断章:『母親』
「私のことは、今日から『お母さん』と呼ぶように」
夕日のように鮮やかな赤毛を持ったその女性は胸を張って言った。
これは、『庭師』となる前の少年ジャックにとっての、最初の記憶だった。
「はい、師匠」
機械的に返事をしたジャックに、女性はいくらか困惑の色を浮かべた。
「ん?そうか、ほとんど初対面だし、いきなりお母さん呼びは抵抗あるよな―じゃあ例えば『母ちゃん』とかはどうだ?」
「はい、師匠」
「んん、じゃあ少し照れ臭いけど―ママ?」
「はい、師匠」
「母上は?」
「はい、師匠」
「母様!」
「師匠」
「おふくろ?」
「師匠」
「御母堂!」
「—師匠」
「なんて強情な奴だ!」
赤毛の女性はがっくりと膝をついて嘆いた。
「『監視塔』め、厄介な里子を寄越したもんだ…」
ジャックには、彼女を母親と呼ぶのは難しいことだった。彼女が嫌いだとか、抵抗感があるのではない。例えるならばそう、炒り卵を卵焼きと呼んでいるような。よりふさわしい呼称があるが故の違和感と言ったところだった。
彼をを彼女の下へ連れてきたペストマスクの少年、彼が使っていた「師匠」という呼称は、ジャックにとっては最もしっくりくるものだった。彼女のやや男勝りな話し方がそうさせるのだろうか、と推測した。
膝をついて嘆く女性の傍らから、彼女と同じく美しい赤毛を持った幼い少女が慰める。
「お母さん、ジャックは顔の半分を『ひょうはくじゅ』にけがさせられたのよ。きっと耳がよく聞こえてないの」
「そうだったのか…?」
赤毛の女性ははっとして目の前の少年を見つめた。憐れみと慈しみが等量にブレンドされた視線は、かすかな遠慮とともに彼の顔右半分を覆う白斑に注がれた。
「耳は聞こえてるよ。それもはっきりと」
その視線を蠅叩きで叩き落すように、少年は断言した。
「ユズリハ、性格悪いんじゃないか! こいつ!」
「お母さん、そんなこと言っちゃ可哀そうよ。『ひょうはくいき』で何とか生き延びてきたのに」
娘にたしなめられた女性は、きまり悪そうにしてジャックに謝罪した。
「そうだな、すまん…だけど少しずつでいいからここの生活に慣れて―」
そのころころと変わる表情がなんだかおかしくなって、ジャックは吹き出した。小刻みに体が震える。
「なっ、人が下手に出ればコイツ…」
くわっと目を見開いた女性とジャックとの間に横から割り込んだのは、ペストマスクをつけた少年だった。
「無理があるって、リージア師匠。そのごり押し、僕の時から変わってないじゃん」
少年の言葉に、リージアと呼ばれた赤毛の女性はむむっ、と顔をしかめる。
「む、シャロン、お前も敵に回るのか」
「いや、敵じゃあないけどさ…あんたは師匠って方がしっくりくるというか…」
「あははっ」
こらえきれなくなって、ジャックは口を開けて笑った。
彼らのやり取りそのものもなんだかおかしかったが、それ以上に彼の心をくすぐったのは、彼らの声の調子が持つ、柔らかさというべきものだった。
軽くて、
ふわふわしていて、
温かい。
それがなんだかくすぐったくて、彼は笑ったのだ。
「そういえば、ジャックがこんなに笑ったの、初めて見たわ」
ユズリハが驚いたように言う。
大笑いするジャックを横目に、リージアは仕方がない、というように鼻でため息をついた。
「本当に、変わった子だ」
ジャックの前にしゃがみこみ、両のほっぺたを優しくつまむと、ぐにーっと持ち上げる。ジャックは驚きに目を見開いた。しかし驚いたのはつままれた感触にではない。
「怖く―ないんですか」
自分の顔の右半分を覆う『白』斑。『漂白域』からやってきた、それも『監視塔』との接続を拒否された男児が持つにしては、あまりに不吉な記号。少なくとも、『植木鉢』の人々の眼にはそう映った。表にこそ出さなかったが、ジャックは彼らの抱くその見えざる恐怖の色を薄々ながら感じ取っていた。
その白斑を、目の前の女性は何のためらいもなく触っている。ジャックの問いに、リージアはかえって不思議そうに答える。
