第9話 数えた者だけが、次の死を止められる
夜明け前に、東区画で三人が死んだ。
俺が封鎖と水分離を説いたとき、聞かなかった区画だ。商いの妨げになる、旅人が寄りつかなくなる――そう言って、顔役が首を横に振った。あの区画だけ、井戸に木の蓋はかからず、汚れた水と飲む水は同じ路地を流れ続けた。
報せを持ってきたのは、その東区画の子どもだった。息を切らして俺の宿に駆け込み、「みんな、灰色になってる」と言った。
俺は帳面を開き、三人の名を書き写した。数える。それが、いま俺にできる唯一のことだった。
「……止められたのに」ミレイユの声が、震えていた。「わたしたち、止められたのに」
「泣いても熱は下がらない」俺は帳面を閉じた。「立て。数えるぞ。数えた者だけが、次の死を止められる」
セルレの町を、俺は最初の日に区画で割った。導入した区画と、拒んだ区画。同じ町、同じ川、同じ病。違うのは、水を分けたか、分けなかったか。それだけだ。
昼前、俺はミレイユに二枚の帳面を町の広場で開かせた。
導入した西区画。新規発症、この三日でゼロ。快復して床を離れた者、十九人。
拒んだ東区画。発症、日ごとに倍。死者、七人。今朝でさらに三人。
「見て」ミレイユが、集まった町人に帳面を突きつけた。声は、もう震えていなかった。「同じ町なのに、こっちは誰も死んでない。こっちだけ死んでる。祟りなら、なんで区画で分かれるの? 川を分けた区画だけ、生きてるの。――偶然だと思う? 十九人と、十人。これ、全部、水の道の違いだよ」
町人がざわめいた。誰かが東区画のほうを振り返り、誰かが西区画の井戸の蓋を見た。数字は、祈りよりも雄弁だった。
「西区画の連中は、たまたま運がよかっただけだ」誰かが言った。
「運じゃない」ミレイユが即座に返した。「運なら、東と西で、こんなにきれいに分かれない。運は、区画の境で止まったりしない。止めたのは、水の道だよ」
俺は黙って、その横に立っていた。かつて村で、俺が数字を並べて村人を説き伏せたのと、同じことを、いまはミレイユがやっている。俺の口を借りず、自分の言葉で。彼女は、村の記録係から、人を動かす者に、一歩、踏み出していた。
その広場の隅で、査察官ヴェイルが立ち尽くしていた。
ヴェイルは、この十日、瀉血で「治療」を続けていた。体液の均衡を欠けば病は生じる、瀉血は千年の学だと言って、患者の腕を裂き、血を抜いた。抜くたびに、患者は青ざめ、脱水が進み、そして――。
「ヴェイル様の患者は」ミレイユが、三枚目の帳面を開いた。手が、少しだけ止まった。それから、まっすぐに読み上げた。「十四人。……全員、亡くなりました」
広場が、静まり返った。
ヴェイルの白手袋が、細かく震えていた。「でたらめだ。血を抜けば体は軽くなる。均衡が――」
「軽くなるように見えるだけだ」俺は言った。「抜いた分だけ、その人は早く乾いて、早く死ぬ。あんたが十四人から抜いた血は、十四人ぶんの寿命だ。あんたは治療していない。数えていないだけだ」
ヴェイルは何か言い返そうとして、口を開き――閉じた。町人の目が、もう、彼を見ていなかった。十日前まで王都の権威にひれ伏していた顔が、いまは背を向けていた。信は、血よりも速く、彼から流れ出ていた。
その夜、東区画の顔役が、俺の宿の戸を叩いた。
拒んだ張本人だ。俺の説明を鼻で笑い、商いを盾に区画を閉ざした男。その男が、土間に膝をついていた。
「娘が」顔役は、絞り出すように言った。「娘が、灰色になった。ヴェイル様は……もう、刃を持つ手が震えて、逃げた。頼む。あんたを笑った。あんたの言うことを聞かなかった。それでも――娘だけは」
「聞かなかった代償は、あんたが背負う」俺は立ち上がった。「だが、娘は代償じゃない。案内しろ」
