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「感情がない」と婚約破棄された宮廷薬師、辺境で防疫制度を敷いたら王国が頭を下げてきた ―戦わずに疫病を制した追放医師の再建録―  作者: 水無月カレン


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第10話 刃に刻まれていたのは、隣国の紋章だった

セルレの中央広場に、査察官ヴェイルの声が響いた。


「エリアス=ヴェント。宮廷医師団の名において、貴様を異端と告発する」


白い手袋の手が、一枚の書状を高く掲げた。封蝋には、王都の紋章。宮廷医師団の筆頭、ガレンの名で発される召喚状の写しだ。


「祈祷を捨て、瀉血を禁じ、千年の学を愚弄した罪。筆頭ガレン様が直々に裁かれる。町の者よ、よく見ておけ。これが、辺境の素人療法の末路だ」


広場に、人だかりができていた。だが、その顔は、ヴェイルが望むようには動かなかった。


俺は、帳面を閉じた。


「告発の前に、数を読み上げてもいいか」


「まだ言うか」ヴェイルの唇が歪んだ。「数字など、素人の落書きだ」


「ミレイユ」


「はい」


ミレイユが、帳面を開いて、前へ出た。声は、震えていなかった。この十日で、彼女はもう、人の前で数字を読むことを恐れなくなっていた。


「ヴェイル様が瀉血で手当てした患者、三十八人。そのうち、生きているのは……四人です」彼女は顔を上げた。「エリアスの手順で看た患者、四十一人。亡くなったのは、二人。運び込まれた時にはもう、唇が灰色だった二人だけ」


広場が、静まりかえった。


「でたらめだ」ヴェイルの声が、わずかに上ずった。「その二人も、貴様が――」


「マレナのおかみさん」ミレイユは、人だかりの一人に呼びかけた。「あなたの旦那さん、ヴェイル様に三度血を抜かれて、それから、どうなりました?」


肥えた女が、震える声で言った。「……朝に、冷たくなっていました」


「ラルフ」ミレイユは次に、まだ幼い声のほうを向いた。「あんたの妹は?」


痩せた少年が、袖で顔をこすった。「……エリアス先生が水を、塩と蜂蜜の水を、何度も。今は、走り回ってら」


一人。また一人。町の人間が、自分の家で起きたことを、口にしはじめた。


数字は、抽象ではない。この広場に立っている、一人ずつの、生きた顔と死んだ名だ。ミレイユが読み上げたのは落書きではなく、その全部だった。


ヴェイルの顔から、血の気が引いていった。


「……黙れ。黙れ! 体液の均衡を欠けば病は生じる。瀉血は千年の――」


「その千年で」俺は、静かに言った。「あんたは、この町で三十四人、殺した」


ヴェイルは、言葉を失った。


留飲というものを、俺はあまり知らない。だが、権威が音を立てて崩れるのを、これほど多くの目が見届けた瞬間を、俺は初めて見た。町の人間が、一歩、また一歩と、ヴェイルから離れていく。彼を囲んでいた輪が、ほどけていく。もう、誰も、白い手袋を敬わなかった。


ヴェイルは、召喚状を握りつぶした。


「……覚えておけ」声は、憎しみで掠れていた。「筆頭ガレン様は、こんなことでは終わらせん。宮廷医師団の総力が、貴様を潰す。いいか、王女殿下すら――正統医療の側だ。貴様の味方など、この王国のどこにもいない」


