『越境』
『『『『除け!喰らえ!奪え!』』』』
めきめき、ばきばきと凄まじい音ともに倒壊しながら、『カエデ』は吠えた。
叫びとも、ましてや意味を持った言葉として耳に届いたわけでもない。しかし青年の心は理解している。
―動けない!
青年の斧を持つ手は震え、冷汗が体中をびっしりと覆っている。これまで感じたことのない感情が、青年の精神を支配しようとしていた。
恐れである。
これまで、いくら森の危険にさらされようとも、青年は「伐る」側であり、森は「伐られる」側の存在であった。これまで『森』が彼を攻撃しようとするのはただの異物の排除のためであり、青年が樹を伐るのは、それが『命題』の一部であるからだった。そこに本来、殺意は不要なはずだった。
しかし今、死にゆこうとする目の前の『樹』は、何らかの手段でもってジャックを殺そうとしている。それも明確に、彼を憎み、妬み、恨んだうえでの殺人を犯そうとしているのだ。
人を殺すことのできる存在を、彼は一つしか知らなかった。
「人間なのか?」
なんて馬鹿馬鹿しい問いだ。迅速にもう一撃を加え、『樹』の息の根を完全に止めるべきであることは理解している。しかし、『命題』が彼にそれを許さない。彼は樹を伐るものであって、人を斬るようにできていないのだ。
『脱命条件』、それを「行わないこと」によって『監視塔』が『植木鉢』の住民として認めるための条件。
『『命題』の放棄』、『自己保存の放棄』、『殺人』
中でも『殺人』は、他の二つの命題にも同時に抵触する。そのため殺意を持った段階で本来『機能』からの強烈な制止がなされるはずだった。いまだかつてそれを振り切った人間はいない。
ゆえに、この世に『殺人犯』はいないのだ。
しかし、禁止されているということは、『可能である』ことにほかならない。
『人』には本来、『その機能』が備わっていると。
青年の言葉を肯定し、嘲笑うかのようだった。
細かな繊維がより集まって糸をなすがごとく、『声』は徐々に収束していく。
『よクも』
『僕ーあたしー俺ー私ー我々ノ!』
『上に立てタもノダ!』
『踏みにジれたモのだ!』
『見下ロセタモのだ!』
「クソっ、スパイクが聞いていたのは」
―「カエデ」は「うるさすぎる」。
「『これ』か!」
呆気にとられていたジャックは、背後からの殴打に気づかなかった。
吹き飛ばされ、ゴロゴロと転がる彼の視界に、人型のシルエットが映りこむ。
その人影を中心として、つい先ほどまで樹への攻撃で動きを止めていた生物群がより集まり始めた。
ぐちゃり、ぐちゃり。
それら互いには境界をなくして溶け合い、しかし確かに新たな輪郭を形作っていく。足元から積みあがるように続く融合と成型は、「それ」の体高が10mをこしてもなお続いた。
ジャックの前に立ち上がったものを一言で表すならば、『首を無くした巨人』であった。
十数メートルに及ぼうかという巨躯は、歩行するだけで足元の青年の命を脅かし、剛腕の一撃はあらゆるものを粉砕せしめるだろう。
青年はその事実を理解していた。
巨人が、暴、とその剛腕を振り上げる。
青年の死は、コンマ数秒後に確定しようとしている。
ほぼ確実な死もたらすだろう横撃を前にして、青年の脳は思考でもって恐怖を薙ぎ払った。命に手をかけられること自体は、彼にとって珍しいことではない。
歴戦の木こりである彼が思考をやめる時はすなわち死を迎えたときだけだった。
―腕の一撃。あのリーチだ、俺の強化された脚力でも、おそらくかわし切れない。斧で撃ち合うか?そのまま吹き飛ばされるのが関の山だ。ならば。
青年はあえて前に跳びこんだ。狙いは踏み出された巨人の右足。腕の一撃が少年をとらえるその前に、最も荷重のかかる部分にダメージを与える。勢いを殺すことはできないが、バランスを失った一撃は青年のわずか頭上を掠めるだろう。その後のことは―。
「後で考える!」
彼の見立てが正確に実行されたなら、巨人の一撃をかろうじてかわすこともかなっただろう。しかし。
ぼこり。
巨人の体表に、泡のように浮かび上がったのは―。
『お兄ちゃん!』
―ああ最悪だ。
『嫌だ、やだやだ死にたくない!』涙まで流して、その顔が再現していたのは弟—ジョンの死にざまだった。
―一瞬でもお前のことなんて。
「思い出したくなかった!」
新しく青年の胸中を支配した後悔は、致命の一撃を呼び込んだ。自らの悪手に悪態をつく暇もなく迫りくる大腕の威力を相殺すべく斧を構えるも、無駄なあがきであった。
青年の身体が木の葉のごとく宙に舞う。衝撃を真っ向から受け止めた大斧は折れ砕け、持つ右腕は肩口からちぎれとび、鮮血が飛び散る。
しかしそれを目の当たりにすることすらなく青年の意識はあっけなくホワイトアウトする。
彼の意識がその輪郭を失う直前—。
ちょきん。
『介入(Slit)』
鋏の鳴る音を聞いた。




