第54話 倒したのは、君が作った数え方だ
三日後、ガレンは王都を出た。
館の門は開いていた。砂利の上に、荷馬車が一台。書物を積んでいる。給仕は二人だけ残っていた。
「思ったより早いですね」
「筆頭代行の椅子は、もうない」ガレンは荷を縛りながら言った。「ない椅子に、座りつづける趣味はないよ」
「医師団の席は、残るはずです」
「残る。三列目のあれだ。……七年、あそこに座った。もう十分だ」
俺は、砂利の上に立っていた。
「一つ、伺いに来ました」
「うん」
「負けたら言う、と仰った」
ガレンは、縄を結び終えて、手を払った。「言うとも」
書斎は、空になっていた。卓と、椅子二つだけが残っている。水差しはない。その卓の上に、一冊の本が置いてあった。
古い。羊皮紙の縁が黒ずんで、綴じの糸が切れかけている。表紙に、文字がある。読めない。
「原本だ」
俺は、動かなかった。
「書庫の奥から、昨日、持ってきた。医師団の帳面には、貸し出しと書いてある。返す期限は、書いておらん」ガレンは椅子に座った。「君に渡す」
「読めません」
「読めん。だから、訳者を探しなさい」
俺は、本に手を伸ばした。伸ばして、止めた。「筆頭」
「もう違うと言っておるだろう」
「あなたは、二十年これを持っていた。持っていた理由も伺いました。……なぜ、いま渡すのですか」
ガレンは、しばらく答えなかった。「私は、君に負けたのではない」
そう言った。
「壁の紙だ。二つの数字を並べた、あの一枚。あれを貼ったのは君ではない。廊下に立っていた三十人だ」ガレンは言った。「そして、質問を出したのはあの医者だ。名は知らんだろう」
「知りません」
「私も知らん。……七十二票だ、ヴェント君。あの七十二人が誰かを、私は一人も知らん」
俺は、その言葉の意味を、少し遅れて理解した。
「私は、君を数えていた」ガレンは言った。「君が何をするか、どこへ行くか、誰に何を教えるか、二十年ぶんの帳面と同じやり方で数えていた。だから、君の手は、たいてい読めた」
「読まれていました」
「だが、あの七十二人は数えられん」この男は言った。「私が負けたのは、君にではない。君が作った数え方にだ」
砂利の音が、外でした。荷馬車が動き出す音だ。
「だから、渡すのだよ」ガレンは卓の本を押した。「君が持てば、君はそれをどこかに書く。書けば、消えん。……私が持っていれば、私が死んだ日に消える」
俺は、本を取った。思っていたより、軽かった。
「訳者の名は」
ガレンは、本の最後の頁を開いた。指が、一行の上で止まった。カルデアの字だ。読めない。
「カルデア、オルドの家」
俺は、その名を、耳で受け取った。「――オルド」
「知っている名だな」
「宿場町セルレで、聞きました。隣国の、毒医師の名です」
「同じ名だ」
「二百三年前と、いまが」
「同じ名だ」ガレンは言った。「カルデアでは、医を継ぐ家は、名を継ぐ。当代が死ねば、次の当代がオルドになる。……いまのオルドが何代目かは、知らん」
荷馬車の車輪が、砂利で一度鳴った。
「二百三年前、王家が呼んだ五人の中に、オルドがいた」俺は言った。「その男が、二十七冊を持ってきて、一冊を訳した」
「そうだ」
「そして、第一章を訳させなかったのは、当時の医師団だ」
「そう書いてある。……ヴェント君、そこは間違えるな」ガレンは言った。「焼いたのは、この国だ。持ってきた者ではない」
「では、なぜ、その男は名を残さなかったのですか」
ガレンは、はじめて、答えるのに長くかかった。
「原本には、名がある」
「訳のほうには、ない」
「ない」
「誰が消したのですか」
「誰も消しておらん」ガレンは言った。「訳のいちばん上の行を、書いたのは訳者自身だ。訳者は、そこに自分の名を書かなかった。……自分が訳したものが、二章目だけだったからだと、私は読んでいる」
俺は、本を胸に抱えたまま、立っていた。
二百三年前、一人の隣国の医師が、二十七冊を運んできた。この国は、そのうち一冊の、二章目だけを訳した。
訳者は、名を書かなかった。書かなかったのは、恥じたからか、あるいは。
「あなたは、どちらだと思いますか」
「知らん」ガレンは立ち上がった。「だから、私はそれを調べに行く」
「――どこへ」
「東の関だ」
俺は、顔を上げた。
「二十七冊のうち、この国に残ったのは一冊だけだ。残り二十六冊が、どこへ行ったかを、誰も書いておらん」ガレンは外套を取った。「関の帳面には、入った荷は書いてある。出た荷も、たぶん書いてある。……二百年ぶんだ。読むのに、二年か三年かかる」
「一人でですか」
「一人だ。私は、七十一だよ。三年ぶんしか残っておらんかもしれん」
この男は、玄関へ歩いた。戸口で、一度だけ振り返った。
