表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「感情がない」と婚約破棄された宮廷薬師、辺境で防疫制度を敷いたら王国が頭を下げてきた ―戦わずに疫病を制した追放医師の再建録―  作者: 水無月カレン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/19

第7話 権威が血を抜くその隣で、俺は数える

宿場町セルレは、川の匂いがする町だった。


村から半日、川を下った先。商人の荷が行き交い、旅籠が軒を連ね、人の数は村の何倍もいた。そして今、その町が病んでいた。表通りには戸を閉ざした家が並び、路地の奥から、うめき声が漏れていた。


「ひどい……」ミレイユが、口元を押さえた。「村の、最初の日みたい」


「規模が違う」俺は言った。「だが、やることは同じだ。数える。順序を見つける。断つ」


町の広場に、天幕が張られていた。真新しい、白い天幕だ。その前で、査察官ヴェイルが白手袋の指を鳴らしていた。俺たちより早く着き、もう「治療」を始めていた。


天幕の中を覗いて、俺は足を止めた。


患者が、寝台に並べられている。その腕から、血が抜かれていた。銅の受け皿に、どす黒い血がたまっていく。ヴェイルの助手が、次々と刃を入れていた。


「その刃を引け」俺は言った。


ヴェイルが振り返った。埃を嫌う目が、俺を値踏みした。「ヴェント殿。辺境からわざわざ、見物ですか」


「血を抜けば体は軽くなる。そう見えるだけだ。抜いた分だけ、その者は早く死ぬ。この病は、体から水が抜けて死ぬ病だ。血まで抜けば、乾きが早まるだけだ」


「体液の均衡を欠けば病は生じる」ヴェイルは、諳んじるように言った。「悪い血を抜き、均衡を戻す。瀉血は千年の学だ。辺境の素人が、口を出すことではない」


言い合っても、患者は救えない。俺は数える者だ。


「なら、賭けをしよう」俺は言った。「あんたはあんたのやり方で診る。俺は俺のやり方で診る。同じ町の、同じ病だ。ひと月後、どちらの患者が生きているか。町の人間が、その目で数える」


ヴェイルの頬が、わずかに引きつった。だが、権威は退けない。退けば、権威でなくなる。


「面白い」ヴェイルは薄く笑った。「本物の医学が、辺境の迷信を叩き潰す様を、見せてやりましょう」



俺たちは、町の東の外れに小屋を借りた。


やることは、村でやったことと同じだ。まず、患者を分ける。熱の出た者を一箇所に集め、健やかな者から遠ざける。次に、水。町の井戸を検分し、川からじかに引いている水路を止めさせた。飲む水は、すべて煮る。汚れた水は、下流の窪みへ流す。二つの道を、交わらせない。


そして、補水。塩と、蜂蜜を溶いた水。乾いていく体に、少しずつ、飲ませ続ける。


「これだけ……?」患者の母親が、不安そうに俺を見た。「血を、抜かなくて、いいの?」


「泣いても熱は下がらない」俺は言った。「だが、この水を飲ませれば、あんたの子の乾きは止まる。俺が数えれば、次の一人が助かる。血は、一滴も抜かない」


母親は、まだ迷っていた。天幕の白さは、この小屋よりずっと立派に見えるのだろう。権威とは、そういうものだ。


それでも母親は、子を天幕へは運ばなかった。小さな匙で、塩と蜂蜜の水を、八つになるという娘の唇へ、少しずつ運びはじめた。俺は帳面に、その子を書いた。まだ「還った者」でも「死んだ者」でもない。ただ、これから数える一人だ。


ミレイユが、隣で同じ水をつくりながら、小さく言った。「この匙、村でリタに飲ませたのと、同じやり方だね」


「同じだ」俺は言った。「村で助かった手順は、町でも助かる。人が増えても、順序は変わらない」


だが、ミレイユが、帳面を開いた。


「じゃあ、こうしましょう」彼女は、まっすぐ町の人たちに言った。「わたしが、全部書きます。ヴェイル様の天幕で診てもらった人も、こっちの小屋で診てもらった人も。名前と、いつ倒れて、どうなったか。ぜんぶ。誰にも、ごまかせないように」


