『人生万事塞翁が馬』:前編
ぬるり。触れてはならない怪物から分泌された汁のような、嫌な触り心地だった。洗っても、洗っても、決して落ちることはない。少年には分かっている。
手に余すところなく付着したそれは、鮮やかな赤色をしていた。
はぁっ、はぁっ、はぁっ。
ひどく、頭が痛い。
脳内に『声』が鳴り響く。
『▼現時点を―『監視塔』はあなたを―認定しました。『庭師』の到着を待ち、速やかに『監視塔』の―』
『クソっ、どこにでもいる名前だ』
『『左腕』が―げるだけの―が―っていない。『眼』ならば―』
『これは『植木鉢』初の殺人事件―そのはずなんだ』
混線している。
『美しい—それは僕を殺すための鎌だ。いいだろう『赤』。これは等価交換だ』
「—ック!」
激しい頭痛よりも、目の前の鮮やかな赤色から脱したくて、少年は固く目をつぶった。
視界が暗転し、視覚への刺激を補う形で、緑色が少年の両の手のひらの形に浮かび上がった。それはやがて、濃緑色の背広をまとった男のまるで不吉な立ち木のような姿に輪郭を変えた。
男のガスマスクが、昆虫的な動きでジャックをとらえた。
「君は|、邪魔か」
濃霧が迫る。相棒の悲痛な声が響く。その声に、彼ははじめて自分の命に手がかかっているのを悟る。
「ジャック!」
そうだ、僕は僕と同じ名前を持った『木こり(ランバージャック)』に—。
「ジャァーック!」
「うわぁ!?」
ごちん。跳ね起きた拍子に、『庭師』の少年二人はひどく頭をぶつけ合わせた。
「着いた…うぅ、もうすぐ『植木鉢』だよ…くそ…いってて」
シャロンはペストマスクからにょっきりと生えたような手足をばたつかせ、悪態交じりに報告する。
二人がやり取りを繰り広げているのは、『植木鉢』へと向かう驢馬の『首無し』が引く荷台の上だった。本来愛嬌のある顔が載っているはずの頭部には、小型のレーダーアンテナが回転している。周囲を、小型のカメラを頭部に据え付けた『飛蝗』が飛び跳ねながら警戒していた。
そして後方からは、二話の鳥型の『首無し』が追従していた。
二人の少年を乗せた『首無し』が歩く雪原には、『森』では見られなかった直径三メートルほどの黒色の塔が、まばらに立っている。すべてが雪に覆われた地上世界にあって、それらは紛れもない異物だ。
「うぅ、ごめん、寝てた…」
ジャックは白斑に覆われていない、顔の左半分を痛みに歪ませて詫びる。
「よく寝られたもんだね、僕はいつ『森』にぶち当たるか、この二日ドキドキして寝られなかったよ!」
どうやら、『死ぬことはない』という『脱命者』の言葉を、彼は信用していなかったらしい。
―信じる方が無理な話か。なんたって相手は『脱命者』、それも人を殺している。
しかし。
『どこまでも悪趣味な野郎だてめーは!』
ジャックを殺そうとしたガスマスクの男に放たれた『木こり(ランバージャック)』の怒声が、びりびりと鼓膜に今も響いている気がした。
追ってくるなんて考えるな、彼は確かにそういった。次に会うときには息の根を止める、さえ。しかし、ジャックはあの純白の右腕を持つ青年にもう一度会って、こう尋ねてみたかった。
—あなたは、自分の手で、人を殺したことがありますか。
その答えが―ならば―。
「『ヤドリギ』を使える君が戦えなくて、身を守る手段は僕の『指輪』だけ。それがどんなにヤバいかわかる?」
シャロンの愚痴が、ジャックの思考を現実に引き戻した。『植木鉢』へついて安心したのか、口数が多くなっていた。
「ほら、目の下にクマもこぉんなにできちゃってさ!」
と、ペストマスクの黒いのぞき窓のふちをくいくいとなぞって嘆くシャロンに、ジャックは申し訳なさそうに言う。