そう吐き捨てて、彼は身を翻した。従者が、慌てて荷をまとめる。撤退だった。王都から来た権威が、辺境の帳面一冊に敗れて、川を上っていく。


そのとき、ヴェイルの腰から、一振りの刃が落ちた。


瀉血刀だった。細身の、血を抜くための刀。従者が拾おうと屈む前に、俺の目は、その柄に吸い寄せられていた。


柄頭に、紋章が刻まれている。


俺は、それを知っていた。


「――待て」思わず、声が出た。


ヴェイルが振り返る。だが俺が見ていたのは、彼ではなく、刃だった。従者がそれを拾い、鞘に納め、一団は去っていった。


俺は、しばらく、その場を動けなかった。


「エリアス?」ミレイユが、怪訝そうに俺を見た。「どうしたの。勝ったのよ、わたしたち」


「……あの刃に、紋章があった」


「紋章?」


「王都のものじゃない」俺は、指で、宙にその形をなぞった。三つの弧が組み合わさった、独特の意匠。「あれは、カルデアの紋だ」


ミレイユの顔が、こわばった。カルデア。上流の、国境の向こう。羊の死骸を沈めた杭の跡があった、あの川の、さらに上。


「宮廷の瀉血刀に……どうして、隣国の紋章が?」


俺は、答えを持っていなかった。だが、いやな符合が、頭の中で並びはじめていた。


体液説。瀉血。「千年の学」とヴェイルが誇ったあの医術は――もとをたどれば、大陸から、カルデアを経て、この王国に渡ってきたものだ。宮廷の医師団が疑うことなく信じ、王女すら正統と呼ぶその医術の、道具そのものに、隣国の紋章が刻まれている。


王国は、疑わない。千年、疑わずに、血を抜いてきた。


もし、その「疑わないこと」を、誰かが利用しようとしているのだとしたら。


「テオが言っていた」俺は、低く言った。「王都の医学は、大陸から来た、と。あの爺さんも、それに絶望して隠居した。俺は、ただの迷信だと思っていた。……だが、これは、ただの迷信じゃないのかもしれない」


「どういう、こと?」


「わからない」俺は帳面を握りしめた。「だが、上流の羊も、杭の跡も、この刃の紋章も、全部、同じ方角を指している。川の、上だ」


風が、川面を撫でていった。セルレは救われた。ヴェイルは去った。だが、俺の背筋に残ったのは、勝利の熱ではなく、冷たい予感だった。敵は、ヴェイル一人ではない。その後ろに筆頭ガレンがいて、そのさらに後ろに――国境の影がある。


そこへ、川下から、一頭の馬が駆け込んできた。


泥にまみれた早馬の使いが、広場に転がり込むように降り、叫んだ。


「城壁都市ヴァルクで――灰死病だ! 一日で、何十人も倒れてる! 助けを、誰か、助けを!」


ミレイユが、息を呑んだ。ヴァルク。セルレより、さらに下流の、数千、いや万を数える城壁都市。


俺は、使いに駆け寄り、症状を聞いた。高熱。灰色の唇。汚れた水。――そして、流行の広がり方。


聞くほどに、俺の指先が冷えていった。


その型は、村でも、セルレでも見た型と、寸分違わなかった。上流で撒かれたものが、同じ川を、下へ、下へと運ばれていく。ヴァルクは、その一番下だ。


偶然では、こうはならない。


「ミレイユ」俺は、帳面を開いた。まだ白い、新しい頁を。「荷をまとめろ。数えるべき者が、また増えた。今度は――万の単位だ」


第10話をお読みくださり、ありがとうございます。査察官ヴェイルとの対決に、ひとまず決着がつきました。


権威をひっくり返したのは、剣でも弁舌でもなく、ミレイユが読み上げた「一人ずつの数字」でした。生きた四人、死んだ三十四人。その顔と名の前で、千年の学は音を立てて崩れます。ここまで付き合ってくださった読者の方には、少しだけ胸のすく回だったなら嬉しいです。


ですが、勝利の裏で、エリアスは瀉血刀に刻まれた「隣国カルデアの紋章」に気づいてしまいました。王国が千年、疑わずに信じてきた医術。その「疑わなさ」を、誰が、何のために利用しているのか――。そして次回、舞台はさらに下流、万を数える城壁都市ヴァルクへ。上流で撒かれたものと同じ型の病が、いよいよ大都市を呑み込もうとしています。エリアスとミレイユは、今度こそ「万の命」を数えきれるのか。次回もどうぞ、お付き合いください。


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