『巨人の国』:前編
一人の 東居住区の一角に、怪人がたたずんでいる。深緑色の背広にガスマスクといういで立ちは、これでもかというほど人目を引く、異様ないでたちのはずだった。しかし彼のたたずむ一角は、かつてないほどの静寂をたたえていた。
時刻は夕方に差し掛かっているのにもかかわらず、夕方、自らの『命題』に基づく業務を終えて家路につく人々の声、食料をはじめとする物資のデリバリーを行う『首無し』の足音までもが、洗い流したかのようにさっぱりと消えていた。
音を出すべき者がいなくなったのではない。
ガスマスクの男の周囲に転がる彼らは、思い思いの姿勢で、しかし皆等しく喉をかきむしって苦しみの表情を見せていた。
男の左腕に伸びた管からは、銀灰色の煙がうっすらと立ち上っている。
「『怒り』『恐怖』『憧憬』そして『殺意』」
『緑』は、周囲に転がって苦しむ人々や、痙攣する『首無し』達には一瞥もくれることなく淡々と言葉を列挙した。遠足先で引率の子供を数える教師のように。
「『怒り』は、彼が解放してくれたし」
―多少予定は狂ったが、ま、結果オーライさ。
彼は心の中で付け加えながら、手にしたものに語り掛けた。ガラス質の透明な物質によって作られた円筒形の容器の中には液体が満たされており、底部には装置が取り付けられている。
その中に浮かんでいるのは、一つの女性の頭部であった。
色白の顔の中央の高い鼻とくっきりとした二重瞼が、顔全体に端正な印象を与えている。それよりも特徴的なのは、鮮やかな赤毛であった。液体の中にゆらゆらと揺れるそれは、今や力ない印象しか持ちえない。
頭部は装置から延びた無数の管に接続され、その眼は『緑』の言葉に反応することもなく閉じられている。
堅く閉じられた瞼は、生命を失った証左ではなく、ガスマスクの男の言葉を固く拒否する意思の表れのようでもあった。その様を見てか、表面上は同情するかのような声色で語り掛ける。
「あんたがどう思ってようと、僕には関係ないんだけどね。あんたは立派に『恐怖』の鍵としての役割を果たしてくれるだろう」
『緑』は頭部が収められた容器に取り付けられている装置を起動した。
頭部の瞼に痙攣が起きる。ぴくぴくと動くだけだったそれは、取り返しのつかない臨界点を通過したかのように、かっと見開かれた。
それに伴って、『緑』の霧に苦しんでいた住人たちは、一斉に震えだした。眼は見開かれ、喉をかきむしっていた両手は自らの呼吸苦を忘れたように、あるものは自らの肩を、あるものは膝を、あるものは胴体を、何かから守るように必死に抱え込んでいる。
—起動、及び『恐怖』の解錠は問題なし、と。
『緑』はガスマスクののぞき窓から、周囲でうずくまってはがたがたと震えている住人を確認して満足したように鼻を鳴らした。
「あの『斥候』のおじさんのときみたいに『霜の巨人』を作る材料はないけど…ないなら用意するまでか。『オーガ・インストーラ』の起動もない今なら、『青』の坊やも寝てるだろうし」
彼は生首の入った容器を足元に放り捨て、恐怖に転がる住人の男をぐいと乱暴に持ち上げると、そのあえぐ口元に左手の管をあてがった。管は見る見るうちに形を変える。針先は細く、鋭くなり、まるで注射針のようだ。すでに白目をむいて泡を吹いている男に、『緑』は面倒くさそうに説いた。
「もうちょっと静かにしてくれないか? これ、僕も慣れてないから疲れるんだよ」
口内に針を差し込むと、窒息した男はやがて静かになった。『緑』は小さくつぶやく。
「『演算(Calculate)—収束(Inject)』—えっ、死んでないよね?」
微量の焦りを含んだ『緑』の声を否定するように、針を差し込まれた男の体が震えだす。霧に引き起こされた呼吸苦による痙攣でも、頭に注ぎ込まれた『恐怖』に対する震えとも違った。
その様を見て、ガスマスクの裏から満足げな声を発した。
「セーフセーフ。細工は流々、仕上げを御覧じろ! さあさ、発芽の瞬間だ!」




