第51話 最古の教本は、ヴェルダンの言葉ではなかった
訳出、と書いてある以上、もとの本がある。
「原本は」
「受け入れ簿には、ありません」クレトは言った。「訳出とだけ。訳した者の名も、書いてありません」
「二百三年前の、他の受け入れは」
「その年は、十四冊入っております。十三冊は購入で、値が書いてあります。……訳出は、その一冊だけです」
俺は、翌朝、庭へ行った。
冬至の二日前だ。東の回廊に火桶が三つ置いてある。十六人の学生が、朝の一刻、そこで四行の書き方をやっている。
アルベルを呼んだ。
「学校の書庫に、二百年前の本はあるか」
「ございます。閲覧は、教授の許しが要ります」
「許しは」
「わたくしには、出ません」
「学監に頼め」
アルベルの顔が、こわばった。
「……学監は、わたくしが庭へ出ていることを、ご存じです」
「知っている。知らぬと書いた方だ」
若い男は、しばらく回廊の石を見ていた。それから、行った。戻ってきたのは、昼だった。
「三冊、出していただけました」
三冊のうち、一冊が瀉血の教本だった。
『体液の均衡と、その調え方について』。羊皮紙で、綴じ直した跡が四回ある。二百年、使われてきた本だ。この国の医者は全員、この本を写したもので学ぶ。
俺は、頁を繰った。図がある。腕の血の道。刃を入れる位置。深さ。血を受ける器の形。字は、ヴェルダンの字だ。読める。
「訳です」アルベルが言った。「訳の写しの、そのまた写しです」
「もとの本は」
「書庫にはございません。……ですが」
若い男が、最後の頁をめくった。奥付だ。書き写した者の名前が、代々、下へ足されている。二百年ぶんで、十九人。
いちばん上の一行だけ、字が違った。墨の色も違う。もっと黒い。羊皮紙に食い込んでいる。そこに、一行あった。
――カルデアの語より、これを訳す。
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
「訳した者の名は」
「ございません。……このあとの行に、写した者の名が続くのですが、いちばん上の行だけ、名がありません」
「消してあるのか」
「いえ」アルベルは、羊皮紙を光にかざした。「削ってはおりません。はじめから、書かれておりません」
クレトが、その日の午後、王都の記録庫で二百三年前を洗った。
二百三年前の受け入れ簿に、その本がどこから来たかは書いていない。だが、王都の門の通行の帳面が、同じ年のぶんだけ、残っていた。
門の帳面には、金がかかる。荷を持って入る者からは、関の銭を取るからだ。
「二百三年の春」クレトが読み上げた。「東の関より、カルデアの医師、一行五名。荷、書物二十七冊。関の銭、免除」
「免除」
「はい。……免除の理由が、書いてあります」
「読め」
「――王家の招きによる」
クレトが、帳面を閉じた。
「王家が、呼んだのか」
「二百三年前の王家です」クレトは言った。「ヴェルダンで疫が出た年です。年代記に、その年、南で人が多く死んだとあります」
「病を止めるために、隣国から医師を呼んだ」
「そう読めます」
俺は、教本を卓に置いた。
二百三年前、この国は疫に負けていた。だから隣国から医師を呼んだ。医師は書物を二十七冊持ってきた。そのうち一冊が訳され、この国の医学の背骨になった。
背骨になって、二百年たった。その二百年で、この国は、疫のたびに人を失いつづけている。
「エリアス」ミレイユが、教本を覗き込んでいた。「ねえ、これ、見て」
「なんだ」
「この図の、ここ」
ミレイユが指したのは、血を抜くための刃の図だった。柄の端に、小さな飾りが描いてある。
三本の線が寄って、輪になっている。
俺は、その図を、動かなかった。見たことがある。
宿場町セルレで、査察官ヴェイルが使っていた瀉血刀の柄に、同じ形が打ってあった。あのとき俺は、それを写して帳面に挟んだ。ヴェルダンの意匠ではないと、テオが言った。
「エリアス、あなた、これ――」
「持ってこい」俺は言った。「三冊のほうの帳面だ。夏の前の頁に、写しが挟んである」
ミレイユが走った。戻ってきて、挟んだ紙を出した。二枚を並べた。セルレで写した紋と、二百三年前の教本の図。
同じだった。線の寄り方も、輪の閉じ方も、同じだ。写し損じの分だけ、俺の写しのほうが線が太い。
「……同じ」ミレイユが言った。「同じよ、これ」
「同じだ」
俺は、二枚をそのままにして、椅子の背に体を預けた。
宿場町の瀉血刀に、隣国の紋があった。あのとき俺は、それを隣国の医学の残滓だと思った。古い刃が流れてきたのだろう、と。
違った。
残滓ではない。背骨だ。
この国の医者が二百年、腕を切りつづけてきたやり方は、二百三年前にカルデアから来た五人が置いていったものだ。
そして、その本を訳した者の名前だけが、はじめから書かれていない。
「クレト」
「はい」
「この話を、いま知っているのは」
