第53話 椅子に座るのは、俺ではない
冬至の午後、俺はまた廊下にいた。
廊下の人数は、百を超えていた。札を持つが免許のない者が、王都じゅうから来ていた。投票はできない。中にも入れない。それでも来ていた。
議場では、二人が最後の一言を述べていた。ガレンが先だった。
「私は、薬礼を配る」この男は言った。「防疫の務めに、区ごとの定額を配る。財は、王室典礼掌の空いた席の費えと、北門と東門の税から回す。……方法は、すでに侍従長と詰めてある」
ざわめきが、大きくなった。具体だ。この男は、いつも最後に具体を出す。詰めてある、と言うときは、本当に詰めてある。
レンツが立った。「わしは、その薬礼に反対せん」
前列の何人かが、身を起こした。「筆頭代行の案は、正しい。わしより先に、正しいことを言った。……ただ一つ、直す」老医師は言った。「配る先を、札の者ぜんぶにする」
「札の者は、千四百二十六名です」誰かが言った。
「そうだ」
「免許のない者が、六百三十六名おります」
「おる」レンツは言った。「その六百三十六人が、この冬、王都で何枚書いたか、わしは数えてきた。……四千二百枚のうち、二千九百枚だ」
俺は、廊下で目を閉じた。その数を出したのは、俺だ。三日前に渡した。渡したとき、レンツは「使うかどうかは、わしが決める」と言った。
「金は、書いた者に払う」レンツは言った。「読める者に払うのではない。書いた者に払う」
議場が、鳴った。投票は、一刻かかった。
読み上げが始まる前、廊下にアルベルが来た。学生は投票できない。それでも来ていた。
「十六人のうち、九人が来ております」
「学監は」
「存じません。……ですが、今朝、回廊の火桶が四つになっておりました」
「三つだったな」
「三つでした」
若い男は、それだけ言って、俺の隣に立った。「ヴェント殿。一つ、伺ってよろしいですか」
「言え」
「もし今日、筆頭代行が勝たれたら、われわれの五十例は、どうなりますか」
「認められない」
「では、われわれは五年に戻りますか」
「戻らない」俺は言った。「認められないまま、書けばいい。認められない紙が千枚たまれば、次の筆頭のときに効く」
「千枚」
「四十人で書けば、一年だ」
アルベルは、議場の戸のほうを見ていた。「……一年なら、待てます」
読み上げは、外まで聞こえた。廊下の百人が、誰も口をきかなかった。
――投票、一千九百八十四。
――レンツ、一千二十三。
――ガレン、九百五十一。
――無効、十。
七十二票の差だった。
廊下の百人は、歓声を上げなかった。上げるつもりだったのかもしれないが、誰も最初の声を出さなかった。井戸番が一人、壁に手をついて、そのまましゃがみこんだ。
俺は、動かなかった。議場で、ガレンが立ち上がるのが見えた。
拍手が起きた。負けた男に対する拍手だ。まばらではなかった。この男は、円の中央まで歩いて、レンツに手を差し出した。
「レンツ殿。おめでとう」
温かい声だった。夏に俺を迎えたのと、同じ声だ。「詰めてある案は、置いていく」ガレンは言った。「侍従長の名も、財の出所も、書いて残す。……配る先を広げるなら、財が足りん。足りんぶんの計算も、置いていく」
「もらう」レンツは言った。
握手は、短かった。
その日の夕方、議場の外で、俺は呼び止められた。
医師団の書記が三人、待っていた。「ヴェント殿。新筆頭のご意向でございます」
「言え」
「特例の免許を、医師団の議により、あなたに授けたいと」
俺は、しばらくその紙を見ていた。免許があれば、患者に触れられる。診られる。書き直しの願いも出せる。西の棟の部屋へ、記帳台で「免許なし」と書かずに入れる。
「断る」
書記が、三人とも顔を上げた。「……理由を、伺ってよろしいでしょうか」
「第二条だ」俺は言った。
「数える者に、医師の免許を要しない。あの条を書いた男が、特例で免許をもらえば、あの条は『例外の条』になる。……ダークは、まだ札を持っていない。ヨナスは、二十四の形を写して試しを通った。あの人たちより先に、俺が免許をもらう理由がない」
「ですが、あなたは――」
「もう一つある」俺は言った。
「俺が免許を持てば、次に俺の位置に立つ者は、免許を持っていなければならなくなる。……免許のない者の道が、そこで閉じる」
書記は、紙を持ったまま、しばらく黙っていた。「……お伝えいたします」