俺は、彼女を見た。祈祷医の助手だった娘が、今は、数えることを武器にしている。



日が過ぎた。


三日目。ミレイユの帳面が、静かに、ものを言いはじめた。


天幕で瀉血を受けた者――十六人。そのうち、三日で息を引き取った者、七人。残りも、唇が灰色に変わりつつあった。血を抜かれた体は、乾きに抗う力を失っていた。


俺の小屋で診た者――十九人。死んだ者、一人。その一人も、運ばれてきたときには、もう手の施しようがなかった老人だった。残りは、熱が引きはじめていた。補水の水を、自分から飲むようになっていた。


「エリアス」ミレイユが、帳面を抱えて駆けてきた。声が震えていた。「見て。……見て、これ」


俺は数字を追った。数字は、嘘をつかない。


五日目。町の広場に、人が集まりはじめた。噂が、川より速く広がっていた。「東の小屋の医者は、血を抜かない」「抜かないのに、生きて帰る」


ミレイユが、広場の真ん中に立った。帳面を、高く掲げた。


「聞いて!」その声は、もう小さくなかった。「天幕で血を抜かれた人。十六人のうち、生きてるのは、あと五人。こっちの小屋の人。十九人のうち、亡くなったのは、一人だけ。……これ、わたしが全部、この目で数えました。名前も、ぜんぶここにあります。疑うなら、確かめて。あなたの、隣の家の人の名前が、ここにあるから」


町の人々が、ざわめいた。誰かが、天幕を振り返った。その目に、もう、白い布地への畏れはなかった。


ヴェイルが、天幕から出てきた。白手袋が、震えていた。


「……小娘の帳面など」彼は言った。「そんなものが、千年の学の証しになるものか。数を、いじったのだろう」


「なら、確かめてください」ミレイユは、退かなかった。「あなたの天幕で亡くなった七人。名前を、ぜんぶ言えます。言いましょうか」


ヴェイルの顔から、血の気が引いた。彼は、自分の患者の名前を、一つも知らなかった。数えていなかったからだ。血を抜くことは知っていて、誰が死んだかは、数えていなかった。


俺は、静かに言った。


「あんたは、均衡を診た。俺は、一人を数えた。この町の人間は、もう、どちらが生きているかを知っている」


留飲ではない。ただ、数字が、あるべき場所に落ちただけだ。



その夜、ヴェイルは天幕を畳んだ。


引き上げる馬の上から、彼は俺を見下ろした。白手袋の下で、拳が握られていた。


「ヴェント殿。あなたは、勝ったつもりでいる」低い声だった。「だが、私は宮廷医師団の査察官だ。この一部始終、筆頭ガレン様に報告する。辺境で祈祷を捨て、瀉血を禁じ、王国医学を愚弄する異端の医者がいる、と。……あなたが数えた命など、王都の一言で、異端の証しに変わるのですよ」


俺は、答えなかった。脅しに、答える言葉はない。俺は数える者で、数字は、王都の言葉より重い。いつか、そうなる。


ヴェイルの一団が、闇に消えた。


「……行っちゃった」ミレイユが、ほっと息をついた。「勝った、んだよね?」


俺は、川下の空を見ていた。そこに、いくつもの灯りが揺れていた。セルレの、南の区画だ。今まで病の出ていなかった一帯に、新しく、熱を出した者の家の灯りが、点々と増えていた。


病は、ヴェイルが去っても、去らない。むしろ、広がっていた。


「いや」俺は言った。「まだ、数え終わっていない」


第7話をお読みくださり、ありがとうございます。権威が血を抜くその隣で、エリアスはただ数え続けました。瀉血の天幕と、補水の小屋。同じ町の、同じ病。どちらが多くの命を残すかを決めたのは、雄弁でも権威でもなく、ミレイユの帳面に並んだ、ひとつひとつの名前でした。


「あなたの、隣の家の人の名前が、ここにあるから」――祈祷医の助手だった娘が、数えることを武器に、権威の前で退かなかった回でした。書いていて、いちばん胸が熱くなった場面です。


ですが、ヴェイルは捨て台詞を残して去りました。「筆頭ガレン様に報告する」――王都の本丸は、まだ動いてすらいません。そしてなにより、セルレの南の区画で、病はいま、静かに燃え広がりはじめています。中規模の町を、二人だけでどう抱えるのか。次回、封鎖という重い判断が、エリアスに迫ります。どうぞ、次の一人を数える先を、見届けてください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