プロローグ②
その刃を少年の身体に突き立てたまま、男はチェーンソーのスターターロープを渾身の力で引いた。
漆黒のチェーンソーの原動機が躍動を始める。引き裂くという己の本領発揮に文字通り身を震わせているようでもあった。
把手後部の吸気口へ周囲の雪が吸い込まれてゆき、そのたびにチェーンソーがずくん、と鼓動を打つように肥大化していく。その勢いは周囲の積雪や落ちている純白の生物たちの死骸をも吸入し始めた。刃を走る歯の速度は吸い込んだ量に比例して極大化していき、その勢いのまま少年の肩口まで刃を切り上げた。刃が少年の身体を抜ける刹那、暴れる鋸刃の運動エネルギーが少年を上空へ放り投げる。
地上の男と空中の少年の視線が交差した。
大量の失血によって視界が急速に狭まってゆく少年の目がとらえたのは、男の両腕であった。獣たちのオブジェを身代わりにしてなお避けきることのできなかった少年の一撃は、男の黒色の外套を焼き切っていた。そこから覗く彼の両腕は、とても人間の物とはいいがたい異形であった。ガサガサとし古びた、白い蔓が無数に寄り集まり、たまたま腕の形をとっているかのようだ。
一方、男が目にしたのは少年の唇のかすかな動きだった。
「『巨人の腕』」
―なぜ。
男は疑問を覚えた。『巨人の腕』という言葉の意味にではない。ただ彼に向けられたことのない表情を向けられたが故の困惑といってもよかった。
―なぜ哀れんでいるのか?
その答えが出るよりも早く、少年の身体はどしゃり、と地に落ちる。少し遅れて、少年の円匙が傍らに深く突き刺さる。
男は胸中に困惑をひとまずしまい込み、物言わぬ肉塊となった彼の亡骸の傍らに立つと何事かつぶやいた。たちどころに、男の周囲には先ほどオブジェとなって男の身代わりとなったものと同じ、首無しの動物たちがわらわらと湧くように現れた。あるものは飛び、あるものは駆け、あるものは地を這って。馳せ参ずる手段は違えど、目的は少年の死体の解体ただ一つにあった。少年の肉を断ち、骨を刻むのを待ちかねるかのように、男と少年の死体の周りに円をなし、頭部の鋏をかちかちと鳴らしている。彼らが待ての姿勢を維持できているのは、ひとえに男の両腕によるものであった。
男はひざまずくと、少年の身体を異形の腕で貫いた。
「登ってこい。高い、高い、マメノキを伝って…『彼女』をここから解放してくれるのは、お前の『怒り』だけだ」
思い詰めた表情の彼はふと思い出したように表情を崩し、こう続けた。
「頼んだよ、『ジャック』」
何者かへ託す言葉は、異形の腕によって肉を裂き、骨を砕く音にかき消された。貫かれた少年の体が反射でぴくりと動く。
ふと、男はかすかな違和感を覚える。貫いた腕を、少年の身体が強く締め付けるようにとらえている。反射的な筋肉の痙攣運動ではない。『動かない』のは腕だけではなかった。男の足元は、冷え固まった溶岩様の物質に堅く固定されていたのである。物質は少年の傍らに突き刺さった円匙を起点として流れ出ているようであった。
男は思わず口端に呆れた笑みを乗せた。
「僕のことしぶといって言ってくれたよな。君が言えたクチか?」
少年の瞼が見開かれる。男の皮肉めいた賛辞には応えないまま、
「その『腕』、敬意は払いませんが、その覚悟は認めます」
ゆらりと立ち上がる。
「しかし、あなたの覚悟を持ってなお余りあるほどの忌まわしさだ」
少年は『詰み』の代わりに宣告した。
「『確定』」
現象の予兆として、くしゃっ、と紙を力任せに握りつぶしたような音が響く。
間を置かずして、轟雷が炸裂した。これまでの物とは比較にならないのは規模だけではない。その数であった。まさにこの地球創造のおり、無数かつ間断なく大地に降り注いだであろう雷が再現されている。光の柱とでも表現すべき大雷霆は、男と彼の周りに集合していた無数の『首無し』を、例外なく飲み込んだ。
男の身体は今度こそ消し炭の像となって、その場に静止した。しかし少年が『巨人の腕』と称した一対の腕は、偉丈夫一人をチェーンソーや防護服ごと消し炭にした威力の落雷を食らってなお、色形そのままに残った。炭化してもろくなった肉体との接続部から崩れ落ちたそれは雪に触れると、そのまま沈み込んでいく。彼の最大火力に耐えきった『腕』を破壊するすべはない。少年の無力さをあざ笑うかのように雪の中にゆっくりと沈み消えてゆく様を、少年は視界の端で忌まわし気にねめつける。
少年はふと我に返り、つい先ほど自身が切り捨てた『首無し』たちによる身代わり人形の下へ歩み寄った。先ほどの大雷霆の余波こそ受けはしたが、直撃は免れたのか。正真正銘消し炭になった男やほかの動物たちとは違い、肉の灼けるにおいを漂わせ、切り裂かれた毛皮の下からはてらてらとした赤色をのぞかせていた。
すでに大方の思考能力を取り去られた「首無し」であるとはいえ、紛れもない生物を躊躇なく自身の身代わりにできる判断速度と、『監視塔』のバックアップなしで使役したあの『腕』の存在。男の脅威をその膂力や巨大なチェーンソーよりも強く印象付けるものこそが、肉のオブジェであった。穏やかな語り口と表情でもってぬけぬけと正義を口にする男の顔を思い出される。少年は彼の持つ覚悟への評価をそのまま、彼自身の危険性へと転用した。
―しかし、もうあの木こり、ハウリーが現れることはない。何人目かは知らないが、耐用回数は既に限界を迎えているはずだ。もっとも、『巨人の腕』までも持ち出してくるのは想定外ではあったが、それはむしろ彼が背水の陣を敷いたことの証左であるともいえた。
―ともあれ最大の障害は排除し、あとは少年の『命題』を果たすのみとなった。そしてそれは、もうすぐかなう。
突如として、雪雲が晴れた。その先に広がるのは青空ではなく、黄昏時の金色だ。雪原はその光をほぼ完ぺきに反射し、周囲を金一色に塗り替えた。
少年は気配を感じて振り返る。そこに立っているのは、一つの人影であった。小袖に白袴の巫女装束をまとい、左手の人差し指には黄石を設えた指輪が燦然と輝いている。その存在感の代償のように、人影からは頭部が欠けていた。
「久しぶり『黄』」
少年は人影に声をかけた。返事はなく、そもそも少年の存在を認識しているのかも定かでない。
「あと二周—あと二周だ。この狂気の世界から、僕は必ず君を救って見せる。そのために―」
少年は『黄』と呼んだ人影に手を伸ばす。赤子が星に手を伸ばすように、一人の男が愛する人を求めるように、老人がかつてあった青春を懐かしむように。
「僕は必ず、『計画:『ブレインシード』を完遂する』。それだけが、僕の『命題』だ」
黄昏時が終わり、世界が暗転する。長い夜の間に、世界は生まれなおす。死に絶えた人類のうち、あるものは新たな箱庭に新たな生を受ける。可能性を模索するために。あるものは新たな樹となる。世界の礎となるために。白い森は有限の箱庭の中で地層のごとく幾重にも重なり、狂気と怨嗟の声を響かせ続ける。