三人が去ったあと、レンツが廊下へ出てきた。「断ったな」
「断りました」
「そう言うと思った」老医師は言った。「わしは、お前が断ることを知っていて、出させた」
「なぜです」
「断ったことが、記録に残る」
俺は、この人の顔を見た。
「医師団の議事に、こう残る。特例の免許を提案し、本人これを辞す。理由、第二条」レンツは言った。「その一行が、来年、札の者に薬礼を配るときに効く」
「……使いましたね」
「使った」
老医師は、廊下の窓の外を見た。もう暗い。「筆頭の椅子に座るのは、わしだ」レンツは言った。「わしは、七十三だ。長くはやらん。三年か、四年だ」
「そのあとは」
「そのあとは、誰かだ」
「誰です」
「知らん」レンツはこちらを見た。「知らんが、お前ではない」
「そうです」
「お前が座れば、この仕組みは、お前の仕組みになる」老医師は言った。「令に自分の名を載せんかった男が、椅子に座ってどうする」
俺は、答えなかった。
廊下の百人は、まだ帰っていなかった。
議場の戸が閉まっても、誰も動かなかった。窓のない廊下は寒い。それでも、立っていた。ダークが、俺のところへ来た。
「終わったんだよな」
「終わった」
「おれの札は」
「まだ出ない」
「そうか」
「だが、来年から、あんたが書いた紙に銭がつく」俺は言った。「札のあるなしではなく、書いたかどうかで払う。……新しい筆頭が、議場でそう言った」
ダークは、しばらく黙っていた。それから、掌の紙を出した。夏からずっと持ち歩いている、断りの書面だ。四つに折れて、縁が擦り切れていた。
「これ、もう要らねえかな」
「持っていろ」
「なんでだ」
「あんたの札が出た日に、その紙と並べる」俺は言った。「断られた日と、出た日の両方が残る。……そのほうが、次に断られる誰かの役に立つ」
井戸番は、その紙をまた四つに折って、懐に戻した。
「陸のもんは、みんな同じことを言う」
「川の親方に、同じことを言われた」
「そりゃそうだ」ダークは笑った。「言われるうちが、まだましだ」
その夜、数える部屋に戻ると、卓の上に紙が一枚あった。クレトが置いたものだ。区の帳面から拾った、この一年の数字だった。
――夏の終わり、徴の紙 千百枚。秋、千四百枚。冬の入り、九百枚。冬至まで、八百枚。
――そのうち、免許のない者が書いたもの 二千九百枚。
――そのうち、ヴェント本人が書いたもの 百四十一枚。
四千二百枚のうち、百四十一枚。夏、俺は七十九日かかると数えた。一人で回れば七十九日、と。
いま、俺が書いたのは、三十枚に一枚だ。
窓の外で、雪が降りはじめた。冬至の夜だ。今日から、日が長くなる。
俺は帳面を開いて、一行書いた。
――百四十一。
書いてから、しばらく見ていた。
少ない、とは思わなかった。
第53話をお読みくださり、ありがとうございます。
ガレンは最後まで具体を出しました。薬礼の財の出所も、侍従長との詰めも。この男は、いつも最後に具体を出します。
レンツの一言は、こうでした。「わしは、その薬礼に反対せん。筆頭代行の案は、正しい。わしより先に、正しいことを言った。……ただ一つ、直す。配る先を、札の者ぜんぶにする」
免許のない六百三十六人が、この冬、四千二百枚のうち二千九百枚を書いています。「金は、書いた者に払う。読める者に払うのではない。書いた者に払う」
投票、一千九百八十四。レンツ、一千二十三。ガレン、九百五十一。七十二票差でした。
廊下の百人は、歓声を上げませんでした。井戸番が一人、壁に手をついて、そのまましゃがみこんだだけです。
そしてエリアスは、特例の免許を断ります。理由は第二条でした。「あの条を書いた男が特例で免許をもらえば、あの条は『例外の条』になる」。もう一つ――「俺が免許を持てば、次に俺の位置に立つ者は、免許を持っていなければならなくなる。免許のない者の道が、そこで閉じる」
レンツは、断ることを知っていて出させました。医師団の議事に「特例の免許を提案し、本人これを辞す。理由、第二条」の一行が残ります。その一行が、来年、札の者に薬礼を配るときに効きます。
「筆頭の椅子に座るのは、わしだ。……知らんが、お前ではない」「そうです」
その夜、卓に置かれていた紙には、この一年の数字がありました。四千二百枚のうち、エリアス本人が書いたのは百四十一枚です。
三十枚に一枚。少ない、とは思いませんでした。




