第52話 私が瀉血を信じなかった理由だ
冬至の朝、俺はガレンの館へ行った。
投票は午後だ。砂利の音で、家の中から誰が来たか分かる。玄関に出てきたのは、この男自身だった。給仕は、もう議場へ出したという。
「今日、来ると思っていたよ」
書斎の卓には、水差しと杯が二つ。夏と同じだ。俺は座らずに、教本を置いた。
「二百三年前、王家がカルデアの医師を呼んだ」
「呼んだ」ガレンは即答した。「五人だ。三人は二年で帰った。二人は残った」
「残った二人は」
「一人は、七年後に王都で死んだ。墓が南の教区にある」ガレンは杯に水を注いだ。「もう一人は、記録がない」
「訳したのは、どちらだ」
「名がない、と書いてあっただろう」
「あなたは知っている」
「知っている」
この男は、一度も否定しなかった。「ヴェント君。座りなさい。今日は、長くならない」
俺は座った。
「二十年前、私は医師団の書庫の奥で、あの本の原本を見た」ガレンは言った。「カルデア語だ。私は若いころ、東の関で二年、医薬を仕入れる仕事をした。読める」
「原本が、まだあるのか」
「ある。誰も読めんから、誰も捨てん」
「何が書いてあった」
ガレンは、杯を置いた。「章が、一つ多い」
俺は、動かなかった。
「訳されたのは、第二章からだ」ガレンは言った。「体液の均衡と、その調え方。……我々が二百年、写しつづけてきたのは、そこから先だ」
「第一章は」
「訳されておらん」
「何が書いてある」
ガレンは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、こう言った。
「水を、分けること。人を、離すこと。数えること」
炉の火の音だけが、しばらく続いた。
「……嘘だ」
「嘘ではないよ」
「二百年前に、この国は――」
「受け取っている」ガレンは言った。「二百三年前の春、東の関から、五人が持ってきた。二十七冊のうちの一冊だ。その第一章に、君が去年の春に辺境でやったことが、ほとんどそのまま書いてある」
俺は、卓の上の教本を見た。写しの写しの写し。二百年ぶんの、十九人の名前。その十九人は、誰一人、第一章を写していない。写す本に、はじめから入っていなかったからだ。
「なぜ、訳さなかった」
「訳させなかったのは、当時の医師団だ」ガレンは言った。「理由は書いてある。第一章の術は、医師を要しない、と」
俺は、息が止まった。
「水を分けるのに、医師は要らん。人を離すのに、医師は要らん。数えるのに、医師は要らん」ガレンは、一つずつ数えるように言った。「第二章は違う。刃が要る。刃を入れるには、学んだ者が要る。学んだ者には、薬礼が要る」
「……二百年前に」
「二百年前に、同じことが起きている」
ガレンは、はじめて、少し疲れた顔をした。「君が令に書いた第二条だよ、ヴェント君。数える者に、医師の免許を要しない。……あれは、二百三年前にこの国が焼いた章だ」
俺は、答えられなかった。
「二十年前、私はそれを読んで、瀉血を信じるのをやめた」ガレンは言った。「信じなかったのではない。信じられなくなった。……効くから残ったのではない。医師が要るから残ったのだと、原本に書いてあったからだ」
「では、なぜ、その章を出さなかった」
「出せば、どうなる」
この男は、俺を見た。「二百年、この国の医者が腕を切ってきたのは、隣国が置いていった本の、二章目だけを写したからだ。一章目は、金にならんから焼かれた。……これを公にすれば、王国の医学は、根こそぎになる」
「根こそぎになれば」
「そのあとに、何が生える」ガレンは言った。「君は、二千三百人を数える側にすると言った。四か月かけて、庭で十六人に教えた。……十六人だ、ヴェント君。根こそぎにするのは一日でできる。生やすのに、君は何年かかる」
俺は、しばらく黙っていた。「二年、と、あなたは言った」
「言った」
「二年かかると言って、あなたは十年もたせると言った」
「言った」
「あなたは、二十年、それを一人で持っていた」
ガレンは、答えなかった。
答えなかったのが、答えだった。
三年前、東水路沿いの十九人が消された。あの男は薬礼の帳面で三百六十人を知っていた。知っていて、公表しなかった。
