第6話 査察官ヴェイル、瀉血を検分に来る
丘を下りきると、査察官はもう馬を下りて、村の入り口に立っていた。
白い手袋。皺ひとつない上衣。宮廷医師団の徽章が、辺境の泥の上で場違いに光っていた。年は四十半ばか。俺を見る目は、犬の糞でも見つけたような色をしていた。
「あなたが、エリアス=ヴェント」男は名乗りもせず言った。「宮廷から流れてきた薬師補。祈祷を捨て、瀉血を禁じ、村を惑わす――査察官のヴェイルだ」
「ヴェイル殿」俺は頭を下げた。「遠いところを」
ヴェイルは応えず、白手袋の指で井戸の縁をなぞった。蓋の木目を、掃き清められた地面を、竈から立つ煮沸の煙を、ひとつずつ検分していく。そのたびに、唇の端が下がった。
「不潔だ」
俺は聞き違えたかと思った。この村は、王国のどこよりも清い。
「病人を分け、水を煮て、汚れを流す。……これのどこが不潔か、ご教示を」
「順序が、だよ」ヴェイルは手袋を検めるように広げた。「病は体液の乱れから生じる。血が濁り、均衡が崩れる。ゆえに濁った血を抜く。瀉血は千年の学だ。それを、水がどうの手洗いがどうのと。――蛮習だ。学を知らぬ者の、猿真似だ」
村人が、遠巻きにこちらを見ていた。リタが、ミレイユの後ろに隠れて、こちらをうかがっている。あの晩、灰色の唇で死にかけていた子だ。俺が血を一滴も抜かずに救った子だ。
「この二週間」俺は静かに言った。「この村の灰死病の新規発症は、ゼロだ。帳面に記してある。ご覧に入れる」
「数字か」ヴェイルは鼻で笑った。「辺境の素人が、いくらでも書ける数字だ。宮廷医師団は、そんなものを学とは呼ばない」
そして、声を張った。村じゅうに聞かせるように。
「エリアス=ヴェント。貴殿を、王国医学に背く異端と見なす。選ばせてやろう。ひとつ、瀉血を村に戻し、医師団に服従すること。ふたつ、異端として、しかるべき処分を受けること。――辺境で好き勝手できると思うな」
村がざわめいた。ミレイユが息を呑むのが、背中で分かった。
俺は、動じなかった。
こういう目には、覚えがあった。
十年前。俺はまだ、師イグナーツのもとで学ぶ若造だった。担ぎ込まれた最初の患者は、俺と同じ年頃の男だった。高熱。震え。師は、瀉血の刃を俺に渡して言った。「お前が診ろ」と。
男は、泣いて頼んだ。血を抜かないでくれ、と。恐ろしいのだ、と。母親も、傍らですがりついた。可哀想だと、俺は思った。この人をこれ以上苦しめたくないと、思った。だから――俺は、刃を置いた。手順を、情で曲げた。
抜くべきだったのか、抜くべきでなかったのか。今なら分かる。あのとき正しかったのは、瀉血ではなく、水と休養だった。だが俺は、そのどちらも、正しく最後までやらなかった。恐れる男の顔から目をそらし、母親の涙に押されて、中途半端に手を止めた。順序を、乱した。
男は、三日後に死んだ。
師は、俺を責めなかった。ただ、こう言った。「情は、いちばん救いたい一人を、いちばん確実に殺す」と。
その夜から、俺は帳面をつけはじめた。救えなかった者の名を、一人ずつ、書き写す。感傷を捨てるためではない。感傷に流された自分を、二度と忘れないためだ。
――だから、権威の脅しくらいで、手順は曲げない。
「服従も、処分も、俺の答えは変わらない」俺はヴェイルを見た。「俺は、いちばん多く助かるやり方を選ぶ。それが数えた結果なら、宮廷が何と呼ぼうと、続ける」
ヴェイルの顔が、赤らんだ。白手袋が、握りしめられた。
「……いいだろう」低く言った。「ならば、証明してやる。この目の前で。瀉血こそが病を鎮める、本物の医学だと。貴様の帳面遊びが、いかに命を弄ぶ子どもだましか――思い知らせてやる」
その言葉が終わらぬうちだった。
村の入り口へ、一頭の馬が駆け込んできた。汗みずくの早馬だ。乗り手が転がるように下りて、叫んだ。
「下流の、宿場町セルレで――灰死病だ! 何人も倒れて、もう手がつけられねえ! 医者を、誰でもいいから――!」
村が、凍りついた。
ヴェイルの唇に、ゆっくりと笑みが戻った。
「渡りに船だ」査察官は馬へ向き直った。「行くぞ、ヴェント殿。本物の医学が、瀉血が、いかに病を鎮めるか。その目で見せてやる。――辺境の数遊びが、どこまで通じるかもな」
俺は、閉じたばかりの帳面を、また開いた。
セルレ。地図の上では、川を下ってすぐの町だ。病は、川を下る。ならば俺も、川を下るしかない。
「ミレイユ」俺は呼んだ。「帳面と、塩と蜂蜜を。数える場所が、村の外へ移る」
「――うん!」ミレイユが駆け出した。翳りのない、まっすぐな声だった。
第6話をお読みくださり、ありがとうございます。ついに、王都との対決の火蓋が切られました。
査察官ヴェイル――「瀉血は千年の学」と信じて疑わない権威です。エリアスの帳面を「数遊び」と嗤い、服従か処分かを迫ってきます。そんな脅しにエリアスが微塵も動じないのは、十年前、師イグナーツのもとで「情に流して最初の患者を死なせた」過去があるから。彼が感傷を排すのは、冷たいからではありません。
そして早馬が告げるのは、下流の宿場町セルレの灰死病。ヴェイルは「瀉血で鎮めてみせる」と息巻きます。次回、権威が血を抜くその隣で、俺は数える――同じ病を前に、瀉血と手順、どちらが多くの命を還すのか。二人が並んで治療にあたる、直接対決が始まります。




