第50話 二つの数字が、並んで貼り出された
医師団の壁には、貼れない。
だが、区の役所の壁には貼れる。令の施行の状況を区に知らせるのは、区役所の役目だ。第一区から第八十区まで、どの役所にも、令の写しを貼った壁がある。
その壁に、夏から、ガレンの一枚目と同じ紙が貼ってあった。届出は四分の一に減じたり、という紙だ。
俺は、その隣に貼る紙を作った。作るのに、二日かかった。
難しかったのは、数字を集めることではない。集めた数字は、夏の終わりから数える部屋にある。難しかったのは、並べ方だ。
「五つ、全部書けばいいじゃない」ミレイユが言った。「埋葬も、当番も、井戸も、欠勤も、パン屋も」
「五つ書けば、誰も読まない」
「なんで」
「読む者は、井戸番だ。市の当番だ。パン屋だ」俺は言った。「あの人たちは、壁の前に一刻も立たない。立つのは、十を数えるあいだだ」
十を数えるあいだに、伝わるものでなければ意味がない。
三日目の朝、俺は一枚に決めた。
紙の左に、一行。
――届出(医者が灰死病と書いた数) 夏 百に対して いま 二十五
紙の右に、一行。
――埋葬の許可(役所が銭を取って出した数) 夏 百に対して いま 百三十
その下に、二行だけ書いた。
――どちらも、本当の数です。
――どちらも、この王都で数えられています。
「……これだけ?」ミレイユが覗き込んだ。
「これだけだ」
「嘘だって、書かないの」
「嘘ではない」
俺は筆を置いた。
「届出は本当に四分の一だ。埋葬は本当に一・三倍だ。両方とも、王国の帳面に載っている。……嘘だと書けば、こっちが片方を消したことになる」
「じゃあ、読んだ人は、どう思うの」
「分からない」俺は正直に言った。
「分からないが、二つ並べれば、片方だけ見ることはできなくなる」
八十区に配ったのは、冬至の五日前だ。配ったのは、俺ではない。廊下に立っていた三十人だ。
議場に入れず、寒い廊下で中を覗いていた井戸番と書記と市の当番が、二日で八十枚を貼って回った。誰にも頼んでいない。第八十区のヨナスが一枚持って帰って、それを見た者が、隣の区に持っていった。
「エリアス」四日目にミレイユが走り込んできた。「第四十四区、貼ってあった。第四十五区も」
「誰が貼った」
「知らない。訊いたら、隣の区の人が持ってきたって」
「そうか」
三日で、七十六区に貼られた。貼られなかった四区のうち、二つは区長が剥がした。二つは、貼られたあとで破られた。
破られた二枚は、翌日また貼られていた。そのうち一枚は、第五十三区だった。
ダークが、その話をしに来た。読み上げの試しで落ちた井戸番だ。掌に載せた断りの書面を、いまも持ち歩いている。
「破ったのは、区の医者だ」ダークは言った。「見てた。夜だ」
「止めたか」
「止めねえよ。止めたら、こっちが悪くなる」
「では、どうした」
「朝まで待って、貼り直した」ダークは肩をすくめた。「そしたら、次の晩は破られなかった」
「なぜだと思う」
「知らねえ」井戸番は言った。「……だが、破ったやつ、次の日、おれのとこに来た。何が書いてあるんだ、と訊いた」
俺は、顔を上げた。
「あんた、読めるのか」
「読めねえよ」ダークは笑った。「だから、こう言った。左のは、あんたら医者が書いた数だ。右のは、役所が銭を取って書いた数だ。……そう聞いたと、書記が言ってた、と」
「そう言ったのか」
「そう言った。そしたら、あいつ、しばらく突っ立ってた」
俺は、その男の名を訊かなかった。訊けば書くことになる。破った者の名は、書かないほうがいい。
「ヴェント殿」ダークが、帰りぎわに言った。「一つ、教えてくれ」
「言え」
「おれの札は、まだ出ねえのか」
「出ない」
「そうか」
「出ないが、あんたが書いたものは、区の帳面に載っている」俺は言った。「札のある者に頼んで書かせた紙だ。あの紙の隅に、あんたの名前が入っている。俺が入れさせた」
ダークは、しばらく黙っていた。
「……載ってんのか」
「載っている」
「じゃあ、いい」
そう言って、この男は帰っていった。
冬至の二日前、医師団の総会で、質問が出た。
俺は、また廊下にいた。今度は、廊下に六十人いた。立ったのは、四十くらいの医者だった。名前は知らない。
「筆頭代行に伺います」その男は言った。「区の壁に、二つの数字が並べて貼られております。届出は四分の一、埋葬の許可は一・三倍と」
円の中で、紙をめくる音が止まった。
