第11話 都市ヴァルクへ、病は先回りする
早馬の報せは、こうだった。
さらに下流の城壁都市ヴァルクで、灰死病が出た。
セルレを鎮めたばかりだった。ヴェイルは撤退し、宿場町は数字によって救われた。だが、俺たちが数え終えるより先に、病は川を下っていた。同じ河川系だ。上流の汚れが、また、下流の口へ届いた。
「休む間もないの?」ミレイユが帳面を抱えて馬に乗った。声は軽いが、目は笑っていない。
「病は休まない」俺は言った。「なら、俺たちも休めない」
モーグも来た。五十年、この川筋を歩いてきた男だ。「都会は好かんが」と言いながら、鞍にまたがる手は迷いがなかった。「わしの土地勘が、いっぺんくらい役に立つじゃろ」
三日、川に沿って下った。
そして、ヴァルクが見えたとき――ミレイユが、息を呑んだ。
城壁だった。灰色の石が、地平を区切って立っていた。村なら端から端まで叫べば届く。セルレも、歩いて半日で回れた。だがヴァルクは、壁の内側だけで、村がいくつ入るのか見当もつかない。
「……何人、いるの、ここ」
「数千。あるいは、万を超える」俺は答えた。「一つの井戸から、一度に、数百が死ぬ規模だ」
ミレイユの手が、帳面の背をきつく握った。俺は、その手を見た。震えを、数字で上書きするしかない。
「村なら、俺は全員の名前を知っていた」俺は言った。「誰が、いつ、どうして倒れたか、一人ずつ数えられた。だがここでは、俺が一人を看ているあいだに、俺の知らないところで、十人が倒れる」
「……じゃあ、どうするの」
「今は、まだわからない」正直に言った。「だが、順序は同じだ。汚れた水が口に入って、病は広がる。壁が高かろうが、人が多かろうが、それは変わらない。変わらないなら、必ず、断つ手はある」
ミレイユは、俺の横顔を見て、それから前を向いた。少しだけ、握る手の力がゆるんだ。
城門で、話はすぐに折れた。
門番の脇に、宮廷医師団の地方支部の医師が立っていた。若く、身なりのいい男だ。俺たちの旅装を上から下まで眺めて、鼻で笑った。
「辺境の。噂は届いていますよ。祈祷を捨て、瀉血を禁じ、村を惑わす――査察官ヴェイル殿を辱めた、異端の薬師」
「その異端が、セルレを鎮めた」
「数字の、話でしょう」男は白い手で扇いだ。「ヴァルクには正統な医術があります。体液の均衡を整え、悪い血を抜く。千年の学です。辺境の素人療法を、この壁の内に入れるわけには」
門は、開かなかった。
モーグが低く唸った。「押し通るか」
「無理だ」俺は壁を見上げた。「力ずくで信は買えない。数字も、まだ見せていない。……なら、小さく見せる」
門の外にも、病人はいた。壁の内に入れてもらえなかった者たちだ。城門脇の掘っ立て小屋に、十人ばかりが寝かされていた。高熱。灰色に乾いた唇。脱水。見慣れた順序で、死に向かっていた。誰も、水を飲ませていなかった。「悪い水気を抜く」ために、水を断たれていた。
「モーグ、湯を沸かせ。ミレイユ、この十人を、名前と症状で分ける」
俺は、そのなかのいちばん幼い子のそばに膝をついた。六つか七つ。リタと同じくらいだ。唇が灰色で、目がもう合っていない。母親が横で、ただ手を合わせて祈っていた。
「祈っても、熱は下がりません」俺は塩と蜂蜜を溶いた水を、匙で子の口に運んだ。「これを、少しずつ。吐いても、また。半刻ごとに数えて飲ませる。それだけです」
「そんな……水なんか飲ませたら。お医者様は、悪い水気を抜けと」
「渇きで死にかけている子に、水を断って、どうやって助けるんです」俺は匙を止めなかった。「この子は今、体から水が抜けて死にかけている。抜くんじゃない。入れるんです。塩と蜂蜜が、水を体に留める。理屈は後でいい。まず、飲ませてください」
