく炎上し、咆哮のような爆発音が少女の足元に迫りくる。
その爆音に反比例するようにして、見る見るうちにその数を減らしてゆく『飛蝗』。今や推力をほとんど失い、ニアの足元を維持するのに精いっぱいのありさまだ。
そして「じゅうたん」が決壊すると思われたその時。
「なんだ—あの『飛蝗』、僕のじゃない」
「じゅうたん」の下部を包み込むような形をとり、新たな『飛蝗』の一団が加わった。シャロンが操る数には遠く及ばず、また統制もとれていない。
しかし、彼女を送り届けるには十分だった。「じゅうたん」は再びその推力を取り戻す。
ニアの『ヤドリギ』が展開される。
両の手に握られたマットブラックの線鋸は、『イチョウ』の樹冠から放たれ、熱による上昇気流にちぎれ飛んできた雲をからめとっては吸収してゆく。彼女の持つ『浸透捕食型断神経性伐具』が、その機能を発揮していた。
どくり、どくり、どくり。
『漂白樹』の細胞を取り込み、捕食することで強化する、人類が生み出した武装。
線鋸の形をとった彼女の『加害のイメージ』は、より長く、より細く、より鋭く、その威力を増してゆく。
—だけど、これじゃあ足りない。私がこれから切り飛ばすのは、この世界の片隅そのもの! もっと長く、もっと細く、もっと鋭く—もっと、もっと強く!
『水母』はその異常な再生力でもってすぐに再生を始める。チャンスは一回きりだ。失敗はできない。
『ヤドリギ』の捕食は加速する。『ヤドリギ』の捕食機能は本来人間と相容れぬはずの『漂白樹』と自らのイメージを融合させる荒業である。その過剰使用によって、種の接続点であるニアの右腕には激痛が走っている。その臨界点を超えた先で、彼女は高らかに叫ぶ。
「約束したもんね。私が、あなたたちを守るって!」
ニアは前進の力でもって、不可視の線撃を放った。
その一閃は目下の『イチョウ』ではなく、『植木鉢』上部の外殻を容易に切り飛ばし、それを覆う『水母』を切り裂いた。
「あとは頼んだよ、小父さん、ジャックー!」
体力を使い果たし、膝から崩れ落ちるニア。その光景に、シャロンは右の拳を固く握りしめる。
「よくも好き勝手ガンガン燃やしてくれたな。精々たっぷり食らいやがれ—」
ニアによって切り飛ばされた、『水母』の膜。その切り口から、怒り狂う龍の如き波濤が、直下に豪炎の塔としてそびえたつ『イチョウ』に襲い掛かる。
シャロンは拳を『イチョウ』に向けて突き出し叫んだ。
「『大・洪・水』だ!」




