序章:ネムノキ
薄暗い部屋に男が一人、安楽椅子に力なく身を横たえている。
ぴっ、ぴっ、ぴっ―。
つながれた生命維持装置のかすかなバイタル測定音だけが、男の生命活動を保証していた。静寂といっても過言ではない空間に、電子音声が響く。
『『殺意』の解錠、及び『マメノキ』の発芽が確認されました。『オーガ・インストーラ』現段階での起動部位は『心臓』『右腕』『左腕』。『計画:ブレインシード』は最終段階へ移行します。なお、現時点における実行可能性は60%を—。』
その声を聞く者はいない。一つの世界が取り壊されようとしているにしては、部屋はあらゆる事象に無関心すぎた。安楽椅子の男は動かず、声を聞きつける者もいない。
電子音声の無機質な報告が終わると、部屋は再び、何事もなかったかのようにバイタル測定音に静けさを明け渡した。
ぴっ、ぴっ、ぴっ―。
△△△
「—ぁ、うぅ―」
僕の右目は塞がれて、残された左眼もまた満足に働かず、白くぼやけた視界しか寄こさない。
声帯は持ち主に反乱を起こしたように一斉に裏返って、かすかなうめき声ばかりを出し続けている。
手足は当然のように動かない。まあ、動かそうとすら思わないんだけど。
なぜならそんな考えすら浮かばない、いや浮かべることすらできないからだ。
僕の右目からは、『樹』が生えている。『樹』は、厚かましくも僕の頭蓋を鉢にして、脳みそを肥料にして、すくすくと成長していた。
いまや僕の白くぼやけた視界の多くを占めるのは、幹、枝、葉、そして花だ。櫛のように細かい無数の花弁を、椀を逆さに向けたような形にして天へ捧げている。ネムノキの花に違いない、と僕は思った。
本来なら先端を薄紅に染めた美しい花だ。しかし頭上に咲き誇るそのすべてが、薬で漂白されたように真っ白だ。
僕を苗床にした真っ白なネムノキの樹は、足元に苗床の僕を踏んづけているのを忘れているかのように、意気揚々とその背丈を伸ばしていった。
おそらく、僕はこのネムノキの樹に何もかもを吸い取られて、死んでいくのだろう。なんでそんなことが分かるのか? みんなそうなったからだ。
皆の頭から、破裂するように樹が生えてきた。隣の家のおじさんにも、その子供にも。きっと、いつも家にご飯を届けてくれていたお兄さんにも、僕の知らない人々の頭蓋にも一斉に、そして平等に、樹は生え始めているのだろう。
そして、樹が生え始めたのは僕らにだけじゃない。あの白く巨大なマメノキが、僕らが暮らしていた地下都市、『植木鉢』の天井を突き破らんとするばかりに生長していくのを、僕は白く濁る視界の端にとらえていた。
いつからだっけ。真っ白なネムノキに浸食されて残っていない脳みそで、僕は何とか考える。
前触れはあった。頭に流れ込んできた、あの感情。
―「殺したい」という、殺意の奔流。
あの奔流が、僕の中の最後の『何か』を外したのだ。
がちり、という決定的な音と一緒に。
流れる殺意を吸い込んで、脳みその中の何か、いわば種のようなものが発芽したに違いない。
何とか結論にはたどり着いたけど、何が変わるわけでもない。
もうすぐ死ぬだろうという推論を、より強固にしただけのことだ。
みしり、と、僕の頭蓋に白い根が張っていくのが分かる。僕は、土中にうずくまる蝉の幼虫の小さな体に、冬虫夏草が白い菌糸を詰め込んでいく様を連想した。
かつん、かつん。
白いネムノキが根を張る音とは別に、硬質な音が響いている。それがハイヒールが作り出す足音だと気づいたのは、僕が倒れたすぐ横に女の子が立ち止まった時だった。
白くぼやける視界にあってなお、彼女の瞳と指輪に設えられた紅玉、そして握られた枝切ばさみが放つ紅は鮮明だった。まっさらな紙面に落とした赤い血のしずくのように。
「きれいな花ね。ネムノキかしら」
彼女は僕の眼から生えたネムノキの花の一房を摘み取り、もてあそびながら言った。錫を打ったような、凛とした涼やかな声だ。
僕から摘み取られたネムノキの花は、彼女の細く白い手にもてあそばれているうちに真っ赤なリコリスに姿を変えた。
「あら、あんた、私のことなんだと思ってるの?」
彼女が上げたわずかに驚きを含んだ声は僕の耳には届かなかった。僕の意識を支配していたのは、一つの疑問だったから。
ーどうして彼女からは『樹』が生えていないのだろう?