「ヴェント君。薬礼の案は、レンツ殿に置いてきた。財が足りんぶんの計算もだ」
「見ました」
「あれを通しなさい。通せば、二千三百人は数える側に立つ」ガレンは言った。「二年でだ。私は十年と言ったが、君のやり方なら二年でいく。……庭の十六人が、来年、四十人になる」
「なぜ、それを俺に」
「言わなければ、君は五年かけるからだ」
砂利の上で、荷馬車が待っていた。この男は、馬車には乗らなかった。歩いていった。
俺は、門のところに立って、その背中が坂を下りきるまで見ていた。負けても、姿勢が変わらない男だった。最後まで変わらなかった。
その足で、庭へ行った。東の回廊の火桶は、朝の一刻が終わって片づいていた。学監の部屋の戸は開いていた。
イグナーツは、書き物をしていた。杖が、卓の脇に立てかけてある。俺は、原本を卓に置いた。
老人は、筆を止めた。それから、表紙に手を置いた。長く置いていた。開かなかった。
「読めん」
「先生も、ですか」
「私はカルデアの語を知らん。……三十年、書庫の奥にあることだけは知っておった」老人は言った。「一度、出させた。開いて、読めんことを確かめて、戻した」
「学監になられてからですか」
「なる前だ」
「では、なぜ、この夏まで何もなさらなかったのですか」
イグナーツは、はじめて俺の目を見た。「読めんものは、数えられんからだ」
俺は、動かなかった。
「お前が言ったのだろう。数えられんものは、守れんと」老人は言った。「私は、読めん本を三十年、書庫に置いた。置いたまま、瀉血を教えた。……お前の言い方をすれば、私は、あれを名不詳と書いたわけだ」
「先生」
「三冊出せと言ったのは、私だ」イグナーツは筆を置いた。「二冊は目くらましだ。あの若いのが、そこまで気づいたかどうかは知らん」
「気づいていました」
「そうか」
老人は、少し笑った。七年前は、笑う人ではなかった。
「読める者を探せ」
「探します」
「東の関に、荷を扱う者がおる。両方の言葉を使う」イグナーツは言った。「医薬の仕入れをしておった者なら、なお良い。……心当たりが、一人おるだろう」
俺は、その言葉を受け取るのに、少しかかった。
「筆頭は、東の関へ行きました」
「知っておる」
「先生は、あの人と」
「四十年の付き合いだ」イグナーツは言った。「あの男が二十年前に何を読んだかも、いつ読んだかも知っておる。……読んだ日に、あれはうちへ来た。何も言わずに、庭で半日座っておった」
数える部屋に戻って、俺は原本を卓に置いた。読めない字が、二百三年ぶん、そこにあった。
俺は帳面を開いて、三行書いた。
――カルデアの原本、一冊。第一章、未訳。内容=水を分ける、人を離す、数える。
――訳者=オルドの家。二百三年前。当代の名は継がれる。
――二十七冊のうち、この国に一冊。残り二十六冊の行き先、不明。
書いてから、四行目を書いた。
――病を止める章を持っていた家が、いま、病を作っていると言われている。
書いてから、その行を、しばらく見ていた。
消さなかった。
第54話をお読みくださり、ありがとうございます。
三日後、ガレンは王都を出ました。「ない椅子に、座りつづける趣味はないよ」
空になった書斎の卓に置いてあったのは、二百三年前の原本でした。医師団の帳面には「貸し出し」と書いてあり、返す期限は書いていません。
「私は、君に負けたのではない」
壁の紙を貼ったのは、廊下に立っていた三十人でした。質問を出した医者の名も、七十二人が誰かも、この男は一人も知りません。二十年ぶんの帳面と同じやり方で、彼はエリアスを数えていました。だから手は、たいてい読めました。
「だが、あの七十二人は数えられん。私が負けたのは、君にではない。君が作った数え方にだ」
だから渡す、と言います。「君が持てば、君はそれをどこかに書く。書けば、消えん。私が持っていれば、私が死んだ日に消える」
訳者の名は――カルデア、オルドの家。宿場町セルレで聞いた、隣国の毒医師と同じ名です。カルデアでは、医を継ぐ家は名を継ぎます。当代が死ねば、次の当代がオルドになります。
そして訳のいちばん上の行に名がないのは、誰かが消したからではありませんでした。訳者自身が、そこに自分の名を書かなかったのです。
「あなたは、どちらだと思いますか」「知らん。だから、私はそれを調べに行く」
行き先は、東の関でした。二十七冊のうち、この国に残ったのは一冊。残り二十六冊がどこへ行ったかを、誰も書いていません。関の帳面、二百年ぶんを読むのに二年か三年。「私は、七十一だよ。三年ぶんしか残っておらんかもしれん」
この男は、馬車に乗らずに歩いていきました。負けても、最後まで姿勢が変わりませんでした。




