第7話 権威が血を抜くその隣で、俺は数える
宿場町セルレは、川の匂いがする町だった。
村から半日、川を下った先。商人の荷が行き交い、旅籠が軒を連ね、人の数は村の何倍もいた。そして今、その町が病んでいた。表通りには戸を閉ざした家が並び、路地の奥から、うめき声が漏れていた。
「ひどい……」ミレイユが、口元を押さえた。「村の、最初の日みたい」
「規模が違う」俺は言った。「だが、やることは同じだ。数える。順序を見つける。断つ」
町の広場に、天幕が張られていた。真新しい、白い天幕だ。その前で、査察官ヴェイルが白手袋の指を鳴らしていた。俺たちより早く着き、もう「治療」を始めていた。
天幕の中を覗いて、俺は足を止めた。
患者が、寝台に並べられている。その腕から、血が抜かれていた。銅の受け皿に、どす黒い血がたまっていく。ヴェイルの助手が、次々と刃を入れていた。
「その刃を引け」俺は言った。
ヴェイルが振り返った。埃を嫌う目が、俺を値踏みした。「ヴェント殿。辺境からわざわざ、見物ですか」
「血を抜けば体は軽くなる。そう見えるだけだ。抜いた分だけ、その者は早く死ぬ。この病は、体から水が抜けて死ぬ病だ。血まで抜けば、乾きが早まるだけだ」
「体液の均衡を欠けば病は生じる」ヴェイルは、諳んじるように言った。「悪い血を抜き、均衡を戻す。瀉血は千年の学だ。辺境の素人が、口を出すことではない」
言い合っても、患者は救えない。俺は数える者だ。
「なら、賭けをしよう」俺は言った。「あんたはあんたのやり方で診る。俺は俺のやり方で診る。同じ町の、同じ病だ。ひと月後、どちらの患者が生きているか。町の人間が、その目で数える」
ヴェイルの頬が、わずかに引きつった。だが、権威は退けない。退けば、権威でなくなる。
「面白い」ヴェイルは薄く笑った。「本物の医学が、辺境の迷信を叩き潰す様を、見せてやりましょう」
俺たちは、町の東の外れに小屋を借りた。
やることは、村でやったことと同じだ。まず、患者を分ける。熱の出た者を一箇所に集め、健やかな者から遠ざける。次に、水。町の井戸を検分し、川からじかに引いている水路を止めさせた。飲む水は、すべて煮る。汚れた水は、下流の窪みへ流す。二つの道を、交わらせない。
そして、補水。塩と、蜂蜜を溶いた水。乾いていく体に、少しずつ、飲ませ続ける。
「これだけ……?」患者の母親が、不安そうに俺を見た。「血を、抜かなくて、いいの?」
「泣いても熱は下がらない」俺は言った。「だが、この水を飲ませれば、あんたの子の乾きは止まる。俺が数えれば、次の一人が助かる。血は、一滴も抜かない」
母親は、まだ迷っていた。天幕の白さは、この小屋よりずっと立派に見えるのだろう。権威とは、そういうものだ。
それでも母親は、子を天幕へは運ばなかった。小さな匙で、塩と蜂蜜の水を、八つになるという娘の唇へ、少しずつ運びはじめた。俺は帳面に、その子を書いた。まだ「還った者」でも「死んだ者」でもない。ただ、これから数える一人だ。
ミレイユが、隣で同じ水をつくりながら、小さく言った。「この匙、村でリタに飲ませたのと、同じやり方だね」
「同じだ」俺は言った。「村で助かった手順は、町でも助かる。人が増えても、順序は変わらない」
だが、ミレイユが、帳面を開いた。
「じゃあ、こうしましょう」彼女は、まっすぐ町の人たちに言った。「わたしが、全部書きます。ヴェイル様の天幕で診てもらった人も、こっちの小屋で診てもらった人も。名前と、いつ倒れて、どうなったか。ぜんぶ。誰にも、ごまかせないように」
俺は、彼女を見た。祈祷医の助手だった娘が、今は、数えることを武器にしている。
日が過ぎた。
三日目。ミレイユの帳面が、静かに、ものを言いはじめた。
天幕で瀉血を受けた者――十六人。そのうち、三日で息を引き取った者、七人。残りも、唇が灰色に変わりつつあった。血を抜かれた体は、乾きに抗う力を失っていた。