「ごめん、見えないんだけど」
「—確かにそうだ」
憮然とした風に同意しつつも、マスクを外すでもなくシャロンは言葉を継いだ。
「『監視塔』も『監視塔』だ、『狼』の四、五頭か『禿鷲』の五十羽もいればまだ戦えるのに、寄こしたのは偵察仕様の『飛蝗』!迎えもこの『驢馬』だけ!」
シャロンの舌鋒のとがり具合は留まるところを知らず、ペストマスクがぶんぶんと前後に揺れるのを、ジャックはなすすべもなく眺めている。
「ただでさえ!こいつは!足が!遅いんだから!」
シャロンは荷台から身を乗り出して、言葉を区切りながら『驢馬』の首筋をぽこぽこたたく。それに合わせて荷台がぐらぐら揺れた。
相棒の余りに理不尽なふるまいに、ジャックは苦言を呈した。
「やめなよ、かわいそうだ。せっかく運んでくれてるのに」
シャロンはぴたりと動きを止めて、一つ深呼吸をすると、
「ごめん」
と言って『驢馬』の首筋を撫でた。『驢馬』はシャロンの攻撃も謝罪も意に介することなく、てくてくとその歩みを進めていたが、ある地点で歩みを止めた。周りには変わらず漠とした雪原が広がるばかりだ。シャロンが出し抜けに尋ねる。
「ねぇ、そういえば僕らの後方の『烏』、いやあいつら『渡鴉』か。あれ、僕の『指輪』経由で動いてるわけじゃないんだけど、君の手持ちかい?」
ジャックは黙ったまま、しばらく荷台の後方を眺めていた。その表情は前方に座るシャロンからはうかがい知ることができない。
「ジャック?」シャロンがいぶかし気に話しかける。
「ああ、僕の『渡鴉』だ。安心して」
ペストマスクの奥から、ふーん、と納得したような声を発するとシャロンはようやくといった風にため息をついて言った。
「着いたよ、『植木鉢』だ」
その言葉とは裏腹に、あたりに広がるのは雪原ばかり。地下都市の形態をとっているとはいえ、そこに生活を営んでいるはずの十五万人の気配はない。
シャロンは、目星をつけて『止まれ』と『驢馬』に指示を与える。
地面に降り立った彼は『指輪』のついた人差し指をあげた。ジャックは周囲に躍動する気配を感じて身構える。
「大丈夫」
シャロンの言葉を待たずして、周囲に林立する塔からおびただしい量の烏が飛び出してきた。頭部には例外なく鋏が取り付けられている。『首無し』だ。
無数の『烏』は、足元の雪原を掘り返していく。数分もしないうちにやがてぶよぶよとした厚い「皮」が現れた。「皮」は水分を多く含んでいるのか、ぼちゃぼちゃと地中に揺蕩っている。『烏』は頭部の鋏でもって、その「皮」を一心不乱に切り裂き始めた。
ぶるぶるとした皮を裂いては、それらを爪ではぎ取っていく。抵抗するかのように「皮」は揺れていたが、『烏』はそんなことは意にも介さずにできた穴を広げていった。
グロテスクな共演に、二人の少年は思わず顔をしかめる。
果たして『烏』が切開した穴の先には、長大ならせん階段が広がっていた。
「行こう」
シャロンが促し、螺旋階段の踊り場に飛び降りると、ジャックもそれに次いだ。シャロンが「皮」の傷口に指輪をかざすと、傷が早くも再生を始め、ぶよぶよと蠢き始めた。その隙間を、二羽の『渡鴉』がするりと抜けた。
「初めて見た、こんな入り方があるなんて、よく知ってたね」
「師匠が教えてくれたんだ、ずいぶん昔にね。とはいえ、見たのは僕も初めて。しかし、あれが『水母』か。ちょっとキモすぎるけど、まあ仕方ないわな」
—『伐採者』としての生体情報を持たない僕らにとってはね。と、シャロンは肩をすくめた。