僕は不思議に思いながらも、女の子に早く逃げるように言った。
しかし彼女の美しい声とは打って変わって、悔しいことに僕の喉が寄越したのは、才能のない吹き手が吹いたラッパのようなうわずった声だった。
「—うぅ、あ」
「しぶといわね、哀れなものね。生きてるはずがないなんて思っていたけれど、まさかここまで侵食されて生き残っているなんて」
少女は、ふぅん、と考え込むようなそぶりをしばらく見せた後、決意したように言った。
「いいわ、あんたは再利用してあげる。まあ、もとよりその気ではいたけれど。その生きぎたなさを見たところ、やっぱりあの男の息子ね、ジャック」
僕のことを知っているのか。そして、父さんのことも。疑問は尽きないが、それを声に出すことはもはやままならない。『樹』の侵食は進んでいた。少女の声には軽い嫌悪の情が聞き取れた。僕に対しての感情ではない。
おそらく、—父さんに対しての。
「冷酷よね、薄情よね。見捨てられたのよあなた。私に丸投げして、あの男は『マメノキ』に向かったの。『青』はこれで終わりだと息巻いているようだけど、こんなんであいつが諦めるわけがない」
父さんを侮辱した少女の言葉に、僕は怒りを覚えた。怒りは一時的にだが、侵食されている言語野と声帯を、短い時間ではあるが再び僕の制御下に呼び戻してくれた。
「—父さんは『木こり』だ。父さんは樹を伐り倒して―巨人を倒して―みんなを守ってくれるんだ」
僕は何を言っているのだろう。不完全に働く言語野のせいか、いつか父さんが聞かせてくれた寝物語が入り混じっている。木こりは巨人を倒したりなんかしない。
少女は僕の言葉に驚きを口にする。
「父親にまったく似ていないわね。本当に素直な子。だから―」
しかし彼女が驚いたのは、僕がしゃべれたという事実に対してではないようだ。
「だから、最後に一つ謝罪しておくわ。命は助けてあげる。だけど、あなたは私の復讐の手段になるの」
少女の声に、何かが混じる。
なんだ、これ—罪悪感?
「あんたは、返り血に染まる自分に苦しむでしょうね。それはとっても悲しいこと、忌まわしいこと。だけどこれだけは、いつも頭の片隅にしまっておきなさい。たとえ思い出せなくともね。—あんたは、私に振るわれた刃に過ぎない」
僕は、彼女が最後の言葉を口にする前に、深く呼吸したのを聞いた。吸い込んだのは空気だけじゃない。別の何かが含まれているように思えた―例えば覚悟のような。
「ただし、どう振るわれるは決まっていても、どのような刃になるかは、あんたが決められるはず。だから今は眠るの、ジャック」
眠る―そうか、忘れていた。僕はネムノキに脳を吸い取られて、もうすぐ死ぬんだった。
意外な真実を知った時のように、僕は新鮮な驚きを覚えた。今や恐怖はなかった。痛みもなく、頭上には花が咲き誇っている。そこまで悪くない風景のようにすら思えた。
ただし残念なことが一つあった。
死ぬその時になってなお、どうやら天使はやってこない。美しい女の子はやってきたけど、神様の使いという感じではなさそうだ。
それはそうだ、こんな地下の世界まで、神様の眼が届くはずがないからな。神様がいたとしての話だけど。
やってくるとしたら、死神ぐらいだろうか。真っ黒な服を着てぬるりと光る大きな鎌を担いだ死神だ。きっと僕の眼が届かない地中から蛇のようにぬっと顔を出して、僕を真っ黒な暗闇に引きずり込んでいくのだろう。
真っ黒な暗闇か、奇妙なことだ。僕の頭蓋はきっと、白い根っこで埋め尽くされているというのにー。
『介入』
僕の意識は闇に沈んでいく。そのさなかに、鋏の鳴る音を聞いた気がした。
始めまして、リオです。
まずこの第一話を読んでいただけたことに深く感謝申し上げます。
必ず完結までもっていきますので、是非この先も読んでいってください。
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