母親の手が、止まった。それから、震える指で、匙を受け取った。
半日、俺たちは門の外で数えた。煮た水。塩と蜂蜜。半刻ごと。汚れた布と、きれいな布を分ける。それだけを、十人に繰り返した。
夕方までに、二人が持ち直した。あの幼い子が、母親の顔を見て、名前を呼んだ。
「マル……」母親が、崩れるように子を抱いた。「マル、あんた……」
ミレイユが、そっと帳面に一行足した。「還った者」の頁だ。彼女は書きながら、少しだけ、笑っていた。
その様子を、門の内から見ていた者がいた。
門番だった。若い医師ではない。ただの、壁を守る男だ。彼は黙って門の閂を外し、俺たちを、狭い通用口から中へ通した。「……上の連中には言うな。だが、うちのかみさんも、同じ熱で寝てる」
留飲でも、勝利でもない。ただ、一人が、目の前で助かった。それを見た一人が、門を開けた。始まりは、いつもそれだけだ。
壁の内は、思ったより、悪かった。
路地は狭く、人が密に暮らしていた。汚水は溝を流れ、その同じ溝の水を、洗い物にも、煮炊きにも使っている家があった。飲む水と、汚れた水が、混じっている。村でいちばん最初に断ったことが、ここでは何百軒で、当たり前に起きていた。
「みんな、水を買ってるのよ」ミレイユが、水を売り歩く男を目で追った。「壁の内は井戸が足りないから。売り水と、溝の水と、雨水。……どれが病を運んでるか、飲んでる本人も、わからない」
「わからないなら、全部を疑って、全部を煮る」俺は言った。「だが、それを何万人にやらせる方法を、俺はまだ持っていない」
「これは……」ミレイユが顔をしかめた。「村の、何百倍も速く広がる」
「ああ」俺は溝の水を、指ですくって匂いを嗅いだ。「一つの水源が汚れれば、この密集だ。数百が、いっぺんに倒れる」
モーグが、都市の外れ――川が城壁の下をくぐって流れ込む水門のあたりを、じっと見ていた。五十年の土地勘の目だ。
「エリアス。あの取水口な」老人は声を落とした。「上に、妙な足場が組んである。人が、川へ下りた跡じゃ。この街の者の仕事じゃない。……セルレの上で見た、あの杭の跡と、同じ組み方じゃよ」
俺は、そちらを見た。
セルレの上流。羊の死骸。何かを沈めた杭の跡。人の手で、水が汚された気配。それと同じものが、この大都市の、口もとにあった。
偶然、病が下ってきたのではない。病が、先回りしていた。誰かが、川を下りながら、水を汚して回っている。
背に、冷たいものが走った。だが、俺は顔には出さない。今は、それを追う時間がない。
路地の奥から、悲鳴が上がった。また一軒、倒れた。次の路地でも。城壁の内で、灰色の唇が、一気に増えはじめていた。
流行は、加速していた。
俺は帳面を開き、ミレイユとモーグを見た。
「数え方を、変える。十人ずつ看ていては、この街には間に合わない」
数千の命が、壁の内で、順序もなく死に向かっている。俺に残された時間は、もう、幾らも無かった。
第11話をお読みくださり、ありがとうございます。舞台が、村から宿場町、そしてついに城壁都市ヴァルクへ――スケールが一段、跳ね上がる回でした。
エリアスのやり方は、いつも同じです。目の前の一人を、数えて、順序を断つ。門前払いされても、彼が最初にしたのは、門の外の十人に水を飲ませることでした。その一つが、頑なな門をひとつだけ、開けさせます。
けれど、壁の内はあまりに広く、あまりに密です。そして取水口には、上流で見たものと同じ、人の手の跡が――。病は偶然ではなく、先回りしていました。
次回、エリアスは「十人ずつ看る」やり方を捨てます。一万人を、どうやって数えるのか。彼が挑むのは、手当てではなく、都市そのものを動かす「仕組み」づくりです。時間はもう、ほとんど残されていません。