「読みました」ガレンは言った。
「どちらが、本当でございますか」
「両方とも本当です」
議場が、ざわついた。
「私は、届出が四分の一になったと申し上げた。それは本当です」ガレンは言った。「埋葬が一・三倍になったのも本当です。私は、それを二十年、別の帳面で数えております」
「では、なぜ埋葬のほうを公示なさらなかったのですか」
「埋葬の許可は、灰死病の数ではないからです」
正しい答えだ。
埋葬の許可には、病名の欄がない。老衰も、産の熱も、事故も、全部まざっている。まざったものを灰死病の数として出せば、それは医学ではない。
「では、伺い方を変えます」四十の医者は引かなかった。「筆頭代行。この冬、王都で寝ておる者は、増えておりますか。減っておりますか」
ガレンは、答えなかった。はじめてだった。この男が答えないのを、俺は一度も見ていない。
「――増えております」
しばらくして、そう言った。
議場は、鳴らなかった。
「私は、それを知っております」ガレンは言った。声の温度は変わらなかった。「知っていて、届出の数を公示いたしました。届出の数は、令の定める数だからです。……令の外の数を筆頭が公示すれば、令が二つになります」
「では、我々は何を見ればよろしいのですか」
「両方です」ガレンは言った。
「壁に貼られたあの紙は、正しい。……あれを書いた者は、私が四分の一と申し上げたことを、一度も嘘だと書いておりません」
廊下の六十人が、顔を見合わせた。俺は、動かなかった。
議場を出るとき、ガレンが廊下を通った。人の列の外側を歩いて、俺のところで足を止めた。
「よく貼ったね」
「あなたが答えるとは、思わなかった」
「答えねば、票が動く」ガレンは言った。「答えても動く。……どちらでも動くなら、答えたほうが、あとで使える」
「使う気ですか」
「使うとも」この男は、いつもの目の細め方をした。「私は、負けたことがないわけではないよ、ヴェント君。負け方の上手い者が、長く残る」
そう言って、廊下を歩いていった。
その晩、数える部屋にクレトが遅く戻ってきた。外套に雪がついていた。
「ヴェント殿。もう一つ、洗っている帳面がございます」
「言え」
「四つの医学校の、教本の受け入れ簿です」
俺は、筆を置いた。
「なぜ、それを」
「庭の学生が、申しました」クレトは言った。「アルベル殿です。……卒業の症例を五十、区で書けるかどうかを学監に問いに行ったところ、二百年前からの決まりだと言われたそうで」
「決まりの出所を、調べたのか」
「調べました。……ヴェント殿」
若い記録庫係の指が、震えていた。隠しているときの震えではない。見つけたときの震えだ。
「最古の教本が、王立アーレンス医学校に入ったのは、二百三年前です。受け入れ簿に、購入とも寄進とも書いてありません」
「では、なんと」
「――訳出、と」
第50話をお読みくださり、ありがとうございます。
医師団の壁には貼れません。けれど八十区の役所の壁には貼れます。
エリアスが二日かけて悩んだのは、数字を集めることではなく、並べ方でした。読むのは井戸番や市の当番です。壁の前に一刻も立ちません。立つのは、十を数えるあいだです。
できた一枚は、二行と、二行でした。
「届出(医者が灰死病と書いた数) 夏 百に対して いま 二十五」
「埋葬の許可(役所が銭を取って出した数) 夏 百に対して いま 百三十」
「どちらも、本当の数です」「どちらも、この王都で数えられています」
嘘だとは書きませんでした。「嘘だと書けば、こっちが片方を消したことになる」
貼って回ったのは、議場に入れず寒い廊下に立っていた三十人です。誰も頼んでいません。三日で七十六区に貼られ、破られた二枚は翌日また貼られていました。
総会で質問が出ます。「この冬、王都で寝ておる者は、増えておりますか。減っておりますか」
ガレンは、はじめて答えるのに間を置きました。「――増えております。私は、それを知っております。知っていて、届出の数を公示いたしました」
そして廊下で、この男はこう言います。「よく貼ったね」「あなたが答えるとは、思わなかった」「答えねば票が動く。答えても動く。どちらでも動くなら、答えたほうが、あとで使える」
その晩、雪をつけて戻ったクレトが持ってきたのは、四つの医学校の教本の受け入れ簿でした。二百三年前、最古の教本は購入とも寄進とも書かれていません。
「――訳出、と」