俺の小屋で診た者――十九人。死んだ者、一人。その一人も、運ばれてきたときには、もう手の施しようがなかった老人だった。残りは、熱が引きはじめていた。補水の水を、自分から飲むようになっていた。
「エリアス」ミレイユが、帳面を抱えて駆けてきた。声が震えていた。「見て。……見て、これ」
俺は数字を追った。数字は、嘘をつかない。
五日目。町の広場に、人が集まりはじめた。噂が、川より速く広がっていた。「東の小屋の医者は、血を抜かない」「抜かないのに、生きて帰る」
ミレイユが、広場の真ん中に立った。帳面を、高く掲げた。
「聞いて!」その声は、もう小さくなかった。「天幕で血を抜かれた人。十六人のうち、生きてるのは、あと五人。こっちの小屋の人。十九人のうち、亡くなったのは、一人だけ。……これ、わたしが全部、この目で数えました。名前も、ぜんぶここにあります。疑うなら、確かめて。あなたの、隣の家の人の名前が、ここにあるから」
町の人々が、ざわめいた。誰かが、天幕を振り返った。その目に、もう、白い布地への畏れはなかった。
ヴェイルが、天幕から出てきた。白手袋が、震えていた。
「……小娘の帳面など」彼は言った。「そんなものが、千年の学の証しになるものか。数を、いじったのだろう」
「なら、確かめてください」ミレイユは、退かなかった。「あなたの天幕で亡くなった七人。名前を、ぜんぶ言えます。言いましょうか」
ヴェイルの顔から、血の気が引いた。彼は、自分の患者の名前を、一つも知らなかった。数えていなかったからだ。血を抜くことは知っていて、誰が死んだかは、数えていなかった。
俺は、静かに言った。
「あんたは、均衡を診た。俺は、一人を数えた。この町の人間は、もう、どちらが生きているかを知っている」
留飲ではない。ただ、数字が、あるべき場所に落ちただけだ。
その夜、ヴェイルは天幕を畳んだ。
引き上げる馬の上から、彼は俺を見下ろした。白手袋の下で、拳が握られていた。
「ヴェント殿。あなたは、勝ったつもりでいる」低い声だった。「だが、私は宮廷医師団の査察官だ。この一部始終、筆頭ガレン様に報告する。辺境で祈祷を捨て、瀉血を禁じ、王国医学を愚弄する異端の医者がいる、と。……あなたが数えた命など、王都の一言で、異端の証しに変わるのですよ」
俺は、答えなかった。脅しに、答える言葉はない。俺は数える者で、数字は、王都の言葉より重い。いつか、そうなる。
ヴェイルの一団が、闇に消えた。
「……行っちゃった」ミレイユが、ほっと息をついた。「勝った、んだよね?」
俺は、川下の空を見ていた。そこに、いくつもの灯りが揺れていた。セルレの、南の区画だ。今まで病の出ていなかった一帯に、新しく、熱を出した者の家の灯りが、点々と増えていた。
病は、ヴェイルが去っても、去らない。むしろ、広がっていた。
「いや」俺は言った。「まだ、数え終わっていない」
第7話をお読みくださり、ありがとうございます。権威が血を抜くその隣で、エリアスはただ数え続けました。瀉血の天幕と、補水の小屋。同じ町の、同じ病。どちらが多くの命を残すかを決めたのは、雄弁でも権威でもなく、ミレイユの帳面に並んだ、ひとつひとつの名前でした。
「あなたの、隣の家の人の名前が、ここにあるから」――祈祷医の助手だった娘が、数えることを武器に、権威の前で退かなかった回でした。書いていて、いちばん胸が熱くなった場面です。
ですが、ヴェイルは捨て台詞を残して去りました。「筆頭ガレン様に報告する」――王都の本丸は、まだ動いてすらいません。そしてなにより、セルレの南の区画で、病はいま、静かに燃え広がりはじめています。中規模の町を、二人だけでどう抱えるのか。次回、封鎖という重い判断が、エリアスに迫ります。どうぞ、次の一人を数える先を、見届けてください。