「わたしと、ヴェント殿と、ミレイユ殿。それと、アルベル殿です」
「学監は」
クレトが、口をつぐんだ。
「……三冊を出せと申しましたのは、学監です」
その晩、アルベルが庭から出てきた。回廊の火桶は、もう片づいていた。
「学監が、わたくしに伝言をくださいました」
「言え」
「三冊のうち、二冊は要らなかったはずだ、と」
俺は、教本を見た。三冊出してもらって、開いたのは一冊だ。
「二冊は、目くらましか」
「そうだと思います。……書庫の出納には、三冊と書かれます。一冊だけ出せば、何を見に来たかが残りますので」
「そこまで」
「はい」アルベルは言った。「それと、もう一言」
若い男は、そこで少し言いよどんだ。
「――名がないのは、消したからではない。あの本を入れた者が、はじめから名を置いていかなかったのだ、と」
俺は、その言葉を三度、頭の中で繰り返した。置いていかなかった。
写しを取らせず、名を残さず、二十七冊を持ってきて、一冊だけ訳させた。訳させたものが、二百年、この国の医学の背骨になった。
「アルベル」
「はい」
「学監は、いつからそれを知っている」
「存じません」
「訊いてくれ」
「訊きました」若い男は言った。「お答えは、一言でした。……『お前が生まれる前だ』と」
その晩、ミレイユは帰らなかった。
数える部屋の隅で、教本の頁を一枚ずつめくっていた。字は読める。この娘は、辺境で帳面をつけているうちに、たいていの字が読めるようになった。
「ねえ、エリアス」
「なんだ」
「この本、やさしいことが書いてあるわ」
俺は、筆を止めた。
「やさしい?」
「うん」ミレイユは頁を指した。「ここ。血を抜くときは、患者の顔から目を離すな、って書いてある。顔色が変わったら、すぐ止めろ、と。……こっちには、水を飲ませろって」
俺は、その頁を読んだ。書いてあった。
刃を入れる前に、患者に触れて、手が冷たくないかを見る。抜きすぎるな。抜いたあとは、必ず水と塩を与える。三日、毎日見に行く。
「……ヴェイルは、こんなことをしていなかった」
「してなかったわね。桶いっぱい抜いてた」
俺は、頁を戻した。二百年で、この本は写しの写しの写しになった。写すたびに、線が太くなり、図が単純になった。
そして、面倒なところが落ちていった。
顔から目を離すな。抜きすぎるな。三日、見に行く。――手間のかかる一行から、順に消えている。
残ったのは、刃を入れる位置と、深さだけだ。
「エリアス。これ、あなたの四行と、似てない?」
「似ている」
「じゃあ、あの人たち、二百年前は――」
「数えていたのかもしれない」
俺は、そう言って、自分の言葉に手が止まった。
二百三年前にこの国へ来た五人は、少なくとも、患者の顔を見ろと書いた。手が冷たくないかを見ろと書いた。三日、通えと書いた。
その本を訳した者は、名を置いていかなかった。
置いていかなかった理由が、二つ考えられる。名乗る立場になかったか――名乗らずに置いていくつもりだったか。
冬至の前夜、雪が降った。数える部屋の窓が白くなった。俺は、教本の奥付の一行を、もう一度見ていた。
――カルデアの語より、これを訳す。
名前がない。
三年前、記録庫で頁が削られたときには、削り跡が残った。跡が残ったから、審問で反転できた。
これは、削られていない。
はじめから、書かれていない。
書かれていないものは、跡も残らない。
第51話をお読みくださり、ありがとうございます。
「訳出」と書いてある以上、もとの本があります。
王立アーレンス医学校の書庫から三冊出してもらい、瀉血の教本の奥付をめくると、二百年ぶん十九人の写し手の名が下へ続いていました。いちばん上の一行だけ、字も墨の色も違います。
「――カルデアの語より、これを訳す」
訳した者の名は、削られてはいません。はじめから書かれていません。
そして王都の記録庫の門の帳面が、同じ年を残していました。門の帳面には金がかかります。荷を持って入る者から関の銭を取るからです。「二百三年の春、東の関より、カルデアの医師、一行五名。荷、書物二十七冊。関の銭、免除」――理由は「王家の招きによる」。
二百三年前、この国は疫に負けていました。だから隣国から医師を呼び、その一冊がこの国の医学の背骨になりました。背骨になって二百年、この国は疫のたびに人を失いつづけています。
そして教本の刃の図の柄に、小さな飾りがありました。三本の線が寄って、輪になっている。
宿場町セルレで、査察官ヴェイルの瀉血刀の柄に打たれていた紋です。エリアスはあのとき、それを隣国の医学の残滓だと思いました。
残滓ではありませんでした。背骨です。
三年前、記録庫で削られた頁には、削り跡が残りました。跡が残ったから、審問で反転できました。
これは、はじめから書かれていません。書かれていないものは、跡も残りません。