同じことを、二十年やっている。
書庫の奥に、この国を変えられる一章がある。読めるのは、この男だけだ。読めるのに、出さない。出せば根こそぎになると知っているからだ。
「一つ、伺いたい」俺は言った。「三年前の十九人と、これは、繋がっていますか」
ガレンは、水差しに手を伸ばしかけて、止めた。「繋がってはおらん」
「では、なぜ二つとも、あなたの手の中にある」
「同じ理由だからだ」ガレンは言った。「十九人を公表すれば、城門法で王都が七日閉まる。一章目を公表すれば、王国の医学が閉まる。……私は、閉まるのを止める役だ。二十年、その役をやった」
「誰が、あなたにその役を与えたのですか」
「誰も与えん」
はじめて、この男は少し笑った。皮肉ではない笑い方だった。
「与えられておれば、辞められる。私は、誰にも与えられておらんから、辞められんのだ」
俺は、その言葉を、書き留めたくなった。書き留めなかった。この男が、書き留められることを望んでいない気がしたからだ。
「ヴェント君。君は、今日の投票に勝つかね」
「俺は立っていません」
「レンツ殿は」
「分かりません」
「私は、負けると思っている」ガレンは言った。「壁のあの一枚だ。二つの数字を並べただけの紙が、私の十二回の講習より、よく効いた」
「あなたは、答えました」
「答えたよ。増えております、と」ガレンは杯を置いた。「二十年で、あれがはじめてだ。……議場で本当の数を言ったのは」
「筆頭」
「まだ、筆頭ではないよ」
「今日、あなたが勝ったら、その章を出しますか」
ガレンは、杯を持ち上げた。飲まずに、置いた。「出さん」
「負けたら」
「――そのときは、考える」
俺は立ち上がった。「一つだけ、答えてほしい」
「どうぞ」
「原本の、訳者の欄には、名前があるのか」
ガレンは、俺を見た。はじめて、この男の目が、細くならなかった。夏の書斎で、二千三百人を数える側にすると言ったときと、同じ目だ。
「ある」
「誰だ」
「今日は言わん」
「なぜだ」
「今日は、投票の日だ」ガレンは言った。「私が勝てば、言う必要がない。負ければ、言う」
「勝った場合は、俺は一生知らないことになる」
「そうだ」
俺は、書斎を出た。砂利の上で、一度だけ振り返った。戸口に立って、この男が言った。
「ヴェント君。一つ、覚えておきなさい」
「なんです」
「二百三年前、あの五人は、病を止める章と、医者を要る章を、同じ荷で運んできた」ガレンは言った。「どちらを取るかは、こちらが選んだ。……向こうは、選ばせただけだ」
砂利が、俺の靴の下で鳴った。
「選ばせるのは、渡すより、強いよ」
第52話をお読みくださり、ありがとうございます。
冬至の朝、投票の前に、エリアスはガレンの館へ行きました。
二十年前、この男は医師団の書庫の奥で、あの本の原本を読んでいます。若いころ、東の関で二年、医薬を仕入れる仕事をしてカルデア語を覚えたそうです。
「章が、一つ多い」
訳されたのは第二章からでした。この国が二百年写しつづけてきたのは、そこから先です。
訳されなかった第一章に書いてあったのは――「水を、分けること。人を、離すこと。数えること」。
二百三年前、この国はそれを受け取っています。訳させなかったのは、当時の医師団でした。理由も書き残されています。「第一章の術は、医師を要しない」。
水を分けるのに医師は要りません。人を離すのに医師は要りません。数えるのに医師は要りません。第二章は違います。刃が要り、学んだ者が要り、薬礼が要ります。
「君が令に書いた第二条だよ、ヴェント君。あれは、二百三年前にこの国が焼いた章だ」
ガレンが瀉血を信じなくなった理由は、これでした。効くから残ったのではなく、医師が要るから残ったのだと、原本に書いてあったからです。
出せば王国の医学は根こそぎになります。「根こそぎにするのは一日でできる。生やすのに、君は何年かかる」
訳者の欄に名前はあるそうです。「今日は言わん。私が勝てば、言う必要がない。負ければ、言う」
そして砂利の上で、最後に一言。「二百三年前、あの五人は、病を止める章と、医者を要る章を、同じ荷で運んできた。どちらを取るかは、こちらが選んだ。……選ばせるのは、渡すより、強いよ」




