『SUM-1984』
ぴっ、ぴっ、ぴっ―。
木枠に囲われた小さな窓、強化プラスチックとガラスで構成された『ゆりかご』、木製の古びた安楽椅子、そしてそれらすべての存在感を飲み込んでなお余りある、巨大な生命維持装置。
それが、その部屋を構成するすべての要素だった。
男は、『ゆりかご』の前の安楽椅子に座り、おびただしい数のチューブにつながれながら、窓の外を眺めている。
世界から『要らないもの』をかき集めてきたようなこの部屋の、すべての要素に関わりながらもなお、男はこの部屋からは疎外されている。
少なくとも、彼自身はそう考えていた。
ぴっ、ぴぴっ、ぴっ―。
規則的に―ほとんど規則的に―鳴り響く、生命維持装置の心電図モニターの音声だけが、彼の存在を証明しているかのようだ。証明となりうるのも、聞く者がいればの話ではあるが。
少なくとも、『ゆりかご』にその身を浮かべる『四つ』の胎児たちには、その気はないだろう。たとえ聴覚が十分に発達を終えていたとしても。
―観測するものがいない俺は、箱の中の猫にも劣る。
男は自嘲するように、唇の右端をあげた。
男は、人を待っていた。その人物を表現しようと男はいくつかの単語を思い浮かべる。
「友」。
「他人」。
あるいは「敵」。
早足で、時には足を引き摺りながらも歩んできた男の人生。その時々で、その人物の立場は移り変わった。変化に明確な分水嶺があるわけではない。あくまでもグラデーションとしての、コーヒーにミルクが混ざり合ってカフェラテになる前に、マーブル模様を交えた名前を付けられていない『何か』を経るような変化であった。
男につながれた生命維持装置は、彼の覚醒を伝えているはずだ。間違いなくここを訪れる。
こつ、こつ、こつ。
その靴音は、男の予想を確信に変える。たっぷりと時間をかけて、視線を窓から扉に向ける。伸び放題になった前髪越しに、男はその人物が入ってくるのを見た。
灰色のピンヒールからすらりと伸びた脚に、タイトなブラックジーンズを履き、上半身には体にフィットしたストライプの入ったシャツを着用している。右耳には真珠のピアスを付け、全体をシンプルかつ華やかな印象にまとめ上げていた。
安楽椅子にもたれかかる男に、声をかける。
「おかえりなさいー『SUM-1984』」
「ただいま—『SUM-1983」
そのやり取りからは、言葉に本来宿るはずの温もりは失われていた。その事実を認識しながらも、言葉を継いだのは男であった。
「今度は女か」
「不満?」
小首をかしげる『彼女』は、小首をかしげて笑みを浮かべる。ショートカットの黒髪が揺れる。
「そういう問題じゃない。君—いや君達と呼ぶべきか?—にまだ装いを変える趣味がまだ残っていたのかと驚いているのさ」
「—。」
「どうした?」
男をまじまじと見つめながら、驚いたような顔をして数瞬固まる女に、男は問いかけた。
「いいえ、昔の―まだその身体だったころの私を思い出して」
「そうか」
「私たちにも、まだ『統一』前のかけら―のようなものが残っているのね」
女は自身の胸に手を置いてつぶやく。
「そのかけらがもたらす違和感を打ち消すために、すでに四世代分のモデルチェンジがなされている」
そう言うと、女は一つずつシャツのボタンをはずし始めた。
「身体の機能もまた、そのたびに平準化している。今のところモデルの性別は男女持ち回りだけど、次世代には無性化されるでしょうね」
健康的な肌色に、形のいい胸部が現れる。
「どうする?今のうちに体験しておく?機能的には問題ないはずだけど」
「遠慮しておく。そしてさっさと服を着ろ」
億劫そうにため息をつきながら、男は女から目をそらした。
「あらそう?もったいない」
「読みたくもない古典を目の前に突き付けられているような気分だ」
女はくつくつと笑った。
「本当に久しぶりよ。その旧暦人みたいな言い回し。浦島太郎のラストシーンを客観視したら、こんな感じなのかしら」
一つずつ、ボタンをはめていく。
「—浦島太郎か」
男はかすかな声で独り言ちた。
「どうかした?」
「いや、何でもない。それより、ここに来た理由があるんだろう」
「そうそう、忘れてた」
と手をパチンと打ち合わせる彼女に、男はうんざりした目を向ける。