東区画の奥、狭い部屋で、幼い娘が横たわっていた。唇が灰色に染まりかけている。高熱、脱水。だが――まだ、間に合う。
「煮た水を持ってこい。塩と、蜂蜜を」俺は袖をまくった。「血は抜かない。逆だ。乾いた体に、水を入れる。少しずつ、何度も。ミレイユ、記録を」
「うん!」ミレイユが、匙を握った。もう、指示を待つ手ではなかった。彼女は自分で娘の脈をとり、汗を拭き、飲ませる間隔を決め、帳面に刻んだ。祈祷の助手だった娘が、いま、命の順序を自分の手で動かしていた。
夜通し、水を入れた。塩と蜂蜜を溶かした水を、匙で、何度も、何度も。
途中、娘の呼吸が浅くなった。顔役が「もう、だめなのか」と縋るように俺を見た。俺は脈をとり、間隔を詰めろとだけ言った。ここで匙を止めれば死ぬ。止めなければ、まだ戻れる。慌てても熱は下がらない。数えて、順序を守る。それだけだ。
明け方、娘の唇に、赤みが戻った。
灰色が退いていく。熱が、ゆっくりと下がる。娘が薄く目を開けて、「のど、かわいた」と言ったとき、顔役は声を上げて泣いた。俺は、その頬を伝う水を見て、何も言わなかった。ただ、帳面の「還った者」の頁に、一行、書き足した。
祟りではなかった。祈りでもなかった。ただ、乾いた体に、水を入れた。それだけで、一人が、灰色の淵から戻ってきた。
「……エリアス」ミレイユが、朝の光の中で、匙を置いた。目が赤い。「わたし、今、ちゃんと、一人、数えたよね。救えなかった、じゃなくて。救った、を」
「数えた」俺はうなずいた。「お前が、数えた」
彼女は、少しだけ笑った。三年前、弟を看取った目とは、違う目をしていた。
娘が助かった報せは、区画を越えて町を巡った。東区画の残りの家々が、次々と俺のもとへ井戸の蓋を求めに来た。拒んだ区画が、自ら水の道を分けはじめた。痛みとひきかえに、セルレは、ようやく順序を受け入れた。
その広場に、ヴェイルが現れた。
面目を失い、患者を失い、町の信を失った男が、最後の札を切りに来た。
「――異端審問だ」ヴェイルは、震える声を、無理やり張り上げた。「ヴェント。貴様の療法は、千年の医学を否定する異端だ。私はこれより、筆頭ガレン様に急使を発する。宮廷医師団が、貴様を裁く。辺境の素人が、王国医学を嘲笑った罪をな」
町人がどよめいた。ガレン――宮廷医師団のトップ。その名は、辺境にすら重く響いた。
だが、俺の目は、ヴェイルの言葉ではなく、彼の腰にあった。
逃げ帰る前に、彼が投げ捨てた瀉血刀。町の子が拾って、俺に返しに来ていた、その刃。柄に、紋章が刻まれている。俺は、それをはじめて、まともに見た。
ヴェルダンの紋章では、ない。
見覚えのある形。だが、どこで見たのか、すぐには思い出せない。ただ、背筋の奥が、ざわりとした。この「千年の学」の刃に、なぜ、王国のものではない紋章が刻まれているのか。
「数える者は」俺は刃を握ったまま、顔を上げた。「審問を恐れない。呼べ、ガレンでも、誰でも。数字は、何人来ても、覆らない」
だが、俺の指は、その紋章から、離れなかった。
第9話をお読みくださり、ありがとうございます。
拒んだ区画の犠牲、瀉血の全滅、そして灰色の淵から戻ってきた一人の娘。「数えた者だけが、次の死を止められる」――この言葉を、ミレイユが自分の手で証明した回でした。彼女はもう、救えなかった過去を数えるだけの目をしていません。
面目を失ったヴェイルは、最後の札――筆頭ガレンの召喚と異端告発を切ってきます。けれど、この話の本当の毒は、そこではありません。ヴェイルの瀉血刀に刻まれていた、王国のものではない紋章。「千年の学」と呼ばれるその刃は、いったい、どこから来たのか。エリアスの指が離れなかった、その理由が、次回、静かに水面へ浮かびます。次回、第10話。刃に刻まれていたのは――。