「怖い? なんで君を怖がる必要がある?」
「だって、僕は『漂白域』からやってきた、気味の悪い子供です。顔には白いシミがあって、思い出せないことだらけでー」
「なるほど。じゃあ君は、私達がどこで生まれたか知ってるかな?」
リージアの問いに、ジャックは困惑しながらも返答する。
「それは、『植木鉢』で生まれて―」
「そうだろうね。じゃあ私の母親は? その母親は? そのまた母親は?」
「—」
リージアから穏やかに、しかし矢継ぎ早に繰り出される質問を前にして、少年は黙っている。
「ごめん、意地悪な質問だった」
その様を見て、リージアは少年の頭に優しく手のひらを乗せて言った。
「だけどね、私たちがどこからきたのか、そんなのは私にだってわからないんだ。多分『監視塔』にも分からない。もしかしたらこの世界はさっき作られた出来立てほやほやで、私たちはそれを知らずに生きているだけかもしれない。それを証明する手段はどこにもないだろ?」
「世界五分前仮説ってやつね」
「そのとーり」
シャロンの言葉にパチンと指を鳴らすと、リージアはジャックの眼を真正面から見据えて言った。
「君はねジャック、これから長く続いていく君という道のスタートラインにはじめて立っただけのことさ」
「だいたい私たちは違うところだらけだよ。私やユズリハは赤い髪の毛をもっていて、シャロンはあのマスクをかぶるのが大好き。白斑なんてむしろクールなくらいさ」
自分とユズリハの髪の毛を指で梳き、シャロンのペストマスクを人差し指でつっつきながら、リージアはジャックの前に目線を合わせてにっこりと笑う。
「君自身がゆっくり決めればいいんだ。君の道も、その歩き方も、その白斑ですらそうだ。『監視塔』が君に命題を強いることはできないんだから」
「ー」
ジャックはしばらく黙っていた。
しかしやがてリージアの頬をはっしとつかむと、少し震える手つきでぎゅっと横に広げた。
「ありがとう、師匠」
とだけ一言伝え、リージアの頬をぱっと放すと、彼は『監視塔』の見える窓際まで歩いていった。その後ろ姿を見て、リージアはジャックに不器用につままれて赤くなった頬に微笑を浮かべた。
「ほんと、よくわからない子だ。いいとも、師匠でも何でも好きに呼びなさい」
「ねえ、お母さん、あたしのほっぺたももちもちして―それとあたしも「師匠」って呼んでもいいかしら?」
ユズリハの言葉に彼女の柔らかいほっぺたを持ち上げながらリージアは懇願した。ややげんなりとした苦笑とともに。
「頼む、お前だけはお母さんと呼んでくれ…人の親として自信を無くすから―さあ、ちょっと遅いけど、朝ごはんを食べよう。ジャック、食器をだすのを手伝ってくれる? シャロン、君もほっぺたもちもちしてほしいのか?そのマスクを外せほらほら―」
「—はい、師匠」
やめてください!とじたばたするシャロンを視界の端に置きながら、ジャックは小さな声で答えた。
彼は一つ、決心をした。
―これが僕の、最初の記憶だ。
彼はそうすることに決めたのだ。
古くおぼろげで嫌なにおいのする記憶は、忘却という名の便利な機能を駆使して脳の奥底に押し込める。せめて目覚めている間は、彼らと一緒に過ごす時間だけは、思い出さなくてよいように。代わりとして、彼は自分自身の夢を差し出すことにした。
脳機能の奥底に、重りを付けて沈めた『悪夢』と書かれたラベルが貼られた箱を開けると、そこには血にまみれた己の両手があった。
毎夜毎夜、うなされては目覚めるたびに、ジャックはある光景を幻視した。
はがれかけの『悪夢』のラベルの下には、もう一枚のラベルが隠されている。
そこには殴り書きで記されていた。
―『過去からは逃げられない』
「分かってるよ」
幼い少年はそのたび独り言ちた。
それから三年が経ったころのことだった。
彼らの母親は、師匠と呼ぶべき女性は、泡のように姿を消した。『脱命者』になり、死亡したという『監視塔』からのメッセージログだけを残して。