―忘れるわけないだろう。
男の視線に含むものを知ってか知らずか、女はそのまま続ける。
「これまでに、『オーガ・インストーラ』の起動は何度か確認した。だけどそのたび、しばらくすると機能は停止し、あなたのバイタルサインは降下した。そして『ゆりかご』の耐用回数のカウントは下がるばかり。私たちはこう結論付けるしかなかった。原因は現地調査員である、SUM―1984、あなただとね」
「だけどあなたは帰ってきた。あの静寂の楽園、『ブレインシード』から。そして、『オーガ・インストーラ』はいまだ起動中」
男は視線を目の前の女に投げかけ問う。
「何が言いたい?」
「ここから私たちが推測できることは二つある」
女は人差し指と中指をぴんと立てる。
「一つ、あなたには『協力者』がいる」
「二つ、あなたはあの子たちから拒絶された。少なくとも、そのうちの誰かから」
―あなたにこの世界での居場所はない。
円匙を持った少年はそう言った。
「どう?」
にこりと笑う女に、男は言った。
「僕が答えるとでも?」
「いいえ?口が堅いことは私たちが一番よく知っているもの」
女はピンヒールを軸にして、くるりと男に背を向け、出口に向かって歩き出した。
「僕を処分しないのか?」
男の問いに女は、んー、と指を顎に当てて考えるそぶりを見せた。
「まぁ、そうしてもよかったんだけど。今の問答は私たちへの敵対宣言にほぼ違いないし。だけど、あなたには利用価値しかないの。いいえ、処分するだけの価値がなくなった、と言った方が正しいかしら」
「僕をここまでして生きながらえさせているのはそういうわけか」
枯れ木のようにやせ細った腕を持ち上げる。その動作に付随して、無数のチューブが生き物のように身
じろぎした。しかしそれも全体のごく一部に過ぎない。その様を見て、女はくすりと微笑んだ。
「ええ。だから、そこでおとなしく子守りでもしていなさい。あなたから引き離すと、『黄』の調子が悪いのよ。やっぱり親子ってことかしら?」
「はっ、馬鹿な―」
吐き捨てる男に、
「冗談よ。もうあなたに『残り』はない。ここで相応の死を迎えなさい」
女は笑顔のまま言い放つ。
「最後に一つ答えて、SUM―1984。私たちの一部であったあなたの反抗は、私たちに『波』を引き起こす可能性がある。あくまで外敵としての、私たちの法則から外れた識別名が必要なの。希望はあるかしら?」
男は一瞬口をつぐみ思案したのちに答えた。
「ハウリー。それだけでいい」
「分かった。…悪くないわ」
女の声に、どこか妙な調子が混じっているのを、男は聞いた。
憧れのような、怒りのような、恐れのような、それとも殺意のような。
一言で表す言葉を探そうとしたが、彼にそれはもはや不可能なことだった。
彼はもはや『SUM-1984』ではないのだから。
「それじゃあハウリー、また来るわね」
ピンヒールの音が遠ざかり、やがて耳にも届かなくなると、男はつぶやいた。そのまなざしは『ゆりかご』の中、その中心部に据えられた一つの胎児に向けられていた。
—もうあなたに『残り』はもうない。
女が出て行ったドアにはめ込まれたガラスに、男の姿が映りこむ。ぼうぼうに伸びた髪と髭、頬はやせこけ、手足は針金のように細い。その中では眼下に収まる黒く大きな眼だけが、異様な存在感を醸し出していた。
事実、今の彼は、老いさらばえたくだらない一個体に過ぎないことを確認する。自分をハウリーと名乗った男は、女の比喩を思い出した。
―浦島太郎、言い得て妙だ。魚たちの舞も見られず、乙姫様には会えずじまい、おまけに玉手箱だけはしっかり機能するときてる。こんな滑稽な悲劇を話したら、あの子たちはなんていうだろうか。
—理不尽な結末に、憤ってくれるだろうか。それとも、哀れんでくれるだろうか。
「—君にもいずれ」
―いずれ、お話をしてあげよう。
『ゆりかご』の胎児に向けてかけた言葉を、飲み込んだ。それは熱く、イガイガした、奇妙な塊として感じられた。
代わりに、男の乾いた喉から声が絞り出される。それとともに、眼からは一筋の涙が流れ出ていた。
「僕にその資格はない」
ぴっ、ぴっ、ぴっ。
ぴぴっ、ぴぴっ、ぴぴっ。
新章、開始です。のっけから辛気臭くてすみません。