人口15万人を内包する地下都市『植木鉢』。地上だけではなく根を張ることで地下まで侵食する『漂白樹』から見ればただのエサ皿に過ぎない。では、なぜ今日に至るまで漂白樹の侵食を受けずにいるのか。その答えが、『水母』である。
『漂白樹』は『首無し』を襲わない。これは正確に言うのであれば「脳機能がない生物への攻撃性を持たない」ということだ。『水母』に絶えず養分と水分を供給し続け、その皮膜で『植木鉢』全体を覆う。
『植木鉢』全体を一つの『首無し』と偽装することで、『漂白樹』の侵攻を防いでいるのだ。『烏』が取り去ったのは、その皮膜である。シャロンは『指輪』を用い、『首無し』を通じて皮膜に隠された『首無し』用の『植木鉢』の入り口を看破し、『烏』でも破れるように皮膜を薄くするよう指示したのだ。
「ところで、これ以外の方法で『植木鉢』に入ることはできるの?『根』を伝うとか?」
ジャックはらせん階段を歩きながら疑問を口にした。つい数十時間前に奇襲を行うために自分たちが通り抜けた、あのトンネルを思い出す。
「あれには専用のポッドが必要だ。中には万が一『樹』が根を伸ばしてこないように強アルカリ性の液体が流れているからね。僕らじゃ一瞬でドロドロさ」
「じゃあ基本無理ってことか」
ふーん、と頭に後ろ手を回す。
「そうなるね。まあ方法があるっちゃある。任務中の『伐採者』の生体情報で、正規の入り口から入ればいいんだ—鍵になりそうなのは、そうだな—」
うーん、と考え込むシャロンに、ジャックは思い当たる節を口にする。
「『種』とか?」
自らの『ヤドリギ』の『種』を取り出すジャックにシャロンは小さくペストマスクをのけぞらせて、おお、と感嘆の声を漏らした。
「そうかも。ジャック、冴えてる」
「よく寝たからね」
「のんきなヤローだね、相変わらず」
二人は顔とマスクを見合わせて笑う。『木こりのジャック』捕縛の命を受け、『植木鉢』を飛び出した数十時間の出来事が、ずいぶん昔のようだった。
シャロンはふと思い出したように言った。どこか口にしづらい事実を口にするかのように。
「ねえジャック、君、『驢馬』の上で随分うなされてたみたいだ」
シャロンは、地下へと続くらせん階段の先を見つめながら言った。上方からは、外部の厚い雪雲と、『水母』の皮膜を透過した日光がぼんやりと下白い光で二人を照らしている。満たされた静けさの中に、時折『渡鴉』のはばたく音が混ざる。
「うん」ジャックはうなずいた。
「また、思い出していたの」
「思い出す—か。そんな権利はないよ。僕は常に赤く染まった手のひらに苦しむ—そう、義務がある」
「あれはジャックのせいじゃない」
「じゃあ僕のこの白斑は?『ヤドリギ』が『鎌』の形をしている理由は?—欠けた記憶は?」
「—ジャック」
「『監視塔』が勘違いをするはずなんてない、君はそう言ったよね。だとしたら、これは僕に与えられた罰に違いない。そうだろ?」
ジャックは自分を見つめて動かないシャロンに気が付く。
「—ごめん。君に言っても、何にもならないのに」
簡単な用語解説(用語:ルビ)
『烏:クロウ』:ハシブトガラスを基にした『首無し』。鳥類の『首無し』の中でも生産コストが安く、過酷な状況下でも運用が可能。攻撃性が高いため、攻撃仕様の物も多数生産されている。
『水母:ジェリーフィッシュ』:クラゲを基にした『首無し』。ただし元々クラゲには脳機能がないので、正確には『監視塔』などを通じて制御されている超巨大なクラゲ。
地下都市『植木鉢』全体を膜で覆っている。非常に強い再生能力を持つが、維持には大量の水を必要としている。また、その再生能力を応用して、有事の際には隔壁のように膜を生成し下ろすことで、都市を分断する機能を持つ。




